アップルパイ
だいぶ涼しくなってきた。そろそろ、パイを作るにはいい季節である。
(暑いとバターが溶けて、生地がすぐダレちゃうからなあ)
というわけで、本日のデザートはアップルパイだ。フィリングのリンゴ煮はもちろん、外側のパイ生地も『この子』の手作りである。
昼休み。私は学園敷地内の雑木林でお弁当を食べ終え、そのパイに取りかかっていた。生地は薄く、リンゴは大きめ。甘いフィリングがぎっしりと詰まっている。
――カサカサッ。
(ん?)
と――ふいに、草を踏む音がした。誰か来る。
「……篠沢くん?」
「あ、由和さん」
現れたのは、物静かな美貌の青年だった。
夜空のような黒い髪、黒曜石の瞳――理事長様だ。
「今日も弁当かね。凄い量だね」
「い、いいじゃないですか、別に」
カラになったメインのお弁当箱はすでに片づけてあるが、ランチトートを見ただけで分かるほど、私のお弁当は量が多い。
「……」
由和さんは、私の食べかけのアップルパイへ目をやった。
「な、何ですか? あげませんよ? もう口をつけちゃいましたから」
「安心しなさい。狙ってはいないよ」
本当でしょうね、理事長様?
疑惑が私の顔に出たのか、由和さんは片手に提げた箱を軽く持ち上げてみせた。
「――アップルパイなら、私も持っているからね」
「ああっ!?」
その箱を見て、私はハッとした。
「そ、それは! パティスリー『アン・フルール』の特製アップルパイ専用パッケージ!? 期間&数量限定販売、予約不可の幻の!?」
「ほう、よく知っているね」
静かな声で、由和さんは言った。
「そう……。この特製アップルパイは秋季限定で、しかも平日のみ、その日の正午に焼き上がった分しか販売されない。予約不可のため開店と同時に並ぶしかないが、私にはなかなか厳しい時間帯だ」
「……また並んだんですか、由和さん……」
『幻』とか『限定』とかに弱いな、この人は。
――ん?
私はふと気がついた。
「え? 今、行ってきたんですか?」
「ああ。生徒はあまり知らないかもしれないが、この雑木林の先には通用門が一つあってね」
「仕事はどうしたんですか?」
「……」
「……」
「問題ない」
「なら、今の間は何ですか!」
まさかこの人、『幻』のアップルパイにつられて学校を抜け出したのか!? いいのか、理事長様!
「ふむ。もし生徒が同じことをすれば、厳重注意と反省文だろうね。しかし篠沢くん、あいにく私は生徒ではない」
「それはそうですけど!」
世は、そういった行為を『職権濫用』と呼ぶ。――が。
(……まあ、この人が反省文書いても仕方ないか……)
仮に書いたとして、どうするのだろう。その場合、自分で自分に提出するのか?
「問題ない」
と、由和さんは繰り返した。
「とはいえ、一応黙っていなさい」
「口止めですか」
多少、後ろめたさは感じているらしい。
「承知してくれるなら、このアップルパイを一つ分けてあげよう」
「その上、買収ですか!」
由和さんは再び、『アン・フルール』の箱を軽く持ち上げてみせた。
「どうかな?」
「……」
少し迷ったが、私は答えた。
「貰えるものは貰いたいです」
「ふむ。それでこそ我が同好の士」
「えっ!?」
いや、アナタほどはスウィーツマニアじゃないですよ、私!
(……いつの間にか仲間扱いされてる……)
「では、理事長室に来なさい。アップルティーを淹れてあげよう」
「リンゴづくしですね」
私は食べかけのアップルパイをしまい、由和さんについていった。
パティスリー『アン・フルール』の特製アップルパイは、いわゆる焼きリンゴをパイ生地で包んだものである。
丸ごと一個ではなく、縦半分に切ったリンゴに自家製レモンバターとハチミツをたっぷり載せ、焼いてある。それがサクサクのパイにくるまれており、別添えのクレーム・アングレーズをかけて食べるようになっていた。これは、サラッとしたカスタードソースだ。
パイは四個で一セットである。由和さんはそのうち一個を私にくれて、あとの三個は自分がせしめていた。
「……よく食べますよねえ」
「君にだけは言われたくないが」
「ぐ」
返す言葉もない。
私は由和さんに貰った特製アップルパイ一個のほか、持参した手作りアップルパイも片づけていた。
「……」
由和さんはそっちも見ている。
――やっぱり食べたいんじゃないか、この人?
「……あげませんからね?」
「狙ってはいないよ」
「食べたいなら今度作ってきますよ、新しいの」
「……」
あれ?
てっきり喰いつくかと思ったが、由和さんは沈黙した。
「いらなかったですか。失礼しまし――」
「いるとも」
いるのか。
「しかし……」
ん?
彼はアップルパイから目を上げ、私を見た。
「君、この辺りでタルトタタンを売っている店を知っているかね」
「タルトタタンですか。見かけませんねえ、そういえば」
タルトタタン――リンゴのタルトの一種だ。
普通のタルトは、タルト生地の上にフィリングを載せて焼く。が、タルトタタンは逆。中身のリンゴ煮をタルト型に敷き詰めてから、その上にタルト生地をかぶせて焼く。そして、食べる前に引っくり返す。
「私も記憶にない」
由和さんは言った。
「おかげで近頃、満足のいくレベルのタルトタタンは口にしていない」
「……ああ。分かりました」
私は察した。
「つまり、どうせ作るならタルトタタンにしてくれと……」
「違う」
違うのか。
予想が外れ、私は面喰らった。
「――どうせなら、ガトータタンにしてもらえるかね」
と、由和さんはリクエストしてきた。
ガトータタン。これは、タルトタタンから派生したお菓子だ。型にリンゴの甘煮を敷き詰めた後、その上にタルト生地をかぶせる代わりに、ケーキ生地を流し込んで焼く。
タルトはクッキーのように固いので、焼いている途中に出てくるリンゴの果汁をこぼしてしまう。が、ケーキなら柔らかいのでその果汁を無駄にせず、生地に吸い取ってたっぷりと染み込ませてくれる。
「ガトータタンですか。それはもっと珍しいですね」
「ふむ。少なくともこの辺りの店では見たことがない」
「いいですよ。作ってきます」
良かった。今度はザッハトルテより遥かに簡単なケーキだ。
――が、ほっとした次の瞬間、由和さんは付け足した。
「生地はパン・ド・ジェンヌにしてもらえるかね」
「え」
――注文が多いな、この人は。
(……まあ……いいか)
「はあ。覚えておきます」
と、私は前向きな返事をした。
――賄賂も貰ってしまったことだし。
特製アップルパイを頬張る私は、しっかり買収されていた。




