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エルム、エルム  作者: 十枝内 清波
一年生
89/341

バレンタイン(フクマキ・ミツグ)

 どうやら少しの間、私の思考は停止していたらしい。気がつけば、紫関先輩とストーカーさんが去った方向へ顔を向けたまま、佇んでしまっていた。

 まだ一日は始まったばかり。しかし何だろう、この疲労感。

(……とりあえず、上履きに履き替えよう……)

 気を取り直し、私は体の向きを変えた。と――。

(っ!?)

「……」

 なんと、下駄箱の隅に知り合いの姿を発見した。

「リューくん!? いたの!?」

「……」

 彼は、私が顔を向けていたのと同じ方向を見つめ、不気味そうに表情をこわばらせていた。

 私は彼に近づいた。

「お、おはよう。えーと……今の、見てた?」

「……うん。一部始終」

 まだ呆気に取られた様子ながら、リューくんは一応、答えてくれた。

「えーと……ご、ごめんね? あの人のことは気にしないで?」

 なぜか責任を感じ、私は思わず謝った。私が悪いわけではないはずだが。

「い、いや、気になるよ?」

 リューくんはようやく正常に動き始めた。見つめていた方向からぎこちなく顔を逸らし、私を見る。

「今の、レイ兄だよね? 何回見ても信じらんないんだけど。ほんとにどうしちゃったの、アノ人? エルちゃん、いったい何したの?」

「何もしてないよ!」

 ただちょっと、踏んづけてしまっただけだ。

 ――ん?

「……え? 『レイ兄』?」

「うん。俺はそう呼んでる」

 そういえば、紫関先輩の下の名前は『零』だ。

「……リューくん、紫関先輩とも幼なじみなの?」

 この人は、幼なじみのミリちゃんのことを『ミリ姉』と呼ぶ。それと同じ理屈だろうか。

「ん〜。ちょっと違うかなあ」

 リューくんはにこっと笑った。

「レイ兄はね――子供の頃の、入院仲間」

「……え」

「俺、昔は体弱くてさ〜」

「……同じ病室だったの?」

「いや、場所は全然ベツ。レイ兄のほうは怪我だったから。けど、院内で偶然知り合ったんだ〜」

「そうなんだ……」

「うん。アノ人、その頃からキツイ性格でさ〜」

「……」

 微妙な話題だったろうか。リューくんの表情は明るいが、詳しく踏み込んでいいのかどうかは分からない。

 判断に迷ったので、私はつい、当たり障りのないことを言った。

「そっか。でもリューくん、今はすっかり頑丈になったね」

「へへっ、まあね〜」

 リューくんは照れたような顔をした。

「ミリ姉に追っかけられても捕まらなくなったし、シメられてもすぐ復活できるようになったよ!」

「基準、ソレなの!?」

 いったいいつから追いかけっこを繰り広げているんだ、君たちは?

「――って、ああっ! そうだ、ミリ姉!」

 ふいに、リューくんはハッとした様子で下駄箱を振り返った。

「えっ、もうミリちゃんが来る時間? 早くない?」

「違うよ! ――あ〜、駄目だ。今からじゃ間に合わないや」

 腕時計を確認し、彼はサムライ口調で「無念!」と呟いた。

「えっ、今日はまだ作品仕掛けてなかったの?」

「うん。レイ兄に目を奪われてフリーズしちゃってたよ〜」

「……。ごめん」

 ということは、ミリちゃんは今日、静かな朝を迎えられるわけか。彼女のためにはいいことをしたかもしれない。

 ――いや、紫関先輩の言動について、私に監督義務はないはずだが。

「まあいいや〜。他のは全部仕込み終わったし!」

「えっ、そうなの?」

 ――すまない、ミリちゃん。私が守れたのは朝の平穏だけだった。

「レイ兄も元気そうで良かったよー。『元気』と『マトモ』は違うみたいだけど。なんか幸せそうだったねー」

「……」

 リューくんは無邪気に、わりと辛辣なことを言った。

「……『元気そうで良かった』? リューくん、紫関先輩に会うのは久しぶりだったの?」

「うん。今はほとんど付き合いないからねー」

 なるほど。ミリちゃんと違って、幼少時の関係は継続されずに途絶えた状態らしい。そういえば、リューくんと紫関先輩が喋っているところは見たことがない。

「ところで、エルちゃん。いつの間に親衛隊なんて出来たの?」

 彼はふと、不思議そうにクマを見た。奴は元の位置で、律儀に荷物を持ったまま待っている。

「レイ兄、『入隊したい』とか騒いでなかった? 放っといて大丈夫? アレ」

「いや、親衛隊なんかないよ!? あれはあの人が勝手に言ってるだけだから! 半分ぐらい冗談だよ!?」

 十碧くんじゃあるまいし。

「ふーん。てことは、単なるレイ兄除けの呪文なんだ? エルちゃんも大変だねー」

「えっ!? ま、まあね……」

 紫関先輩を牽制するための呪文? 『親衛隊』が?

 ……言い得て妙かもしれない……。

「――あっ、そうだ」

 顔を戻し、リューくんは人懐っこく笑った。

「ねーねー、エルちゃん。俺にもチョコちょーだいっ」

「あ、うん。もちろん」

 すると、まるで会話が聞こえていたかのように――実際、聞いていたんだろうけど――クマがこちらへやってきた。

「ん? これか?」

 リューくんに怪しまれないようにするためだろう。いかにも『会話は聞いてないけど雰囲気で察した』ふうに装って、奴は私へバラまき用の紙袋を差し出した。

「えーと、フクマキさん……だっけ? 初めましてー」

 リューくんは明るく挨拶した。

「俺、中等部三年の小椚流哉。リューでいいよ。よろしくー」

「そうか。オレは高等部一年の福万来貢だ」

 何だか縁起のよさそうな偽名を名乗り、クマは軽く笑った。

「エルム。ほら」

「うん」

 促され、私は奴の持つ紙袋から、ブラウニーを一つ取った。

「リューくん。はい、どうぞ」

「わー、アイドルのイベントみたいー」

「……」

 実は今、自分でもちょっとそう思った。

「へへっ。エルちゃん、ありがとー」

 それはともかく、リューくんは嬉しそうにブラウニーを受け取ってくれた。

「おぉっ、美味しそう! これ、どこの?」

「私が作ったやつだよ」

「自分で!? えー、凄い! へへっ、エルちゃんから手作りチョコ貰っちゃった〜」

(……)

 にこにこと喜ぶ彼を見ると、私も和んだ。しかし、どうしてこうも紫関先輩とは印象が違うのか。

(『チョコを貰って喜ぶ』っていう行為自体は同じなのに……)

 紫関先輩を見て和んだことなど、一度もない。

 人のイメージは行動ではなく、個性で決まるらしい……。



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