クリスマス・イブ(マタイによる福音書)
しばらく後。我々はテラスに出ていた。
といっても、紫関先輩のリクエストに応えたわけではない。
「……疲れたね」
「……。全くだ」
私の呟きに、十碧くんは小声を返した。表面は一応『儚げな美少年』のままだが、口調は本性に戻っている。
「とりあえず、問題は起こさずに済んだけどな。あの男、奇声は上げなかったし、写真撮影も阻止したし、和やかに別れたし……」
「な……和やかに別れたかな?」
結局あの後、紫関先輩は『篠沢恵瑠夢』に構い続け、初姫さんはそれをおろおろ宥め続け、十碧くんは笑顔で水を差し続け――そこへ勇敢な『ゼロ様』ファンが寄ってきた。私と十碧くんはその隙に紫関兄妹から離れ、今に至る。
さすがに少しは社交モードなせいか、先輩はファンの皆さんに対し、いつもほどは冷たくなかった。睨んだり追い払ったりはせず、ただ仏頂面で黙り込んだだけである。
不機嫌そうな彼に代わり、初姫さんが緊張した様子ながらも愛想を振りまいていた。
「和やかだったろ。少なくとも、紫関零の連行劇は回避した。紫関初姫とも笑顔で別れた」
「……紫関先輩には思いっきり睨まれたけどね……」
「あれは睨んだんじゃない。未練を必死に抑え込んでたんだ。ここが公の場じゃなかったら追っかけてきてたろうな」
「……」
だから、学校は? 『公の場』じゃないのか?
「……そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて……」
(ん!?)
ふいに、どこからか声が響いた。
「……ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた……」
「……」
何だか物騒なことをぶつぶつ呟きながら、庭をふらふら歩いている人がいる。眼鏡を掛けた、ギリシャ彫刻みたいな美貌の少年だ。
「……」
しかし、私は疲れていた。
まるで逃避するかのように、ふっと空を見上げる。
「来海くん、星が綺麗だね」
「そうだね。でも、君のほうがもっと綺麗だよ」
「……」
「……。で、あれは無視するわけ?」
口調も儚げモードに戻し、一応戯言に付き合ってくれてから、自称フェアリーは庭へ目をやった。
分厚い本を手に、テラスから少し離れたところをふらふら歩く人物――言うまでもなく、門叶くんである。
「あの人……おうちでもあんななんだね……」
「どうしてわざわざ外に出てるんだろうね。この寒いのに」
人のことは言えないが、我々は休憩中である。暖かいパーティー会場から外に出れば、むしろ冬の冷気が心地よく感じた。
「……こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した……」
「――おい、馬鹿兄貴」
その時、妙にドスの効いた声が響いた。
(っ!?)
見れば、別方向から新たな人物がやってくる。
「うろつくなら本館だけにしとけよ。会場から見えるだろうが」
(あ)
蜂蜜色の髪、くりっとした瞳。お人形さんみたいに可愛い少年――久貴くんだ。
「……『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き』……」
「聞けよ、ボケ! てめえこそ泣け!」
苛ついた様子で、彼は門叶くんから本を取り上げた。
「ん?」
さすがに、門叶くんは正気に戻る。
「久貴か。なぜここに?」
「それはこっちのセリフだ! ここは別館の庭だぞ、徘徊がパワーアップしてやがる! 自分が今いる場所も分かんなくなったのか!?」
「そうか。部屋が暑くなったから少し外の空気を吸おうとしたんだが……」
「そこから先はトリップかよ! 手間かけさせんじゃねえぞ、この夢遊病モドキ!」
(……)
低い声。つり上がった眉。凶暴な目つき。
『お人形さん』の可愛らしさは跡形もなく消し飛んでいた。かなりイライラしているようだ。
「……凄い」
私は呟いた。
「十碧くんより口が悪い」
というか、十碧くんよりガラが悪い。
「……」
――ぎゅううううっ!
指を握られた。
「たたたっ……!」
「そんなに僕と手を繋ぎたいのかな、篠沢さん?」
「いえいえ、この『握手』は熱烈過ぎるので遠慮したいです!」
喰らった攻撃がチョップではなかったので少し驚いた。誰かに目撃されることを警戒しているのだろうか。用心深いフェアリーだ。
我々が密かに小競り合いを繰り広げている間にも、久貴くんはぷんぷん怒っている。
「てめえ、知ってんだろ? 今日は重要な客が多いんだ。俺に恥かかせやがったら――」
彼は、周囲を確認するように視線を巡らせ――我々の姿に気づいた。
「っ!?」
途端、ハッと目を見開き、言いかけたことを中断する。
「……あー、えーと」
ちょっと慌てた様子で、彼は表情を変えた。
「に、兄さん、外は冷えるよっ。もう部屋に戻ったほうがいいんじゃないかなっ?」
(……)
無邪気な目元、明るい声――『お人形さん』の状態に戻った。
が、ややぎこちない。十碧くんほどは切り替えが上手くないようだ。
「――ああ。篠沢さん、来海くん」
久貴くんの示した反応により、門叶くんも我々に気づいた。スタスタとこちらへやってくる。
「えっ!? ちょっと、兄さん!」
焦った表情を浮かべ、久貴くんも後を追ってきた。
「――こんばんは。門叶くん」
サッと儚げに微笑み、十碧くんは挨拶した。
(……さすが)
鮮やかな切り替えだ。やはり、久貴くんとは年季が違う。
「こんばんは。来ていたのか」
挨拶を返してから、門叶くんは私を見た。
「今読んでいたのは、日本聖書協会の『聖書 新共同訳』だ」
「聖書!? ク、クリスマスらしいね……」
聞いてもいないのになぜいつも教えてくれるのだろうか、この人は。
「それと、これが僕の弟だ」
と、彼は久貴くんをちらっと振り返った。
「う、うん。さっき来海くんに紹介してもらったよ。シュガーラスクに砂糖をかけて食べる人だよね?」
「そう。シュガーラスクに砂糖をかけて食べる人間だ」
「兄さん、何でそんなこと教えてるの!?」
「その情報……ほんとに門叶くんから聞いてたんだ……」
久貴くんは目をむき、十碧くんは呆れたように呟いた。
「どうしてそんな話になったの?」
「オリーブ入りのパンにオリーブオイルをかけてたから」
「は?」
「……何でもない」
口に出せば、大した話ではない。
「し、篠沢先輩っ? ひょっとして、兄とは物凄く親しかったんですかー?」
本性を見られたことには気づいているだろうに、久貴くんは『お人形さん』を続行した。彼もやはり、これ以上の目撃者が増えることを警戒しているのだろうか。
「え? いや、親しいってほどでも……」
「そうだな。普通だ」
「――普通!?」
久貴くんは、ぎょっとしたように門叶くんを見た。
「兄さん、『普通』の人付き合いが出来たの!?」
「失礼な」
門叶くんは眉をひそめた。
「僕は人間不信でも対人恐怖症でも引きこもりでもないぞ」
「それはそうだけど!」
その分、『交信』でお釣りがくる。
門叶くんは私に顔を戻した。
「食事は堪能したか?」
「……。うん」
この人は私の大喰いっぷりを知っている。
「なら、良かった。二人とも、いい夜を過ごしてくれ。――では、僕はこれで」
「えっ!?」
門叶くんは、久貴くんの手からパッと聖書を取り返した。久貴くんは「あっ」と言った。
「……『慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから』……」
唐突に『交信』へ戻った。視線は本のページと空中とをふらふらさまよい始め、唇は見えない相手と喋っているかのように、盛大な独り言を紡ぐ。
彼はそのまま、本館らしき方角へ歩き出した。
(……)
脈絡のない人だ。いつものことだが。
「……ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った……。――そうだ」
が、行きかけた彼は途中でピタッと立ち止まり、振り返った。
「篠沢さん。来海くん」
「えっ」
「……何?」
面喰らう我々に、門叶くんは真顔で告げた。
「――メリー・クリスマス」




