白紫陽花
職員用出入口で大惨事の痕跡を隠滅した後、私は生徒用昇降口に移動した。革靴をしまわなければならない。職員用出入口からはスリッパを拝借していたが、それも上履きに替えて、スリッパは返しに行かなければ。
昇降口に到着すると、下駄箱の向こうで黒茶色の髪がひょこひょこ動いていた。
(……)
またか。
「リューくん……おはよう」
「あっ、エルちゃん! おはよ〜っ」
声を掛けると、黒茶色の髪の少年はにこっと笑いかけてきた。雨の似合わないカラッとした笑顔だ。
「わ〜、今日最初にエルちゃんに会えて嬉しいよ! でも今、どこから来たの?」
「……ちょっとね」
それについては多くを語りたくない。
「リューくんは、今日も何か仕掛けてるの?」
「うん! このジメジメした天気を吹っ飛ばす爽やかな作品だよ〜」
「……そう……頑張ってね」
吹っ飛ぶのは君のほうでしょうよ、リューくん。
般若顔のミリちゃんを思い浮かべつつ、私は自分の下駄箱に向かった。
(……ん?)
フタを開けようとして、私はその手をピタッと止めた。何となく、違和感を覚えたのだ。
(……)
長年の経験から、私は警戒心を募らせた。じっと下駄箱を見つめる。
(……いや、でも、『この子』は嫌がらせなんてされないはず……)
たとえ嫌がらせされそうになっても、クマが防ぐはずだ。ということは。
(……クマ本人の、イタズラか)
私は力を抜いた。
奴は気まぐれだ。退屈なのか、たまに突拍子もないこともする。つい先日も、家に帰ったら床と天井が引っくり返っていたことがあった。
まあ、下駄箱なら上下が逆さまになっても大したことはない。思いきって、私はフタを開けた。
――ポンッ!
「きゃっ!?」
途端、何か白いものが飛び出した。
「……。えっ?」
私はきょとんとした。
それは、真っ白な紫陽花だった。
「……」
一瞬本物かと思った。が、違う。紙製だ。『飛び出す絵本』の要領で、下駄箱のフタを開ければ花が咲くよう、内部に仕掛けられていた。
「……」
「――あっははははは!」
明るい笑い声が響く。私はハッと我に返った。リューくんがこっちを見ている。
「エルちゃんのびっくりした顔、可愛い〜」
「リューくん……これ、リューくんの仕業?」
「仕業って、そんな〜。エルちゃんに朝の爽やかなひとときをお届けしようと思ったのに〜」
「……」
私は改めて『紫陽花』を見た。花びらの質感といい、花としてのバランスといい、かなりリアルだ。
(……綺麗)
眺めていると、自然に頬が緩んだ。
「……ふふ、ありがとう。なんか和んだよ」
「ほんと? へへっ、良かった〜」
リューくんは嬉しそうに笑った。
「でもコレ、取っちゃうのもったいないね」
「気に入ってくれた? じゃ、こっちに移してあげるねっ」
と、彼は自分の鞄から画用紙を取り出した。そして私の下駄箱の『紫陽花』を手際よく外し、何やらあちこち折りつつ、その画用紙に貼り直してゆく。
「はい、どうぞっ」
「えっ、もう?」
ちょっと大きめの、『飛び出すカード』みたいなものが出来上がった。二つ折りになった画用紙を開けば、いつでもパッと『白紫陽花』が咲く。
「わー、凄い! ありがとう、リューくん!」
「どういたしまして〜。喜んでもらえて嬉しいよっ」
「ミリちゃんの下駄箱にも、同じのを仕掛けたの?」
これなら今日、彼女は般若に変身しないのではないだろうか。
「え〜、まさか! ミリ姉の下駄箱のはうんと派手にしたよ!」
「……」
駄目だ。今日も爆走決定だ。
「そ、そう……。こういうのなら、ミリちゃんも怒らないと思うけど」
「え〜、それじゃ面白くないじゃん」
「……」
面白いのか? 般若の爆走が。
「やっぱ、作品にはインパクトがないとねっ。そのほうがミリ姉も喜んでくれるし」
「喜……? まあ、確かに『やめて』とは言わないよね、いつも」
ちょっと不思議だが。
「あははっ、ミリ姉はそんなこと言わないよ〜。昔はあっちからさんざん仕掛けてきたんだもん」
「えっ、そうなの?」
「うん」
リューくんはにこっと笑った。
昔はミリちゃんのほうがイタズラっ子だったのだろうか。――と思ったら、意外な言葉が続いた。
「俺、子供の頃はずっと家に引きこもってたんだけどね。ミリ姉はそんな俺を笑わせようとして、そりゃあもう、毎日毎日いろいろやってくれたんだ〜」
「――え」
「結局一度も笑えなかったけどね。でもまあ、気持ちは伝わってきたよ」
「……」
何か事情があったのだろうか。
今の彼は陽気で、その笑顔には一点の曇りもない。しかし、詳しく聞いていいのか分からないので、とりあえず過去には触れないことにした。
「――じゃ、今はリューくんのほうが、ミリちゃんに気持ちを伝えてるんだ?」
とだけ、言ってみる。
「えっ!? ま、まあ、そっかな?」
リューくんは少し照れたようだ。
「……ミリ姉ね、昔はあんなじゃなかったんだよ。もっと普通の、お高く止まったお嬢様でさ」
「そうなの?」
そういえば以前、来海くんもそんなことを言っていた。
中等部時代、ミリちゃんはもっとお高く止まった感じだった、と。リューくんが入学するまでは。
「けど俺、今のミリ姉のほうが好きなんだ〜」
「……そっか」
それは何となく分かる気がする。私も、ツンと澄ましたお嬢様よりは爆走するミリちゃんのほうが好きだ。
――リューくんは、自分がイタズラをやめたら、ミリちゃんが『お嬢様』に戻ってしまうと思っているのだろうか?
「おかげで俺、すっごく足が速くなったよ! リレーにも出れたしね〜」
「……ミリちゃんも、リューくんのおかげで足が速くなったんじゃないかな……」
「あっ、そろそろミリ姉が来るよ! ほらエルちゃん、こっちこっち!」
「ええっ? ち、ちょっと待って!」
引っ張られそうになったが、私はその前に革靴を履き替えた。それからリューくんと一緒に、柱の陰へ隠れる。
――ん?
「ねえ、別に私が隠れる必要は……」
「来た来たっ」
「えっ」
――本当だ。生徒用駐車場方向から、ミリちゃんがやってくる。雨の中、薔薇模様の傘を差して歩く姿は美しかった。
その傘を閉じ、軽く振って水滴を落とし、傘立てに入れる。そして彼女は移動し、無造作に下駄箱のフタを開けた。
――ポンッ!
「ぎゃあぁあああっ!?」
途端、白いものが飛び出した。『紫陽花』だ。ミリちゃんは目をむいて後ずさった。
――ポンッ、ポンッ、ポンッ!
「ひょえぇえええっ!?」
私の下駄箱のものとは違い、飛び出すのは一回で終わらなかった。あとからあとから、『紫陽花』はポップコーンのように増えていく。色も白だけでなく、赤やら青やら鮮やかだ。ミリちゃんは花が弾けるたびに後ずさり、とうとう、背後の別の下駄箱にドンッとぶつかった。
――ポンッ!
最後に虹色の『紫陽花』が弾けて、ポップコーンは止まった。
「……」
ミリちゃんはぽかんと口を開けた。 下駄箱は、飛び出した『紫陽花』と紙のかけら、輪ゴムなどが溢れて凄いことになっている。
「――あっははははは!」
リューくんが爆笑した。
「……」
ミリちゃんはこちらをちらっと見て、『紫陽花』をべりべりと引っぺがし、革靴を上履きに履き替えた。
直後――彼女は般若と化した。
「リュウゥゥゥッ!!」
「エルちゃん、またね〜」
「う、うん」
リューくんはパッと駆け出した。
「くぉらぁぁ〜〜っ! 待たんかぁぁ〜〜っ!!」
ドドドドド!!
いつも通り、二人は嵐のように去っていった。
「……」
私はミリちゃんの下駄箱と、リューくんから貰った『白紫陽花』に目をやった。ミリちゃんの下駄箱は大惨事だが――。
(……和む……)
クスッと笑ってしまう。
今日は掃除づいているのかもしれない。朝の爽やかなひとときに免じて、片づけといてあげよう。




