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エルム、エルム  作者: 十枝内 清波
一年生
88/341

バレンタイン(ファンサービス)

 朝。いつもよりだいぶ早く、私はマンションを出た。

「エルム、エルム」

 ――直後、クマが忽然と現れた。

 今日は偽装モードだ。平凡な男子の姿で、冷泉院の制服を着ている。

「おはよう。すげえ荷物だな。ほら、持ってやる」

「おはよう。いいの? ありがとう」

 普段、私が学校へ持っていく荷物はたいてい三つ――鞄、ランチトート、そしてデザートを入れた紙袋だ。

 しかし今日はもう一つ、デザートとは別の大きな紙袋を持参している。それをクマへ渡そうとしたら、奴は残りの荷物も全て私から取り上げた。

 そしてデザートではないほうの紙袋の中をちらっと見て、口を開く。

「バレンタインのバラまき用か、これ」

「バラま……ま、まあね」

 由和さんと同じ言い方だ。

 そう、本日は二月十四日――バレンタインデーである。私はとりあえずクラスメイト全員分と、その他の知り合い用、あとは予備として数個、ブラウニーを用意していた。

 ブラウニーは、アメリカで生まれたバターケーキの一種だ。表面はサクッとして中はしっとりした、ケーキとクッキーの中間みたいなお菓子である。この名前は、ココアやチョコレートを加えた生地の色から来ているという。

 今回、私が作ったのはミックスナッツ入りのブラウニーだ。表面はチョコレートでコーティングして、上部にはナッツ類をびっしり載せてある。四センチぐらいずつに切り分けたが、結構ずっしりした食べ応えだ。

「ん? 一個だけ違うな」

「……ああ。それ?」

 ブラウニーは一つ一つ小さなビニール袋でラッピングし、リボンを結んである。しかしそれとは別に一個だけ、包装紙を掛けた箱のプレゼントを用意してあった。

「本命用か?」

「いや、そういうわけじゃないんだけどね……」

 私はちょっと笑った。

「――あっ、そうだ。あんたの分はチョコレートパフェだよ」

 ふと思い出し、そう告げる。

「帰ったら作ってあげるね」

「そうか。そりゃどうも」

 クマは肩をすくめた。


 学校に到着した。時間が早いので、まだ他の生徒の姿は見えない。

「じゃあ、クマ。また後でね」

 私は荷物を受け取ろうと手を伸ばしたが、奴はその手を無視した。

「教室まで運んでやるよ」

「えっ、いいの? ありが――」

「あああああっ!」

(へっ!?)

 突如、雄叫びが響いた。

「何してるんだお前! 篠沢恵瑠夢と一緒に登校!? しかも荷物持ちだとぉっ!?」

 誰かが凄い勢いでやってくる。

 ……紫関先輩だ……。

「親衛隊の特権か!? ずるい! ずるいぞ、お前ぇっ!」

 たちまち我々のそばまで突進すると、彼は苦悶の表情を浮かべた。

「俺だって篠沢恵瑠夢と登下校したい! 寄り道したり荷物運んだりしたい! ていうか、朝から晩までずっと一緒にいたいぃっ!」

「え――っ!?」

 登下校と寄り道はともかく、「荷物を運びたい」というのは何だ。どういう願望ですか、紫関先輩!

「くくく……」

 私は目をむいたが、クマは動じない。面白そうに先輩を見ている。

「おはよう――紫関センパイ?」

「……」

 奴は、明らかに馬鹿にした口調で挨拶した。それは耳に届いたらしく、先輩はピタッと悶絶を止める。

 代わりに――凍てつく目で、彼はクマを睨みつけた。

(ヒッ)

 私はビクッとした。この人は、本来の美貌が復活すると凄まじい迫力を発揮する。

「お前……」

「ん? どうかしたか? オレは挨拶しただけだぜ?」

 クマは全く動じず、からかうような笑みを浮かべた。

「あんたにはその程度の礼儀もないのか? そんな奴はいつまで経っても親衛隊には入れねえなあ」

「――んだと?」

(げ)

 先輩の機嫌が急降下した。何やら冷気が発生している。

「ちょっと、クマ!」

「何だよ。間違ったことは言ってないぞ」

「正論だって波風は立つよ!」

 無駄に先輩を挑発しないでほしい。

「……『クマ』……?」

 氷の眼差しを向けたまま、先輩は呟いた。

「ああ。オレの名前、『フクマキ・ミツグ』っていうんだ」

 と、奴はその呟きに答えた。

(へっ!?)

 名前あったのか、偽装モード。

「なっ……!?」

 それを聞き、なぜか先輩は目をむいた。

「『フクマキ』だから『クマ』!? 篠沢恵瑠夢に愛称で呼んでもらえるのか、親衛隊は!」

「ええっ!?」

 そんなことで驚かないで下さいよ、紫関先輩!

「い、いや、愛称ぐらい友達でも普通に呼びますよ!?」

「ああぁ、羨ましい! 俺だって愛称とか下の名前とかで呼ばれたい! あの声で『零』って言ってほしいぃっ!」

「聞いてます!?」

 この人は唐突に悶え始める。

「なあっ、どうすればいい!? いくら払えば入隊させてくれる!?」

「えええっ!? お金の問題じゃないです!」

「じゃ、何をすればいいっ!? 何でもするぞ!」

(うっ……)

 真剣な瞳で見つめられた。

 この人、本気だ!

(怖っ!)

「ふーん……」

 クマは意味ありげに目を細めた。

「何でも?」

 ――途端、先輩は再び奴を睨む。

「お前には言ってない」

「へえ。忘れるなよ? 隊長はオレなんだぜ。エルムの公認だ」

 ――公認した覚えはないよ?

「『エルム』!? 篠沢恵瑠夢を下の名前で呼べるのか、親衛隊は!」

 ――今更そんなことに驚きますか、紫関先輩? 奴は先月、すでにアナタの前で私を「エルム」と呼びましたよ? 呆気に取られていたせいで聞き逃したのかもしれませんが。

「ああぁ、何だこの特権の多さ! 差別にもほどがあるぞ、親衛隊! やっぱり俺も入りたいぃっ!」

 先輩は悲痛に顔を歪め、力いっぱい叫んだ。

(……)

 その様子を見てたら、ぞわぞわっとした。

「くくく……」

 しかし、クマは楽しげに笑う。

「仕方ねえなあ。今日だけ、『特権』のお裾分けをしてやるか」

(はっ?)

 ――何を言い出すんだ、こいつはまた?

 面喰らっていると、クマは私にバラまき用の紙袋を差し出した。何やらこそこそと囁いてくる。

「ほら、エルム。たまにはファンサービスしてやりな」

「ファンサービス!?」

 十碧くんじゃあるまいし。

「どうせ余分に作ってあるだろ」

「……」

 面白がってるよ、こいつ。

(……まあ、いいか)

 私は紙袋から、ブラウニーを一つ取った。

「――紫関先輩」

「!」

 声をかけると、悶えていた先輩は一瞬ピタッと止まり、パッとこちらを見た。

「ああっ、篠沢恵瑠夢が俺を呼んだ! 俺を見ながら、俺の名前を! 篠沢恵瑠夢のほうから声かけてくれたぁぁっ!」

(……)

 止まったのはほんとに『一瞬』だった。放っといたら永遠に悶えてそうだ。

「あー……」

 やや怯んだものの、私は思いきってブラウニーを差し出した。

「えーと、これ……あげます」

「え」

「今日は、バレンタインですから」

「――っ!!」

 次の瞬間、先輩の顔がパアァァッと輝いた。

「お……おおおおおっ!」

(――っ!!)

 綺麗な顔が、盛大に緩む。瞳には異様な熱が灯り、頬にはわずかな朱が差し、唇には震え混じりの笑みが浮かぶ。

(怖っ!)

 一瞬にして、この変貌。

「篠沢恵瑠夢がチョコをくれた! しかも直接! 笑顔で俺にバレンタインチョコを! おおおおおっ!」

「――義理だからな?」

 クマが水を差したが、多分聞いていない。先輩は嬉しそうにブラウニーを受け取った。

「ああ、無理して学校寄って良かった……。顔も見れたし声も聞けたし話も出来た! それにチョコ! 夢じゃないよなっ? すっげぇぇっ!」

(……)

 だから何しに学校来てるんですか、アナタは。

「――お」

「え?」

 ふいに、クマが小さく呟いた。

 と同時に、先輩の背後へ黒い影が現れた。

(!?)

 人影だ。と思った瞬間。

 ――ドカッ!

 その影は先輩に蹴りを喰らわせた。

「ぐおっ!?」

 ブラウニーを持ったまま、先輩は崩れた。

「――時間です。移動しましょう」

(あ)

 黒い影の正体は、黒いスーツを着た男性だった。

 二十代前半の、整った容貌。長い髪を一つに束ね、瞳には鋭利な光を宿している。

 私は目をむいた。この人は確か――。

「ああっ!? 初姫さんのストーカーさん!」

「そうです」

「えっ!?」

 思わず失礼な発言を叫んだら、その人はあっさり肯定した。

「浜松っ……!」

 紫関先輩はふらつきながら立ち上がり、憎々しげに男性を睨む。

「貴様、人がせっかく幸せに浸ってる時に!」

「知ったことではありません。――とはいえ、今日は無駄な寄り道が報われたようで良かったですね」

 男性は先輩をガシッと捕まえた。

「では、行きますよ」

「なっ……!? 待て! 今日はせっかく篠沢恵瑠夢に会えたのに!」

「時間は時間です」

「待てと言ってるだろ、貴様ぁぁっ!」

 男性は待たなかった。物凄い速さで、容赦なく先輩を引きずっていく。

「離せ! 腕をつかむな!」

「お断りします」

 二人はあっという間に去っていった。

「……」

 私は呆然と、クマは面白そうに、それを見送る。

「……」

 沈黙が降りた。

 ――朝っぱらから、何だか無駄に疲れた気がする……。



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