ラ・ベル・シモーヌ
無事に一週間を終えた、とある休日。私は街へ出掛けた。
空には薄く雲が張っている。スッキリと晴れてはいないが、とりあえず雨は降らなさそうだ。
(えーと、確か、この辺……)
今日、私は某ケーキ屋さんを探していた。
パティスリー『ラ・ベル・シモーヌ』――そう、例のチョコとチーズのシュークリームセットのお店だ。
(『この子』なら、きっと運もいいよね……)
あの先生のシュークリームセットを潰してしまって以来、気になっていた。存在自体は以前から知っていたが、私はまだ一度も食べたことがないのだ。けど、『篠沢恵瑠夢』の強運なら、多分当たりを引くことが出来ると思う。
例のセットは一日限定十個、お一人様一個限り。買えるかどうかは抽選次第だ。
「いらっしゃいませ〜。ただいま、本日の限定シューアソートの整理券をお配りしております〜」
(――おっ)
見つけた。
コバルトブルーを基調とした外装の、お洒落な有名店だ。すでに整理券を貰った人たちが並んでいる。この整理券もお一人様一枚限りで、開店後三十分間しか配られない稀少品だ。
私もさっそく一枚貰い、列の最後尾へ向かった。
「――篠沢くん?」
「えっ」
途中、声を掛けられた。そちらを見て、私はぎょっとした。
夜空のような黒い髪、黒曜石の瞳。二十代半ばの、物静かな美貌。
なんと、あのシュークリームセットの先生が並んでいるではないか!
「あっ、先生!? 先生も来てたんですか!」
――途端、周囲の人々がざわめいた。
「先生?」
「先生だってよ」
「へえ。先生なんだ、あの人」
「……」
先生は、物静かな美貌を真っ直ぐ私へ向けた。
「篠沢くん。私のことは、外部では名前で呼びなさい」
「し、失礼しました……」
不思議だ。同じ人でも「田中さん!」と呼ばれればスルーされるのに、「社長!」とか「先生!」とか呼ばれると注目を集めてしまう。
「えーと、でも、お名前は……」
「ユワだ」
「ユワダ……さん?」
「……」
先生は静かな表情のまま、ポケットから何かを取り出した。――名刺入れだ。そこから一枚、私に差し出してくる。
「ユワ、だ。ユワ、スグル」
「し、失礼しました!」
私は慌てて名刺を受け取り、確認した。
『学校法人 冷泉院学園
理事長 由和 優』
(……え……)
私は再び、ぎょっとした。
「り、理事長っ!? 先生って、理事長先生だったんですか!?」
――途端、周囲の人々がざわめいた。
「理事長?」
「理事長だってよ」
「へえ。理事長なんだ、あの人」
「……」
先生は、じっと私を見た。
「篠沢くん。名前で呼びなさいと言ったはずだが」
「しっ、失礼しましたぁぁっ!」
なぜだろう。同じ人でも「山田さん!」と呼ばれればスルーされるのに、「組長!」とか「理事長!」とか呼ばれると注目を集めてしまう。
「……あれ? でも確か、入学案内のパンフレットには目つきの悪いオジサマの写真が載ってたような……」
「……その目つきの悪いオジサマは私の父だ。私は先日、就任したばかりでね」
「えええええっ!?」
どうしよう。さっきから失言ばかり吐いてる気がする。
「ごごご、ごめんなさい! とっても素敵なお父様ですね、迫力があって!」
「無理しなくてよろしい。――早く並びなさい、そろそろ抽選だ」
「はいぃっ! では、私はこれで!」
逃げるように、私は列の後ろへ急いだ。
(ふっふっふ……)
数十分後、私は機嫌よくお店を出た。その手にはもちろん、コバルトブルーを基調としたお洒落なパッケージ。――そう、例のシュークリームセットだ。『この子』は見事、当選した。
さすが『篠沢恵瑠夢』。運もある。
(さて、家に帰ってゆっくり食べ……)
……。
視線を感じた。
(……まさか)
そちらへ顔を向けると、半ば予想通り、理事長様がそこにいた。
「せ……ゆ、由和さんっ……」
先生、と言いかけ、私は訂正した。
(ま、まだいたのか!)
「……おめでとう。当たったようだね、篠沢くん」
「……はあ」
彼は手ぶらだ。外れたらしい。
整理券の列はすでに消え、落選した他の人々は解散している。にも関わらず、由和さんは抽選が終わっても店の外に佇んでいたようだ。
「残念ながら、私はご覧の通りだ」
と、彼は静かに言った。
「予想はしていたが、やはり僥倖というのは、二度続けては訪れないものらしい。ふむ。私の場合、それが再度訪れることがあるとしても、これからまた三ヶ月後……といったところか。まあいい。待つとしよう」
「……」
「前回実った三ヶ月の執念は、結局、ぬか喜びに終わってしまった。しかし、今度こそは報われるかもしれない。今まで通い続けた三ヶ月に、今後更に通い続けるであろう三ヶ月――合わせて計六ヶ月の執念ならば、あるいは、幸運の女神が微笑むこともあるだろう」
「……」
「ふむ。ならば再び、これからあの日々が始まるわけだね。仕事の合間に暇を見つけては並び、並んでは外れ、外れては並び――」
「……」
声も口調も、静かなまま。しかし私には分かった。
この人、滅茶苦茶悔しがっている!
「あああ、あの! 良かったら一緒に食べませんかっ!?」
気づけば、私はそう提案していた。
『ラ・ベル・シモーヌ』にはサロン・ド・テが併設されている。自社商品なら持ち込み可だ。
「サロン・ド・テに入りましょう! お皿借りて半分こしましょう! ねっ!」
「……」
由和さんは、ちょっと意外そうな顔をした。
「いいのかね? 私なら、戦利品を赤の他人に分け与えたりはしないが」
戦利品!?
「い、いいんです! このシュークリームだって、自分を想って三ヶ月も通い続けてくれた人に食べてもらえたらきっと幸せだと思います!」
「……」
我ながら意味不明な発言をしてしまった。
でも、由和さんは呆れたり笑ったりせず、真顔のまま聞いてくれた。そして彼は、おもむろに口を開いた。
「シュークリームの気持ちまで考えるとは……君はいい子だね」
「ええ――っ!?」
なんと、由和さんまで意味不明なことを言い出した!
「そ、そうですか!?」
「ふむ。――では、ご相伴にあずかろうか。良ければ、紅茶は私がご馳走しよう。来なさい」
「……。えっ!?」
あまりにもあっさり承諾されたので、私は一瞬、思考が停止してしまった。
てっきり断られると思ったのに。
見れば、由和さんの表情にはさほど変化はなく、あくまで静かなままだ。――が、私には分かった。
この人、急速に機嫌が直ってゆく!
(そ、そこまで食べたかったの!? このセット!)
特定の何かに尋常じゃない興味やこだわりを示す人々――世は、彼らをマニアと呼ぶ。
この人……シュークリームマニア?
「篠沢くん? 行くよ」
「は、はいっ」
彼に促され、ちょっと呆然としていた私は、ハッと我に返った。由和さんの後を追い、『ラ・ベル・シモーヌ』のサロン・ド・テへ向かう。
サロン・ド・テとは、ティールームのようなもの。見たところ、お客さんはほとんどが女性のようだ。しかし、由和さんはためらわず中へ入った。
(ど、堂々としてる……)
美形の彼が入店すれば、近くのテーブルの女性客などは必然的に注目する。それでも由和さんは、怯む様子もなく落ち着いていた。
「いらっしゃいませ。今日は二名様ですね。いつものお席でよろしいですか?」
「ああ」
――へっ!?
『今日は』? 『いつもの席』?
店員さんとのやり取りを聞いて、私は心底驚いた。
(この人、常連!?)
更に、席に着いて注文する段になったら、もっと驚いた。
「ふむ、新作が三点出ているね。これも頼むよ」
「かしこまりました。お二つずつでよろしいでしょうか?」
「篠沢くん、君も食べるかね?」
「……はあ」
新作は、パイとタルトとムースの三種類。これに加えて、私が購入した二種類のシュークリーム。テイクアウトではなく、今この場で、由和さんはそれらを全部食べようとしている。
もともと大食いの私が平らげるのはどうってことないが、由和さんが。一見物静かな美貌の青年が。平然と。静かな表情のまま。
(……)
――私は間違っていた。
彼はシュークリームマニアではない。スウィーツマニアだ。




