バレンタイン(ファンサービス)
朝。いつもよりだいぶ早く、私はマンションを出た。
「エルム、エルム」
――直後、クマが忽然と現れた。
今日は偽装モードだ。平凡な男子の姿で、冷泉院の制服を着ている。
「おはよう。すげえ荷物だな。ほら、持ってやる」
「おはよう。いいの? ありがとう」
普段、私が学校へ持っていく荷物はたいてい三つ――鞄、ランチトート、そしてデザートを入れた紙袋だ。
しかし今日はもう一つ、デザートとは別の大きな紙袋を持参している。それをクマへ渡そうとしたら、奴は残りの荷物も全て私から取り上げた。
そしてデザートではないほうの紙袋の中をちらっと見て、口を開く。
「バレンタインのバラまき用か、これ」
「バラま……ま、まあね」
由和さんと同じ言い方だ。
そう、本日は二月十四日――バレンタインデーである。私はとりあえずクラスメイト全員分と、その他の知り合い用、あとは予備として数個、ブラウニーを用意していた。
ブラウニーは、アメリカで生まれたバターケーキの一種だ。表面はサクッとして中はしっとりした、ケーキとクッキーの中間みたいなお菓子である。この名前は、ココアやチョコレートを加えた生地の色から来ているという。
今回、私が作ったのはミックスナッツ入りのブラウニーだ。表面はチョコレートでコーティングして、上部にはナッツ類をびっしり載せてある。四センチぐらいずつに切り分けたが、結構ずっしりした食べ応えだ。
「ん? 一個だけ違うな」
「……ああ。それ?」
ブラウニーは一つ一つ小さなビニール袋でラッピングし、リボンを結んである。しかしそれとは別に一個だけ、包装紙を掛けた箱のプレゼントを用意してあった。
「本命用か?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどね……」
私はちょっと笑った。
「――あっ、そうだ。あんたの分はチョコレートパフェだよ」
ふと思い出し、そう告げる。
「帰ったら作ってあげるね」
「そうか。そりゃどうも」
クマは肩をすくめた。
学校に到着した。時間が早いので、まだ他の生徒の姿は見えない。
「じゃあ、クマ。また後でね」
私は荷物を受け取ろうと手を伸ばしたが、奴はその手を無視した。
「教室まで運んでやるよ」
「えっ、いいの? ありが――」
「あああああっ!」
(へっ!?)
突如、雄叫びが響いた。
「何してるんだお前! 篠沢恵瑠夢と一緒に登校!? しかも荷物持ちだとぉっ!?」
誰かが凄い勢いでやってくる。
……紫関先輩だ……。
「親衛隊の特権か!? ずるい! ずるいぞ、お前ぇっ!」
たちまち我々のそばまで突進すると、彼は苦悶の表情を浮かべた。
「俺だって篠沢恵瑠夢と登下校したい! 寄り道したり荷物運んだりしたい! ていうか、朝から晩までずっと一緒にいたいぃっ!」
「え――っ!?」
登下校と寄り道はともかく、「荷物を運びたい」というのは何だ。どういう願望ですか、紫関先輩!
「くくく……」
私は目をむいたが、クマは動じない。面白そうに先輩を見ている。
「おはよう――紫関センパイ?」
「……」
奴は、明らかに馬鹿にした口調で挨拶した。それは耳に届いたらしく、先輩はピタッと悶絶を止める。
代わりに――凍てつく目で、彼はクマを睨みつけた。
(ヒッ)
私はビクッとした。この人は、本来の美貌が復活すると凄まじい迫力を発揮する。
「お前……」
「ん? どうかしたか? オレは挨拶しただけだぜ?」
クマは全く動じず、からかうような笑みを浮かべた。
「あんたにはその程度の礼儀もないのか? そんな奴はいつまで経っても親衛隊には入れねえなあ」
「――んだと?」
(げ)
先輩の機嫌が急降下した。何やら冷気が発生している。
「ちょっと、クマ!」
「何だよ。間違ったことは言ってないぞ」
「正論だって波風は立つよ!」
無駄に先輩を挑発しないでほしい。
「……『クマ』……?」
氷の眼差しを向けたまま、先輩は呟いた。
「ああ。オレの名前、『フクマキ・ミツグ』っていうんだ」
と、奴はその呟きに答えた。
(へっ!?)
名前あったのか、偽装モード。
「なっ……!?」
それを聞き、なぜか先輩は目をむいた。
「『フクマキ』だから『クマ』!? 篠沢恵瑠夢に愛称で呼んでもらえるのか、親衛隊は!」
「ええっ!?」
そんなことで驚かないで下さいよ、紫関先輩!
「い、いや、愛称ぐらい友達でも普通に呼びますよ!?」
「ああぁ、羨ましい! 俺だって愛称とか下の名前とかで呼ばれたい! あの声で『零』って言ってほしいぃっ!」
「聞いてます!?」
この人は唐突に悶え始める。
「なあっ、どうすればいい!? いくら払えば入隊させてくれる!?」
「えええっ!? お金の問題じゃないです!」
「じゃ、何をすればいいっ!? 何でもするぞ!」
(うっ……)
真剣な瞳で見つめられた。
この人、本気だ!
(怖っ!)
「ふーん……」
クマは意味ありげに目を細めた。
「何でも?」
――途端、先輩は再び奴を睨む。
「お前には言ってない」
「へえ。忘れるなよ? 隊長はオレなんだぜ。エルムの公認だ」
――公認した覚えはないよ?
「『エルム』!? 篠沢恵瑠夢を下の名前で呼べるのか、親衛隊は!」
――今更そんなことに驚きますか、紫関先輩? 奴は先月、すでにアナタの前で私を「エルム」と呼びましたよ? 呆気に取られていたせいで聞き逃したのかもしれませんが。
「ああぁ、何だこの特権の多さ! 差別にもほどがあるぞ、親衛隊! やっぱり俺も入りたいぃっ!」
先輩は悲痛に顔を歪め、力いっぱい叫んだ。
(……)
その様子を見てたら、ぞわぞわっとした。
「くくく……」
しかし、クマは楽しげに笑う。
「仕方ねえなあ。今日だけ、『特権』のお裾分けをしてやるか」
(はっ?)
――何を言い出すんだ、こいつはまた?
面喰らっていると、クマは私にバラまき用の紙袋を差し出した。何やらこそこそと囁いてくる。
「ほら、エルム。たまにはファンサービスしてやりな」
「ファンサービス!?」
十碧くんじゃあるまいし。
「どうせ余分に作ってあるだろ」
「……」
面白がってるよ、こいつ。
(……まあ、いいか)
私は紙袋から、ブラウニーを一つ取った。
「――紫関先輩」
「!」
声をかけると、悶えていた先輩は一瞬ピタッと止まり、パッとこちらを見た。
「ああっ、篠沢恵瑠夢が俺を呼んだ! 俺を見ながら、俺の名前を! 篠沢恵瑠夢のほうから声かけてくれたぁぁっ!」
(……)
止まったのはほんとに『一瞬』だった。放っといたら永遠に悶えてそうだ。
「あー……」
やや怯んだものの、私は思いきってブラウニーを差し出した。
「えーと、これ……あげます」
「え」
「今日は、バレンタインですから」
「――っ!!」
次の瞬間、先輩の顔がパアァァッと輝いた。
「お……おおおおおっ!」
(――っ!!)
綺麗な顔が、盛大に緩む。瞳には異様な熱が灯り、頬にはわずかな朱が差し、唇には震え混じりの笑みが浮かぶ。
(怖っ!)
一瞬にして、この変貌。
「篠沢恵瑠夢がチョコをくれた! しかも直接! 笑顔で俺にバレンタインチョコを! おおおおおっ!」
「――義理だからな?」
クマが水を差したが、多分聞いていない。先輩は嬉しそうにブラウニーを受け取った。
「ああ、無理して学校寄って良かった……。顔も見れたし声も聞けたし話も出来た! それにチョコ! 夢じゃないよなっ? すっげぇぇっ!」
(……)
だから何しに学校来てるんですか、アナタは。
「――お」
「え?」
ふいに、クマが小さく呟いた。
と同時に、先輩の背後へ黒い影が現れた。
(!?)
人影だ。と思った瞬間。
――ドカッ!
その影は先輩に蹴りを喰らわせた。
「ぐおっ!?」
ブラウニーを持ったまま、先輩は崩れた。
「――時間です。移動しましょう」
(あ)
黒い影の正体は、黒いスーツを着た男性だった。
二十代前半の、整った容貌。長い髪を一つに束ね、瞳には鋭利な光を宿している。
私は目をむいた。この人は確か――。
「ああっ!? 初姫さんのストーカーさん!」
「そうです」
「えっ!?」
思わず失礼な発言を叫んだら、その人はあっさり肯定した。
「浜松っ……!」
紫関先輩はふらつきながら立ち上がり、憎々しげに男性を睨む。
「貴様、人がせっかく幸せに浸ってる時に!」
「知ったことではありません。――とはいえ、今日は無駄な寄り道が報われたようで良かったですね」
男性は先輩をガシッと捕まえた。
「では、行きますよ」
「なっ……!? 待て! 今日はせっかく篠沢恵瑠夢に会えたのに!」
「時間は時間です」
「待てと言ってるだろ、貴様ぁぁっ!」
男性は待たなかった。物凄い速さで、容赦なく先輩を引きずっていく。
「離せ! 腕をつかむな!」
「お断りします」
二人はあっという間に去っていった。
「……」
私は呆然と、クマは面白そうに、それを見送る。
「……」
沈黙が降りた。
――朝っぱらから、何だか無駄に疲れた気がする……。




