プリント
放課後。廊下を歩いていると、焦ったような声がした。
「ご、ごめんなさい! ほんとにごめんなさい!」
(――ん?)
聞き覚えのある声だった。しかし、姿は見えない。
(……あっちかな?)
とりあえず進行方向の角まで行き、その向こうを覗いてみると――栗色の髪の女の子が、床に散らばったプリントをおろおろと拾い集めていた。
「あっ、ナノちゃん!」
知り合いだ。
私は彼女のそばに屈み、プリント拾いを手伝った。
「どうしたの、落としちゃったの?」
「エルちゃん!? あ、ありがと……」
「お……おおおおおっ!」
――へ!?
突如、雄叫びが上がった。
「ああぁ、いた! 篠沢恵瑠夢! こんなとこにいた! やっと会えたぁぁっ!」
「……」
気がつけば、紫関先輩が妙にキラキラした目で私を見下ろしていた。
「ああっ、可愛い! 超可愛い! 本物だ! ――おおっ!? 目が合ったっ!」
「……」
今どこから現れた、この人?
「夢じゃないよな? 俺を見ている! おおぉっ、上目遣いっ! まさに天使だ! 黄昏の光に包まれた天使っ!」
「……」
だから、今日は雨ですってば。
それに――黄昏時に現れるのって、天使というより妖怪じゃないか?
「……」
――バサッ。
ナノちゃんの手から、せっかく拾い集めたプリントが滑り落ちた。見れば、彼女は固まっている。
(ああぁ、また被害者が!)
私は慌てた。再び散らかったプリントを、大急ぎで拾い集める。
「ナ、ナノちゃん! この人のことは気にしないで!」
「……ん?」
次の瞬間――先輩の表情が、すっと冷めた。
頬は締まり、目つきは鋭く、ナノちゃんを見下ろす。
「お前……まだいたのか」
「……っ!」
本来の美貌が復活した。
辺りの空気まで凍てつくような、氷の眼差し――ナノちゃんはビクッと震えた。
「ナ、ナノちゃん? 紫関先輩と何かあったの?」
「えっと、さっきここでぶつかっちゃって……」
こそこそ尋ねると、ナノちゃんもこそこそと小声で答えてくれた。
(ぶつかった?)
もしや、それでプリントを落としたのか?
「あ……あああああっ!」
「えっ!?」
突如、紫関先輩が新たな雄叫びを上げた。私とナノちゃんはビクッとした。
見れば、彼の表情はまたもや崩れている。今度は何やら、絶望的な顔をしていた。
「ずるい! ずるいぞ、お前!」
「ええっ!?」
先輩はなぜか、ナノちゃんに喰って掛かる。ナノちゃんはビクビクッとした。
「そんな至近距離で篠沢恵瑠夢と内緒話を! ああぁ、俺だってもっと顔寄せたい! 息が掛かるほど近くで喋りたい! できれば耳元に直接囁かれたいぃっ!」
「えええええっ!?」
途中から独り言になってますよ、紫関先輩!
「……」
悶える彼を目の当たりにし、ナノちゃんは震えを通り越して凍りついた。もはやピクリとも動かない。
(ああぁ)
私は焦った。
何だろう、この罪悪感。そして、この場をどうにかしなければならないという使命感。私が悪いわけではないはずなのに。
「し、紫関先輩! それよりプリント拾いましょうよ、先輩とぶつかったせいで落としちゃったんでしょうっ?」
「ハッ!? 篠沢恵瑠夢が俺を見上げている! 今、俺は篠沢恵瑠夢の視線を独り占めしている! ああぁ、この角度! 可愛いぃっ!」
「聞いてます!?」
聞いてない。絶対聞いてない。
先輩は、恐ろしいほどの恍惚の表情で私を見ている。
(……えーと)
ぞわぞわっとしたが、それどころではない。ここで私まで凍りつくわけにはいかない。
とにかく、この人を何とかしなくては。
「えーと、せ、先輩! プリント拾ってくれたら握手してあげます!」
「!」
次の瞬間、先輩の頬がピシッと締まり、再び本来の鋭い美貌に戻った。
彼はサッと屈み、異様に真剣な眼差しでプリントを拾い集める。ものすごく素早い動作だった。
「……」
なんという変貌ぶり。
自分で言っておいて何だが、呆気に取られてしまった。
「……」
ナノちゃんは目を見開き、口もぽかんと開けている。
「――拾ったぞ。これでいいか?」
散らばったプリントはあっという間に回収された。先輩はナノちゃんにその束を差し出したが、彼女は凍りついたままだ。
「……」
「ナノちゃん、ほら!」
横からつつくと、彼女はハッと我に返った。
「えっ!? あっ、はいっ!」
ナノちゃんは紫関先輩からプリントを受け取った。
……手が震えてる……。
「えーと、ごめんね? じゃ、またね!」
「えっ」
私は先輩の手をつかみ、立ち上がった。
「――っ!」
途端、先輩の顔に喜びがパアッと爆発した。
「ああっ、触った! 素手で触ったぁっ! おおぉ、肌と肌が直接触れてる! 今、篠沢恵瑠夢の指が俺の指に絡んでるぅぅっ!」
「気色悪い言い方しないで下さい!」
先輩を引きずるようにして、私はその場を離れた。
「……」
ちらっと振り返ると――屈んだ体勢のまま、ナノちゃんは再び固まってしまったらしかった。




