窓辺の妖精
体育祭が終わると迫ってくるもの――それは期末試験だ。
七月中旬の三日間。修羅場だが、これさえ乗り切れば夏休みである。
放課後、私は図書館を目指して歩いていた。ここには、通常の閲覧室の他に自習室がある。試験勉強に必要な資料はひと通り揃っているし、読書に集中したい人は閲覧室を使うので、物を書く音やら席・テーブルの占領やらで邪魔をしなくて済む。
(まあ、別に改めて試験勉強する必要はないけど)
『篠沢恵瑠夢』は頭もいい。普段の小テストでも、今のところ、学年三位以内から落ちたためしがない。
ところが不思議なもので、明晰な頭脳を手に入れた途端、私はかえって学習意欲を高めていた。
(本当に勉強しなきゃいけなかった頃は、教科書を開くのも嫌だったのに)
元の私の成績はひどかった。その上、向学心のかけらもなかった。あの頃の私にこそ、学習意欲というものが必要だったはずだ。
それが、もう不要と化した今になって、ようやくやる気が出てくるとは。人間はないものねだりの生き物だ。
「エルム、エルム」
廊下を進んでいると、クマが忽然と現れた。
冷泉院の制服を着た、ごく平凡な男子。――『篠沢朔真』ではない、いつもの偽装モードだ。
「もうすぐ夏休みだな。どこに行きたい?」
と、奴はいきなり聞いてきた。
「火星でミステリーサークル描くか? 太平洋で沈没船の財宝パクるか?」
「何その二択!」
突飛な奴だ。
「行くなら、もっと普通の旅行でいいよ」
「じゃ、ラスベガスでも行くか。ジャックポット当てさせてやるよ」
「ニュースになっちゃうでしょ!」
ジャックポット――要するに、大当たりのこと。スロットマシンなんかでは、たまに世界新記録の超高額賞金が出たりする。こいつの気まぐれに乗ったら大騒ぎになってしまう。
「別にいいだろ。たとえ百億円当たろうが、契約が終わったらニュースごと消えるさ」
「そうだろうけど!」
気楽に言ってくれるよ、こいつは。
人の世の騒ぎなんて、きっとどうでもいいのだろう。
「――おっ、妖精野郎じゃねえか」
「えっ」
妖精野郎?
見ると、廊下の先に来海くんがいた。
……『妖精野郎』って……いや、間違ってはいないけど。
彼は何やら窓の外へ顔を向け、儚げな眼差しで遠くを眺めていた。
(……)
『窓辺に佇む美少年』中?
ふわふわの淡茶色の髪が、澄んだ瞳が、時折キラッと光る。私は彼の手元に目をやった。右には何も持っていない。左は、ノートやペンケースを小脇に抱えている。
(うーん……)
どうやって発光しているのか、タネを知っていても見抜けない。
「ねえ、クマ。来海くん、どこに鏡を持ってるの?」
「手じゃねえな。ペンケースの中に仕込んでる。あと、ノートの間」
「ええっ?」
聞いてもサッパリ分からない。
「来海くん……フェアリーより、俳優か手品師になればいいのに」
惜しい人材だ。
「仕方ねえだろ。才能があっても本人にその気がなきゃそれまでだ」
「……」
人間はないものねだりの生き物だ。
「才能か……でもクマ、フェアリーになる才能って何?」
「オレが知るかよ」
「ていうか、妖精ってほんとにいるの?」
「いるさ。天使もサンタも妖精も」
「えっ、サンタも!?」
「くくく……」
クマは馬鹿にしたように笑った。
「……」
からかわれた?
「――おっ、こっちに気づいたぞ」
「えっ」
私は来海くんに目を戻した。
しかし彼は、相変わらず窓の外を眺めている。
「……気づいた、の?」
「ああ。さっきまであいつは、ここに人がいるのは分かっていたが、それが具体的に誰なのかは特定できていなかった。けど今、ここにいるのがお前だって気づいた。すっげぇ気にしてる。話し掛けてやれば?」
「ええ〜……」
「無視したら怒るんだろ、あいつ」
「ぐ」
そうだった。
「じゃ、またな。夏休みの行き先、考えとけよ」
「う、うん」
クマは珍しく、普通に歩いて去っていった。来海くんが見ている(?)からだろう。
恐る恐る、私は自称フェアリーへ近づいた。
「く、来海く……」
――どしっ!
なんと彼は振り向きざま、フェアリー・チョップを炸裂させた。
(え〜〜っ!?)
「い、いきなり何!? まだ何も言ってないよ!?」
「よく分からないが、なんかすげー悪口を言われた気がする」
――ギクッ。
当たらずしも遠からず。悪口ではないが、さっきのは来海くんにとっては不愉快な発言だったに違いない。
「ええ――っ、どうして分かったの!?」
「図星かぁぁっ!」
――どしっ!
すかさずチョップを喰らった。
(うぅ……)
今日も余計なことを言ってしまった。
「だいたい何だ、さっきのネタにもならねえほどフツー過ぎる男は! お前、それでも学園一の美少女かよ! ちったぁ背景に気ぃ遣え!」
「背景!?」
いちいちそんなことを気にしてるのか、君は?
「――で? いったいどんな悪口言いやがった、お前」
「えっ!? いや、悪口ってわけじゃないよ! ただ、来海くんはフェアリーよりも手品師に向いてるな〜、と……」
「はあっ!? 何だそれぇぇっ!」
――どしっ!
今日のチョップは間隔が短い。
「手品師って何だ、手品師って! 俺はフェアリーだ! お前、俺を馬鹿にしてるのか!」
「馬鹿にはしてません! 来海くんはまごう方なきフェアリーですぅぅっ!」
――無視したら怒るんだろ、とクマは言った。
無視しなかったのに怒ったよ、この人。なぜこうなった。
「ちっ……それにしてもお前、あの程度の男が取り巻きなのか? 他に余計なこと言ってないだろうな?」
「言ってません!」
嘘はついていない。私が何も言わなくたって、クマは人の本質ぐらいお見通しだ。
「――そう……」
「……へっ!?」
唐突に――雰囲気が一変した。
「なら、いいんだけど」
「……」
来海くんは、鎮まった。何の前触れもなく。
穏やかな目。静かな表情。儚げな微笑み。フェアリーモードだ。
ということは。
(えっ、誰か来た!?)
来海くんは人の気配に敏感だ。鏡だかフェアリーの勘だかのおかげで。私は廊下を確認した。
(――あ)
いた。
遥か彼方から、女子のグループがやってくる。
(ま、まだあんなに遠いのに)
顔の判別も出来ない距離だ。よく察知したな、この人。
「良かった……君が、話の分かる人で」
間合いを計ったのだろうか。来海くんは、女子のグループがある程度近づいてから、さりげなく小首を傾げた。
ふわふわの淡茶色の髪が、絶妙のタイミングでキラッと光る。
女子のグループは彼に気づき、きゃ〜、と声を漏らした。
「……」
私は来海くんのノートとペンケースに注目した。しかしやっぱり、どこに鏡があるのか分からない。
「来海くん……プロだね」
「……何を探しているのかな?」
儚げな微笑みを浮かべたまま、来海くんは言った。
「あのね、篠沢さん。僕、いつでも鏡を使ってるわけじゃないよ? 姿勢と角度だけで調整してる時も多いからね?」
「そうなの!?」
いわれてみれば、クマはさっき、鏡を「仕込んでる」とだけ言った。それは必ずしも、「今、まさに使っている」ことを意味するわけではない。
よく考えたら体育祭の時なんて、バレーボール中にキラッと光ってたし。いくら何でも、あんな状況で鏡なんか仕込めるはずがない。
「うん。道具を使い過ぎると不自然だものね」
と、来海くんは答えた。
「……」
君は存在自体が不自然じゃないか、来海くん?
「……何か言いたいことでもあるのかな、篠沢さん?」
――ギクッ。
「いえ、別に!」
私は慌てて否定した。
どうして分かったのだろう。顔に出てたか?
「そう。なら、いいんだけど」
信用したかどうか不明だが――多分信用してないと思うが――とりあえず、来海くんは深くは追及してこなかった。
「ところで、篠沢さん。君もこれから試験勉強?」
「えっ……うん」
来海くんは、私の手元に目をやっていた。実は私も、ノートやペンケースを小脇に抱えている。
「君、成績良かったよね。僕も図書館の自習室に行くところなんだけど……よければ、勉強教えてくれないかな?」
「――え」
意外なことを言われた。
きょとんとしていると、来海くんはまた小首を傾げた。
「……それぐらいしてくれてもいいよね?」
「……ぐっ……」
――まだ怒っていた。
儚げに微笑む『フェアリー・プリンス』。そんな彼に熱い眼差しを注ぐ女子の皆さん。
「よ、よよよ喜んで!」
熱い眼差しどころか、この笑顔を普通に直視するのすら怖い。
私は急いで承諾した。




