落ちていた男
昼休み。私は学園敷地内の雑木林にいた。お弁当はもう済ませている。
(さて、図書館にでも行こうかな……)
まだ時間はあるし、借りている本を返してしまおう。私はそちらへ向かった。
(次は何を借りようかな……)
――ガッ!
ぼんやりと考え事をしながら歩いていると、突如、足元に違和感を覚えた。
(ん……何か踏んだ?)
石でも転がっていたのだろうか。
私は何気なく下を見た。
「――っ!?」
直後、驚いて飛びのいた。
なんと、人間の手が落ちているではないか!
「……ってえ……」
いや、手だけではなかった。その手が繋がった人間ごと落ちていた。
(えっ、踏んづけちゃった!?)
私は状況を把握した。
あ、そうか。雑木林に寝っ転がってたんだ、この人!
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか? 怪我しませんでした!?」
「……」
その人は起き上がり、私をキッと睨んだ。
(ヒッ)
ゆるく波打つ亜麻色の髪、湖のような深い瞳。挑発的な唇、しなやかな肌。
どこか野性的な、鋭い美貌――私はなぜか、『一匹狼』という単語を連想した。
「――っ!?」
目が合うと、その人は驚いたような顔をした。
「えーと、先輩……ですよね?」
恐る恐る、私は尋ねた。
背の高さといいすらりと締まった体格といい、同い年には見えない。まして、中学生には絶対見えない。
(ああぁ、またやってしまったぁっ!)
理事長は吹っ飛ばすわ先輩は踏んづけるわ、目上の人への失態が多い気がする。これでは来海くんのことを『暴力フェアリー』とか言っていられない。私も相当だ。
「すみませんでした! 私、今ちょっとぼーっとしてて! こんなところでお昼寝してる人がいるとは思いもよらなくて!」
「……し……」
「え?」
慌てる私を、その人は凝視していた。
「篠沢、恵瑠夢……」
「は、はいっ? そうですけど」
瞬間――その人は雄叫びを上げた。
「お……おおおおおっ!」
「へっ!?」
表情が一変した。
綺麗な顔が、盛大に緩む。瞳はパアッと輝き、唇は笑った。
「本物だ! 夢じゃないよな!? 本物の篠沢恵瑠夢が目の前に! すっげえぇっ!」
(……あ、あれ?)
警戒心の強い一匹狼――という第一印象は吹っ飛んだ。
なぜか彼は、やたらと嬉しそうに私を見ている。
「ああ、無理して学校来て良かった……写真通りじゃねえか! 可愛い〜。超可愛い〜」
「……」
うっとりしている。
(狼というより……犬?)
背後に振れる尻尾が見えそうだ。
「し、写真って……」
「校内新聞で見た。お前、よく載ってるだろ」
「うっ!? に、人気投票ですね……」
思わず、来海くんのフェアリー・チョップを連想してしまった。
――ん?
ふいに、何かが引っ掛かった。私は改めて、目の前の先輩を見る。
(なんか、この人……どこかで見たような……)
どういうわけか、既視感を覚えた。初対面のはずなのに、すでに会ったことがあるような気がする。
(どこで見たんだっけ……)
亜麻色の髪……校内新聞……来海くん……。
すると、先輩は悶えるように身を震わせた。
「ああっ、篠沢恵瑠夢が俺を見ている! 今、篠沢恵瑠夢の瞳には俺だけが映っている! 俺は今、篠沢恵瑠夢の視界を独占しているぅぅっ!」
「……」
じっと見てたら、ぞわぞわっとした。
(……おぉ。もしや、コレが『ドン引き』ってやつ?)
私は新しい感覚を学んだ。
先輩は、湖のような深い瞳をうるうるさせて私を見ている。
――ん?
(この、瞳……)
「……初姫さん……?」
「え」
「あ、ごめんなさい。知ってる人に似てたので……」
そうだ、思い出した。この人の髪と瞳は彼女に似ている。そういえばお茶会の時、ちらっと校内新聞の話も出たんだった。
「……へえ。分かるのか」
やや冷静になったらしく、先輩の声のトーンが落ち着いた。
「初姫は、俺の妹だ」
「えっ」
「俺は、紫関零――二年だ。よろしくな」
「……えっ……!?」
初姫さんのお兄さん!?
(似てると思ったら、ほんとに身内だったのか!)
しかし、受ける印象はだいぶ違う。この人は真顔だと狼っぽいが、初姫さんは動物に例えるならリスとかウサギとか、小さくて可愛い類いだろう。
共通点は、髪と瞳だけ――我ながらよく「似てる」と気づいたものだ。『篠沢恵瑠夢』の観察力か?
「ああぁ、可愛いっ! きょとんとしてもびっくりしても可愛い! 不思議そうな顔も可愛いぃっ!」
「……」
ついまた見つめていたら、先輩の顔も再び盛大に緩んでしまった。鋭い美貌に似合わない恍惚とした表情は、なかなか怖いものがある。
(……もしかして、ミリちゃんと門叶くんが『二年の教室に近寄るな』って言ったのは……)
原因はこの人か?
「えーと、それで……手は大丈夫ですか? 紫関先輩」
「お……おおおおおっ!」
「へっ!?」
なぜか、先輩はまたもや雄叫びを上げた。
「なっ、名前を呼んだ! 篠沢恵瑠夢が俺の名前を! 俺をじっと見つめて、俺の名前を!」
「……。大丈夫そうですね……」
一応目で確認したが、異常はなさそうだった。手よりも頭のほうが心配だ。
「でも、とりあえず冷やしたほうがいいんじゃないですか? 向こうに水道が……」
「水道!?」
途端――なぜか先輩はサアッと青ざめ、絶望の表情を浮かべた。
「この手を洗えってのか!?」
「え、だって……」
「せっかく広い校内で奇跡的にお前に巡り会えて、しかも力いっぱい踏んづけてもらえたのに!? そんな二度とないだろう貴重な体験をもう洗い流せと!? それもその辺の無粋な水道水ごときで! 冗談じゃねえぇっ!!」
「ええ――っ!?」
大丈夫か、この人!?
(見た目はいいのに……)
中身が残念過ぎる。
「い、いいから行きましょう。ほら」
それでも、踏んづけてしまった負い目がある。私は先輩の腕を軽く引いた。
「――っ!!」
途端、彼は何かが爆発したようにパアッと顔を輝かせた。
「ああぁ、触った! 触ってしまったぁぁっ! しかも篠沢恵瑠夢のほうからっ! おおおおおっ!」
「……」
またぞわぞわっとした。
先輩は、これ以上ないほど緩みきった顔で私を見ている。
(……『この子』のファン、だよね? でも……)
「あの、先輩。何で私のことをそこまで……」
私は来海くんではない。フェアリー演出もファンサービスもしてないのだが。
「ん、さっきも言わなかったか? 校内新聞で偶然見たんだ」
先輩は、うっとりと遠い目をした。
「自分でも驚いた。ひと目惚れって現実にあるんだな……しかも写真に」
「……ひと目惚れ……」
人気投票記事の写真に!?
そりゃあ『篠沢恵瑠夢』は絶世の美少女だが、それだけでこんな状態になるか普通? おかしくないか、この人!?
真剣に心配になってきたが、それでも私の失態に変わりはない。
(うぅ……妙な相手を踏んづけてしまった……)
しかし、加害者として責任は取らねば。せめて水道へ連れていくぐらいは。
「はあ、そうですか。それはどうも。じゃ、行きましょう」
我ながら口調がぞんざいになってきた。が、先輩は気にした様子もなく、嬉しそうに私を見ている。
と――ふいに、彼はハッと表情を変えた。頬が締まり、元の一匹狼っぽい雰囲気に戻る。
「……そうだ」
「え?」
「もし会えたら、言おうと思ってたんだが……」
「……何ですか?」
声も顔も、今までと違う。何か重要なことかと、私は身構えた。
(ひょっとして、初姫さんのことで何か……?)
よく考えたら、『この子』は妹さんのお見合いを妨害してしまった人間だ。文句の一つぐらい言われてもおかしくない。
そう思い、私はいくらか緊張して先輩に向き直った。先輩は私を見つめ、口を開く。
「……サ……」
「さ?」
ものすごく真剣な眼差しで、彼は言った。
「サイン、くれないかっ!?」
……。
「えええええっ!?」
一瞬、私の思考は停止した。
「い、いや私、芸能人でも何でもありませんから!」
「おぉっ! ということは、今まで誰にもサインやったことがないんだなっ!? 俺が第一号……おおおおおっ!」
「しませんってば、サインなんて!」
聞く耳を持たず、先輩は手帳を取り出した。
(……うっ……!?)
内側に、校内新聞から切り取ったらしい私の写真が貼ってある。それはやけに丁寧に、きっちりと私の輪郭だけを切り抜いていた。しかも、一枚だけではない。
私は戦慄した。
「ここに頼む! 日付と、できれば俺の名前も入れてくれ!」
「いやいや、芸能人みたいなサインなんて出来ませんし! 私が書いたら単なる『署名』ですよ、ソレ!」
「ああぁ、困ったような顔も可愛いっ!」
「聞いてます!?」
『困ったような顔』? 実際、私は困っている。
(いっそのこと、みぞおち辺りをグッと踏んづけて気絶させちゃったほうが良かったかも……)
だんだん物騒になってきた思考を自覚しつつ、先輩の要望を断りつつ、私は彼を水道へ引いていった。




