夜空の散歩
「エルム、エルム」
夜。明日の予習をしていると、クマが忽然と現れた。
つやつや光る漆黒の髪、妖しく底知れない闇の瞳。血を吸ったような真紅の唇、氷の白に似た冷たい肌。
今日は本性――捕食モードだ。
この姿のクマは、背筋が凍るほど美しい。もう何度も見ているのに、いつも一瞬ビクッとしてしまう。それは奴の美貌が人間の理解を遥かに超えているせいかもしれないし、もっと単純な恐怖のせいかもしれない。――私は、喰われる側だから。
「ちょっと月まで行ってみないか?」
「はっ?」
気軽な口調で、さらりと誘われた。
「月? 月って、あの空の月?」
「ああ。空、飛んでみたいだろ?」
クマは軽く微笑んでいる。あくまで軽い。奴にとっては、ちょっとコンビニまで行くのと同じらしい。
「急にどうしたの?」
「月を見てたら気が向いたんだ。ほら」
と、クマは私に手を差しのべた。
「……窒息しない?」
「ああ。ちゃんと守ってやる」
クマは軽い口調のまま言った。
「ここでお前を死なせたら、契約違反だからな」
「……」
契約内容は、『最高の高校生活を送ること』。
高校を卒業する日まで、クマは私をあらゆる危害から守る義務がある。もちろん、クマ自身も私に危害を加えてはならない。
(……どうしようかな)
少し迷う。でも、こいつの気まぐれはいつものことだし、興味がなくもなかったので、結局私は奴の手を取った。
するとクマは、何かを思いついた様子でにやりと笑った。
「そうだ。お姫様抱っこしてやろうか?」
「やめて」
即、断った。
しかしクマは、構わず私をひょいと抱き上げた。
「ちょっと! こっ恥ずかしいから!」
奴の冷ややかな美貌が迫り、視界をほとんど埋めてしまう。ぶわっと黒い気配がした。クマが翼を広げたのだ。
次の瞬間、急激に上昇する感覚が走った。
と思ったら、私はもう空を飛んでいた。奴にお姫様抱っこされたまま。
「クマ! 普通に手をつないでくれればいいでしょ!」
部屋の中にいて窓も閉まっていたのに、どうやって真上へ移動したのだろう。壁や天井を突き抜けた感触はなかった。
「そう言うなよ。乙女の夢だろ、こういうの」
「少なくとも私は夢見たことないよ、こういうの!」
どうやら、私は乙女ではないらしい。
「何で」
「えっ。何でって……私には似合わないし、そういうの。だいたい、私を持ち上げられる人なんて……」
「いるさ、今なら」
クマは言った。
「今のお前は軽い。オレじゃなくたって持ち上げられる。それに今のお前なら、甘ったるい乙女の夢もよく似合う」
「……」
元の私は重かった。何しろ百五十キロだ。
その上、顔も性格も可愛くなかった。甘ったるい夢も見ないほど。
「今なら、王子様と恋愛だって出来るぞ。どうだ?」
……どうだと言われても。
「王子様、ねえ……」
「欲しけりゃ用意してやるよ、そういう男。冷泉院へ転入させてもいいし、お前のほうがどこか外国へ留学してもいい」
と、奴はほんとに気軽に言う。
が、私はそんなに気軽になれない。
「……やめとく。そういうのは」
「何で。お前、恋愛願望ないのか?」
「だって……相手が可哀想じゃない。私のために無駄な時間を使うことになるんだから」
「別にいいだろ。忘れちまうんだし」
「……」
契約内容は、『最高の高校生活を送ること』。
絶世の美少女になって。頭が良くてスポーツ万能で、全ての才能に恵まれて。欲しいものは何でも手に入って。クマの力で、私にはそんな薔薇色の日々が約束された。
でも、契約はあくまで『高校生活』だけ。それが終わったら――つまり、高校を卒業したら――そこでおしまい。
『篠沢恵瑠夢』は、消える。
関わった全ての人の記憶も含め、『この子』が存在したという痕跡を一切残さず、消える。
最初から、いなかったことになる。
そして、私は――。
……。
「でも、悪いよ。私と付き合った人は、その間は『彼女が出来なかった』っていう寂しい記憶にすり替わっちゃうんでしょ? 私のことを忘れるわけだから」
「気にするなよ、そんなこと。お前さえ楽しめればいいじゃないか」
「駄目だよ。私、これ以上他人に迷惑かけたくない」
「これ以上?」
「私、生きてるだけで社会の迷惑だもの」
「……」
クマはにやりと笑った。
深い闇の瞳が、嬉しそうに妖しく光る。
「お前はほんとに醜いな。オレは好きだぜ、偽善も卑屈も自己満足も」
「……悪魔だもんね」
クマは、私を否定しない。
「神が愛さない人間は、悪魔に愛される。だからお前みたいな奴は、オレが可愛がってやるのさ」
「……」
そうか。
(私は、神様に愛されなかったんだ……)
無理もない。こんな醜い人間、天に見放されて当然だ。
神様が気にかけるのは、美しくて清らかなもの――私はそうじゃない。
「あんたにとって、人間は下等生物じゃないの? なのに可愛がってくれるの?」
「オレは、別に人間は嫌いじゃないぞ。お前のことも気に入ってる。下等生物だとは思うが」
「やっぱり」
「不満か? 何なら、契約が終わるまでは、お前をオレと対等の存在として扱ってやってもいい。そういうふりをしてやる」
「……ふり、なんだ」
「ああ。完璧に騙してやる。どうだ?」
「……やめとく」
クマは、私に嘘をつかない。
騙す時は、事前にちゃんと教えてくれる。
「そうか。まあいい。――ほら、見てみろよ」
と、奴は下方向を目で示した。この短い間にずいぶんと高いところへ来たようだ。街が遠くまで見渡せる。
「……綺麗……」
私は呟いた。
無数の小さな明かりが散り広がる――絵のような夜景だ。高層ビルに、海上の船に、橋を行く車に、きらめく光。
あの一つ一つに、人がいる。誰かが、生きてる……。
耳元でクマが囁いた。
「お前が、もうすぐいなくなる世界だ。目に焼き付けておけよ。今のうちに」