モンルージュ
十月に入れば、そろそろ文化祭が近づいてくる。熱心な人々はもう準備を始めているようだ。心なしか、放課後の校舎はいつもより人が多い。
(……文化祭か……)
あまりいい思い出はない。
それはともかく、我がクラスはまださほど切迫していないので、今日はもう帰ることにした。
連絡事項があったので職員室へ担任の先生を訪ね、用事を済ませてから、廊下へ出る。
(さて、何を買ってこうかな……)
私はほぼ毎日、スーパーへ寄って帰る。日々の食料を調達するためだ。
「――篠沢くん」
行こうとした瞬間、声を掛けられた。振り返れば、由和さんが理事長室方向から歩いてくる。
「あ。ゆ……」
由和さん、と言いかけ、私はハタと気がついた。
よく考えたら――生徒が先生を『さん』付けで呼ぶのは不自然じゃないか?
「……理事長先生」
と、私は言い直した。
そういえば、由和さん本人にも『外部では』名前で呼びなさいと言われていたはずだ。しかしどういうわけか、校内でも『さん』付けが定着してしまっていた。今更だが。
「……。今更、君にそう呼ばれると違和感があるね」
――この人も今、気づいたようだ。
「名前で構わないよ」
「いや、目立ちますよそれは」
由和さんは、一般生徒にはほとんど顔を知られていない。しかし校内で大人の男性を見かければ、人はとりあえず『先生』と認識するだろう。
外部で「先生!」と呼ばれれば注目を集めてしまうが、校内では逆に「先生!」と呼ばれなければ注目を集めてしまう。それが世の中というものだ。
「なら、校内で他に人がいる時は、単に『先生』とでも呼びなさい。人目がなければ今まで通りで構わないよ」
「……はあ」
十碧くんと似たようなことを言われた。
ちなみに今は、廊下の人通りは少ないものの、皆無ではない。
「えーと、じゃあ、たまには生徒らしく――先生、さようなら」
と、私は由和さんに頭を下げてみた。
「『たまには』? 普段は何だというのかね」
「……スウィーツ仲間?」
「なるほど」
納得したよ、この人。
「それはそうと、君も帰るのかね」
「はい」
……『君も』?
「先生も帰るところですか?」
「ふむ……」
何気なく尋ねると、彼はなぜか一度、口を閉じた。
「――篠沢くん。君、チョコレートは好きかね」
「は?」
唐突に妙なことを聞かれた。
「何ですか、その脈絡のない質問は。好きですけど」
「これからショコラトリーに寄る気はあるかね? あるなら『モンルージュ』へ連れていってあげよう」
「え」
ショコラトリー。チョコレート専門店のことだ。
「どうかな?」
「はあ……いいんですか?」
「ふむ。では、帰り支度が済んだら職員用駐車場へ来なさい」
「……」
――待てよ。
「先生、今日のお仕事はもう終わったんですか?」
「……」
「……」
「この時間にここで私を見たことは忘れなさい」
「ほんとはどこにいなきゃいけなかったんですか、先生!」
サボりか? またサボりなのか? 大丈夫か、この学校!
「では、私は先に行くよ」
「えっ、じゃあコレもまた買収――あっ、先生!」
……行ってしまった……。
(い、いいのかな)
しかし、彼に注意できる人間はこの学園にいない。
(あ、でも……前にザッハトルテを持ってった時はちゃんと仕事してたな。お昼も食べないで)
それに、彼が理事長に就任してから四ヶ月ほど経つが、その間、生徒として学校生活に支障を感じたことはない。経営はしっかりしているようだ。
(……)
由和さんの仕事の配分なんて私には分からない。分かったとしても、それについて意見する力はない。そして何より、『モンルージュ』は話題の人気店である。
(……まあ、いいか)
私は気にしないことにした。
――決して、チョコレートにつられたわけではない。
帰り支度をするため、ひとまず自分のクラスへ向かった。
由和家の車は、来海家とはまた違う、黒っぽくて高級そうなものだった。私は車には詳しくないので種類やメーカーは分からないが、一応、フェラーリではなさそうだと思う。クマが乗っているやつとは明らかに違うからだ。
由和さんは運転手を使わず、その車を自分で運転していた。約二十分後、我々はショコラトリー『モンルージュ』に到着した。
ここは先月オープンしたばかりの新しい店で、屋根も壁も柱も全て真っ赤という、なかなか強烈な外観をしていた。
「……なんか、毒リンゴみたいな色ですよね」
「ふむ。一度見たら二度と忘れられないね」
『ラ・ベル・シモーヌ』ほどきちんとしたサロン・ド・テではないが、この店にもちょっとしたイートインスペースがある。買った商品をそこで食べられるほか、ショコラ・ショーやチョコ味のソフトクリームなども売っていた。ショコラ・ショーはココアのことだが、『モンルージュ』ではハーブやスパイスを変え、数種類がメニューに並んでいる。
「由和さん、今日は何か狙いでも?」
学校を出たので、私は再び『さん』付けに戻した。
「とりあえずマロンは買うな。秋限定らしい」
「……」
この人は『幻』や『限定』に弱い。
「あとはパヴェ・オ・テとミエルとオランジェットとトリュフ・シャンパーニュと……個数はどうする?」
「えっ、いや、私は自分で……」
「気にしなくていい。どうせ食べるだろう?」
「……」
パヴェ・オ・テはアールグレイの生チョコ、ミエルはチョコでコーティングした蜂蜜のガナッシュ、オランジェットはチョコを掛けたオレンジピール、トリュフ・シャンパーニュはシャンパンのガナッシュにパウダーシュガーをまぶしたものだ。ガナッシュとは、チョコレートクリームの一種である。
由和さんはマロンを八つ、他のものは四つずつ購入し、イートインスペースへ移動した。
(……一人分が一ダースずつ……)
壮観だった。
「栗ですか……チョコでは珍しいですね」
由和さんのお目当てのマロンは、栗の形をした大粒のチョコだった。中身は、栗のシロップ煮を栗のガナッシュで包んだものである。
「ふむ。良い香りだ。本物の栗を使っているね」
「……」
静かな声、静かな表情。しかし、私には分かった。
この人……甘い物を前にして、ものすごく喜んでいる……。
ちなみに周囲の他の客は、ソフトクリームを一つとかショコラ・ショーを一杯とか、ごく控えめに楽しんでいる。我々は浮いていた。
「……」
しかし、由和さんはそんなことは気にしない。静かに優雅にチョコを食べている。
「栗の菓子といえばモンブランが定番だが、チョコだろうとケーキだろうと、やはり本物は風味が違う。ちなみに私は、国産栗使用の和風モンブランが好みでね」
「……もしかして私、今リクエストされてます?」
「そんなことは言っていないよ」
「……」
そうか? 本当に? この一ダースのチョコで買収してないか?
「うーん、でも文化祭が終わるまではちょっと……」
「ほう。もう準備に打ち込んでいるのかね。熱心だな」
「いえ、まだそんなには。ただ、お菓子の試作品をいろいろと……」
「――ほう?」
由和さんの目がキラッと光った。
「君のクラスの出し物は何かね」
「えっ、来るんですか? メイド&執事喫茶ですけど」
「……」
「……」
「菓子だけテイクアウトできるかね」
「い、いや、それはちょっと」
なんと、接客を受けない気か!? この種の喫茶店でウェイター・ウェイトレスと交流しなかったら何の意味もないのでは!?
「ふむ……まあ、覚えておこう。君の担当する菓子が決まったら教えなさい」
「……はあ」
来る気だよ、この人。大丈夫か?
(め、目立ちそう……)
メイドさんと話もせず、黙々とスウィーツを平らげる姿が目に浮かぶ。
「当日は君もメイドの格好をするのかね?」
「しますよ。ミニスカートでヒラヒラの……」
ちょっと――かなり――ものすごく――恥ずかしいが。
しかし、出し物はクラスの多数決で決まったのだ。やるからには着こなさねば。
「……」
由和さんは手を止め、少しの間私を見つめた。
「――セクハラ・パワハラの類いがあったら届け出なさい。排除してあげよう」
「排除!?」
またそんなことを。
というか、ちょっと待て。今何を想像した、理事長様!
「い、いえ、お気持ちだけで! あっ、でも心配して下さってありがとうございます!」
「そうかね。君は遠慮深いな」
「そういう問題じゃないと思います!」
結構過激だな、この人は。
(……ひょっとしたら、本当は権力を持たせちゃいけないタイプかも……)
もう遅いが。
スウィーツのためなら職権濫用も厭わない理事長様は、静かに優雅に、一ダースのチョコレートを平らげた。




