トゥール・リュミエール
午前の授業が終わった直後、携帯が震えた。メールだ。
(……?)
知らないアドレスからで、無題だった。迷惑メールか?
(……まあ、いいか)
コンピューターウイルスの類なら、クマが倍にして返してくれる。これが原因で数百万の請求が来たとしても、奴が払うなり踏み倒すなりしてくれる。私は気にせず、そのメールを開けた。
『今から理事長室に来なさい』
(……)
これだけだった。
(理事長室って……まさか、由和さん?)
ちょっと待て。なぜ私のアドレスを知っているんだ、理事長様。
――あ、生徒名簿を見たのか? あれには個人情報がいろいろ載っている。
……いや、それでも待て。だとしたら職権濫用じゃないか、理事長様?
(……まあ、いいか)
とりあえず、『来なさい』というからには用があるのだろう。何だか知らないが、お弁当はその用が終わってから食べることにするか。
そう決めて、私はランチトートを手に、理事長室へ向かった。
理事長室があるのは、職員室と校長室の先だ。私はせいぜい、職員室までしか行ったことがない。
他の大部分の生徒もそうだろう。職員室前の廊下はわりと人が行き交っているが、校長室前には誰もいない。まして、その更に奥の理事長室前となると、しーんと静まり返っている。職員室前のざわめきすら届かない距離なのだ。
理事長室の扉は、マホガニーのいかめしいものだった。映画に出てくる古城や洋館に、よくこんなのが付いている。目つきの悪いオジサマの趣味だろうか。
私はその扉をノックした。
「――どうぞ」
すぐに声が返ってくる。私は扉を開け、中へ入った。
「失礼します……」
入ってみると、そこはまるで大金持ちの書斎のような、広々とした部屋だった。
赤い絨毯、赤いカーテン。分厚いファイルがぎっしり詰まった本棚、ぴかぴかのトロフィーがずらりと並んだガラスケース。手前には巨大なソファーとローテーブルが、奥には重厚な書き物机が置かれている。その机で、由和さんは何やら書類を見ていた。
「よく来たね。座りなさい」
「はあ」
勧められるままに、私は手前の巨大ソファーへ腰を下ろした。これまた、映画に出てくるような代物だ。
「由和さん……ほんとに理事長先生だったんですね」
「信じていなかったのかね? 私があの名刺を偽造したとでも?」
「い、いえいえ、そこまでは!」
ただ、メールの主が由和さんじゃなかったらどうしようとは思ったが。
「……ところで由和さん、どうして私のアドレスを知ってるんですか」
「生徒名簿に載っていた」
「……」
ほんとに職権濫用してたよ、この人。
「……で、ご用件は?」
「ふむ」
由和さんは書類を軽く片づけて書き物机を離れ、妙なものを持ってきた。
バスケットだ。
「何ですか、それ」
「バスケットだよ」
「……」
そんなことは、見れば分かる。
彼はそのバスケットをローテーブルに置き、私の向かいへ腰を下ろした。
「これは、トゥール・リュミエールの限定ランチだ」
「えっ」
私は驚いた。
トゥール・リュミエールは有名な一流ホテルだ。その限定ランチといえば大人気で、予約しても最低三ヶ月は待たされると聞く。
ということは。
「由和さん、また三ヶ月も待ったんですか!」
「……その言い方だと、私が『ラ・ベル・シモーヌ』と合わせて六ヶ月もの時間を待ち焦がれて過ごしたように聞こえるね」
「違うんですか?」
「違うとも」
由和さんは否定した。
「同時進行だからね。私は六ヶ月も費やしていない。実質三ヶ月の間、一方で限定シューセットの抽選に並び続け、もう一方で限定バスケットに予約を入れていただけのことだよ」
「……」
大差ないですけど?
「まあ、よろしい。とにかく今日、念願が叶った。私はこうして、ちょうど腹の空いた昼時、この貴重なバスケットを前にしている」
「……良かったですね」
まさかこの人、それを自慢したくて呼び出したのか?
一瞬本気でそう思ったが、由和さんは次にこう言った。
「君、半分食べなさい」
「――え」
意外だった。
「な、何でですか? だって由和さん、『私なら、戦利品を赤の他人に分け与えたりはしない。ふっ』って言ってたじゃないですか!」
「何だそれは。私の真似かね。最後の『ふっ』は脚色かな? ――何、無償で戦利品を分ける主義はないが、相応の対価としてなら渋るつもりはないのでね」
と、彼はバスケットに目をやった。
「トゥール・リュミエールの限定ランチバスケットは、二人分以上でなければ予約を受け付けない。しかしあいにく、私は普通の食事にはさほど興味がなくてね。一人分だけで結構だ」
「……」
いつぞや、パイとタルトとムースとシュークリームを一度に平らげていなかったか、この人?
甘いものは別腹というやつだろうか。私と違い、真性の大食漢ではないらしい。
「そういうわけで、篠沢くん。残り一人分は君が食べなさい。引き受けてくれるなら、ピーチタルトを一つあげよう」
「ピーチタルト?」
「このバスケットにしか付いていないデザートだよ。もともと、それが目当てで予約を入れたんだ」
「えっ!?」
タルトだけが目的でこんなモノを!?
さすがスウィーツマニア。甘いもののためなら金を惜しまない。
「どうかな?」
「は……はあ。じゃあ、いただきます……」
「ふむ。交渉成立だね」
由和さんはバスケットを開けた。
(おぉ)
中身は豪華だった。クロワッサンのサンドイッチ、薔薇の形に巻いたローストビーフ、色鮮やかなテリーヌ、具だくさんの小さなキッシュ……さすが一流ホテル、見た目からしてレベルが違う。
特にデザートのピーチタルトは、普通に考えられるデザート用のものと異なり、美しい上にかなりのボリュームだった。由和さんが目をつけただけのことはある。
「わあ、美味しそうですね〜」
と言いつつ、私も自分のお弁当を広げた。
今日はおにぎりだ。ちょっと大きめの俵形で、具は鮭、ツナマヨ、豚みそなど、いろいろ。おかずは鶏の唐揚げ、チーズ入りの玉子焼き、トマトとベーコンのスパゲッティーサラダ。デザートにはミニパンケーキを持ってきた。生クリームとパイナップルを挟み、二つ折りにしてある。
「……おや、君は弁当持参だったのか」
由和さんはちょっと驚いたらしかった。
「そういえば、以前くれたパリブレストも『お弁当の時間に食べようと思っていた』と言っていたね。ふむ。あの日だけでなく、いつも弁当だったのかね。我が校では珍しいな」
「……」
ここは天下の冷泉院。一流レストラン並みの食堂もある。ほとんどの生徒は、冷めたり温め直したりしたお弁当よりも、今まさに作りたての料理を選ぶのだ。
「それにしても……これは一人分かね? 君はおにぎりを一ダースも平らげるのか?」
「い、いいじゃないですか、別に」
放っておいてほしい。
「しかも、おにぎり以外にもこんなにおかずが……ビュッフェのようだね」
「それは大げさでしょう、さすがに!」
ローテーブルにはとりとめのない料理がずらりと並んでしまった。……いや、言われてみればあながち大げさでもない気がする……。
「ふむ。まあいい。では、食べようか」
「……はい」
私はさっそくクロワッサンのサンドイッチを取った。具は、小エビとアボカドのサラダ。ドレッシングは自家製らしい。食べてみると、クロワッサンはびっくりするほどサクサクしていた。
(……ん?)
ふと気がつくと、由和さんはなぜか私のおにぎりを食べていた。
「由和さん、何でそっちを食べるんですか。お腹いっぱいになっちゃいますよ」
「美味しそうだと思ってね。――ふむ。飯粒は潰れていないが、手で持ち上げても壊れない強度。それでいて、口に入れればサッと崩れる柔らかさ。君の家のシェフは優秀だな」
「ええっ!?」
さらっと言ったよ、この人。
『君の家のシェフ』……自然にこんな発想が出るからには、由和家にも専属シェフがいるのだろう。お金持ちだ。
「い、いえ。うちにシェフなんかいませんから。これを作ったのは私ですし」
「……君が?」
その時、由和さんの目がキラッと光った。
「すると、いつかのパリブレストも?」
「はい」
「あれはかなりのものだった。他の菓子も作れるかね?」
「何を期待してるんですか。作れますけど」
「ちなみに、ザッハトルテは得意かな?」
「リクエストですか!?」
しかもザッハトルテ! 普通のチョコケーキの三倍の手間が掛かるというアレ!
「……。ザッハータイプですか? それともデメルタイプ?」
「よく知っているね」
由和さんは口の端を吊り上げて笑った。
ウィーン銘菓、ザッハトルテ。その本家はホテル・ザッハー、そして菓子店デメルだ。材料や配合などのレシピは同じだが、チョコケーキの間にもアプリコットジャムを挟むか、それとも表面に塗るだけか、という違いはある。
「私はザッハータイプのほうが好みでね」
「……」
チョコケーキの間にジャムを挟むほうだ。更に表面にもジャムを塗り、上掛けチョコレートで全体をコーティングして、ザッハトルテは出来上がる。
(……まあ、いいか)
「――考えておきます」




