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エルム、エルム  作者: 十枝内 清波
一年生
33/341

ザッハトルテ

 ザッハトルテはチョコレートケーキの一種である。しかしこれを作るとなると、通常のチョコレートケーキの三倍の手間が掛かるといわれている。

 まず、ザッハマッセ――チョコレートのバターケーキを焼く。

 そのケーキに、アプリコットジャムを塗る。

 最後にグラズール・ショコ――光沢のある上掛けチョコレートで全体を覆う。

 これで、上に丸いチョコレートを飾ればホテル・ザッハー風、三角のチョコレートを飾れば菓子店デメル風である。他に両者の違いといえば、ジャムの塗り方だけ。あとは材料も配合も同じレシピだ。

「……」

 まず、ザッハマッセを焼かなければならない。――が、私はその段階にすら到達していなかった。

 今、私はアプリコットジャムを煮詰めている。糖度六十四度になるまで待たねばならない。

(ジャムは市販品で良かったかな……いや、でも、『この子』が作ったほうが美味しいはず……)

 『篠沢恵瑠夢』は何でも出来る。使っているのはプロのパティシエ向けレシピだが、これまで作ったお菓子はどれも大成功だった。『この子』はいつも手際よく、失敗なく、時にはアレンジまで加えてしまう。

(これが、料理上手な人の感覚か……)

 元の私は、料理なんて出来なかった。何か作ろうとしたら計量を間違えたり、手順を間違えたり、あげく焦がしたり爆発させたり、それはもう悲惨な結果に終わった。

(……後始末、大変だったな……)

 それが、今はどうだろう。キッチンはピカピカのまま、両手も無傷なままだ。包丁で指を切ったり鍋に触ってヤケドしたり、といったドジも踏まない。

 そしてちゃんと、美味しいものが出来上がる。

(ほんとに凄い、『この子』)

 未だに、これが自分だという実感は湧かない。


 昼休み。私は理事長室を訪ねた。

 いかめしいマホガニーの扉をノックする。

「――どうぞ」

 すぐに声が返ってきた。私は扉を開け、中へ入った。

「失礼します」

「……ん?」

 由和さんは、奥の重厚な書き物机にいた。仕事中のようだ。一瞬だけちらっとこちらを見て、すぐ机上のパソコンへ目を戻した。

「君か。何か用かね」

「……お忙しそうですね」

「まあ、暇ではないな」

 静かな声、静かな表情。

 私と言葉を交わしつつ、目はパソコンに向いたまま。手はキーボードを叩いたり、マウスを滑らせたり、傍らの書類にペンを走らせたり。

 仕草そのものは穏やかで、焦った様子はない。一見、物静かな美青年が調べ物でもしているかのようだ。

 ――が、私には分かった。

 この人、修羅場の真っ只中だ!

「す、すみません、変なタイミングで来ちゃって!」

 私は慌てて謝った。

「あの、差し入れを持ってきただけなんです! すぐ退散しますから!」

「差し入れ? 何かね」

「ザッハトルテです」

 ――ピタッ。

 その瞬間、由和さんの動きが止まった。彼はパソコンから顔を上げ、初めてまともに私のほうを向いた。

「ほう。私のリクエストを覚えていてくれたのか」

「は、はい! 作りましたよ、ちゃんと自分で!」

 ――『この子』が使っているのは、プロのパティシエ向けレシピだ。プロ仕様のせいか、こういう本は分量が多い。今回も、ザッハトルテは二台出来上がった。

 私ならそれぐらい平らげられるが、以前由和さんがこのケーキを食べたがっていたのを思い出し、一台お裾分けすることにしたのだ。

「ザッハータイプかね?」

「もちろんです」

 ザッハマッセの表面にアプリコットジャムを塗るのが菓子店デメル流。表面に加え、横半分に切ったザッハマッセの断面にもジャムを塗って挟むのがホテル・ザッハー流。由和さんが好きなのは後者だ。

 私は理事長室の冷蔵庫へ向かった。

「ここに入れときますから、持って帰っておうちのティーブレイクのお供にでも……」

「いや、待ちなさい。せっかく来てくれたのだからアインシュペナーをご馳走しよう」

「アイン……? ああ、ウィンナーコーヒーのことですね」

 ザッハトルテを食べる時の定番の飲み物だ。

 ――ん?

「えっ、今食べる気ですか、これ」

「もちろん。君も仕上げをしなさい」

「……」

 仕事はいいのか、理事長様?

 しかし彼は書類を放り出し、コーヒーの準備を始めてしまった。

(……)

 まあ、いいか。

「えーと、でも、小皿とかフォークとか……」

「ここにある。ナイフもホイッパーもあるよ」

「……」

 理事長室に置くような備品か、それ?

 さすがスウィーツマニア。公私混同のような気もするが。

 私は持参したザッハトルテを切り分け、ホイップクリームを泡立てた。ザッハトルテにクリームは不可欠だ。

 小皿に美しく盛り付けてローテーブルに置くと、由和さんも出来上がったアインシュペナーをその横に添えた。

 コーヒーに、ほぼ同量のホイップクリームをたっぷり浮かべ、グラスに注いだもの――日本でいうウィンナーコーヒーとはちょっと違うが、まあ、似たような飲み物だ。

「――では、いただこう」

「はい、どうぞ。私も、コーヒーいただきます」

 ……この人、お昼ごはん食べたんだろうか? 私はもうお弁当を済ませてきたが。

(さっきまで仕事してたみたいだし、食べてないかも……。ということは本日の昼食、コレ?)

 体に悪そう……。

「――ふむ」

 ザッハトルテの最初の一口を飲み込んで、由和さんは呟いた。

「クリームは低脂肪タイプを無糖で八分立て。グラズール・ショコはカカオ分七十二パーセントのスイートチョコレート。上掛けは薄く軽い印象に。これが厚くて甘過ぎると重いからね、ザッハトルテは」

「えっ!?」

 コンテストの審査員みたいなコメント吐いたよ、この人。たった一口食べただけで。

「どういう味覚をしてるんですか、由和さん!」

 私は戦慄した。

「味覚は普通だよ。こういったものは多少、食べ慣れているが」

「多少!?」

 『多少』じゃないと思う、絶対。

「……かなり、食べ慣れているが」

 由和さんは律儀に訂正した。

「……リクエストしたってことは、ザッハトルテが一番好きなんですか?」

「いや、そんなこともないね。ただ近頃、満足のいくレベルのザッハトルテは口にしていなかったものでね」

 と答えつつも、彼はフォークの手を止めない。その仕草は静かで優雅だが、ペースは速かった。

「じゃ、一番好きなケーキは何ですか?」

「さあ……時と場合によるね。チーズケーキばかり食べることもあれば、ババロアばかり求めることもある。一番好きなケーキは何かと聞かれれば、今日の私は『ザッハトルテ』と答えるだろうが、明日の私は『ズコット』と答えるかもしれない。私の中の順位など、その程度のものだよ」

 ズコット――薄くスライスしたスポンジケーキでドームを作り、その中にフルーツ入りの泡立てた生クリームをみっしり詰め込んだケーキ。半分凍らせた状態で食べる。

「へえ……全てのケーキを分け隔てなく愛してるんですね」

 だからこそ、シュークリームにもピーチタルトにも平等に執着できるのかもしれない。平等に……凄まじく……。

(……)

 執着の対象がスウィーツで良かった。人間だったらストーカーだ。

「どうかしたかね」

「いえ、別に」

「もう一切れ貰えるかな?」

「えっ、まさか全部食べる気じゃないでしょうね!?」

 ――『まさか』だった。

 その後、由和さんは「もう一切れ」「あと一切れ」と食べ進め、結局、ほぼ一台分のザッハトルテを平らげてしまった。

 平然と。静かな表情のまま。

(……体に悪そう……)

 人のことは言えないが。



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