バレンタイン(フクマキ・ミツグ)
どうやら少しの間、私の思考は停止していたらしい。気がつけば、紫関先輩とストーカーさんが去った方向へ顔を向けたまま、佇んでしまっていた。
まだ一日は始まったばかり。しかし何だろう、この疲労感。
(……とりあえず、上履きに履き替えよう……)
気を取り直し、私は体の向きを変えた。と――。
(っ!?)
「……」
なんと、下駄箱の隅に知り合いの姿を発見した。
「リューくん!? いたの!?」
「……」
彼は、私が顔を向けていたのと同じ方向を見つめ、不気味そうに表情をこわばらせていた。
私は彼に近づいた。
「お、おはよう。えーと……今の、見てた?」
「……うん。一部始終」
まだ呆気に取られた様子ながら、リューくんは一応、答えてくれた。
「えーと……ご、ごめんね? あの人のことは気にしないで?」
なぜか責任を感じ、私は思わず謝った。私が悪いわけではないはずだが。
「い、いや、気になるよ?」
リューくんはようやく正常に動き始めた。見つめていた方向からぎこちなく顔を逸らし、私を見る。
「今の、レイ兄だよね? 何回見ても信じらんないんだけど。ほんとにどうしちゃったの、アノ人? エルちゃん、いったい何したの?」
「何もしてないよ!」
ただちょっと、踏んづけてしまっただけだ。
――ん?
「……え? 『レイ兄』?」
「うん。俺はそう呼んでる」
そういえば、紫関先輩の下の名前は『零』だ。
「……リューくん、紫関先輩とも幼なじみなの?」
この人は、幼なじみのミリちゃんのことを『ミリ姉』と呼ぶ。それと同じ理屈だろうか。
「ん〜。ちょっと違うかなあ」
リューくんはにこっと笑った。
「レイ兄はね――子供の頃の、入院仲間」
「……え」
「俺、昔は体弱くてさ〜」
「……同じ病室だったの?」
「いや、場所は全然ベツ。レイ兄のほうは怪我だったから。けど、院内で偶然知り合ったんだ〜」
「そうなんだ……」
「うん。アノ人、その頃からキツイ性格でさ〜」
「……」
微妙な話題だったろうか。リューくんの表情は明るいが、詳しく踏み込んでいいのかどうかは分からない。
判断に迷ったので、私はつい、当たり障りのないことを言った。
「そっか。でもリューくん、今はすっかり頑丈になったね」
「へへっ、まあね〜」
リューくんは照れたような顔をした。
「ミリ姉に追っかけられても捕まらなくなったし、シメられてもすぐ復活できるようになったよ!」
「基準、ソレなの!?」
いったいいつから追いかけっこを繰り広げているんだ、君たちは?
「――って、ああっ! そうだ、ミリ姉!」
ふいに、リューくんはハッとした様子で下駄箱を振り返った。
「えっ、もうミリちゃんが来る時間? 早くない?」
「違うよ! ――あ〜、駄目だ。今からじゃ間に合わないや」
腕時計を確認し、彼はサムライ口調で「無念!」と呟いた。
「えっ、今日はまだ作品仕掛けてなかったの?」
「うん。レイ兄に目を奪われてフリーズしちゃってたよ〜」
「……。ごめん」
ということは、ミリちゃんは今日、静かな朝を迎えられるわけか。彼女のためにはいいことをしたかもしれない。
――いや、紫関先輩の言動について、私に監督義務はないはずだが。
「まあいいや〜。他のは全部仕込み終わったし!」
「えっ、そうなの?」
――すまない、ミリちゃん。私が守れたのは朝の平穏だけだった。
「レイ兄も元気そうで良かったよー。『元気』と『マトモ』は違うみたいだけど。なんか幸せそうだったねー」
「……」
リューくんは無邪気に、わりと辛辣なことを言った。
「……『元気そうで良かった』? リューくん、紫関先輩に会うのは久しぶりだったの?」
「うん。今はほとんど付き合いないからねー」
なるほど。ミリちゃんと違って、幼少時の関係は継続されずに途絶えた状態らしい。そういえば、リューくんと紫関先輩が喋っているところは見たことがない。
「ところで、エルちゃん。いつの間に親衛隊なんて出来たの?」
彼はふと、不思議そうにクマを見た。奴は元の位置で、律儀に荷物を持ったまま待っている。
「レイ兄、『入隊したい』とか騒いでなかった? 放っといて大丈夫? アレ」
「いや、親衛隊なんかないよ!? あれはあの人が勝手に言ってるだけだから! 半分ぐらい冗談だよ!?」
十碧くんじゃあるまいし。
「ふーん。てことは、単なるレイ兄除けの呪文なんだ? エルちゃんも大変だねー」
「えっ!? ま、まあね……」
紫関先輩を牽制するための呪文? 『親衛隊』が?
……言い得て妙かもしれない……。
「――あっ、そうだ」
顔を戻し、リューくんは人懐っこく笑った。
「ねーねー、エルちゃん。俺にもチョコちょーだいっ」
「あ、うん。もちろん」
すると、まるで会話が聞こえていたかのように――実際、聞いていたんだろうけど――クマがこちらへやってきた。
「ん? これか?」
リューくんに怪しまれないようにするためだろう。いかにも『会話は聞いてないけど雰囲気で察した』ふうに装って、奴は私へバラまき用の紙袋を差し出した。
「えーと、フクマキさん……だっけ? 初めましてー」
リューくんは明るく挨拶した。
「俺、中等部三年の小椚流哉。リューでいいよ。よろしくー」
「そうか。オレは高等部一年の福万来貢だ」
何だか縁起のよさそうな偽名を名乗り、クマは軽く笑った。
「エルム。ほら」
「うん」
促され、私は奴の持つ紙袋から、ブラウニーを一つ取った。
「リューくん。はい、どうぞ」
「わー、アイドルのイベントみたいー」
「……」
実は今、自分でもちょっとそう思った。
「へへっ。エルちゃん、ありがとー」
それはともかく、リューくんは嬉しそうにブラウニーを受け取ってくれた。
「おぉっ、美味しそう! これ、どこの?」
「私が作ったやつだよ」
「自分で!? えー、凄い! へへっ、エルちゃんから手作りチョコ貰っちゃった〜」
(……)
にこにこと喜ぶ彼を見ると、私も和んだ。しかし、どうしてこうも紫関先輩とは印象が違うのか。
(『チョコを貰って喜ぶ』っていう行為自体は同じなのに……)
紫関先輩を見て和んだことなど、一度もない。
人のイメージは行動ではなく、個性で決まるらしい……。




