ある雨の日に
外は雨が降っていた。
『死んでくれればいいのに……』
これが、母親のくれた最後の言葉だった。
『このまま、死んでくれれば……』
それから、ハッと怯えた顔になり、彼女は逃げるように出て行ってしまった。
『……』
私はじっとしていた。
まだ意識はあったし、体も動かせた。その気になれば、どうにかして電話まで這っていくことが出来ただろう。そして救急車を呼べば、あるいは助かったかもしれない。
でも、私はじっとしていた。
『……』
外は雨が降っていた。
母親は傘も持たずに行ってしまったようだ。風邪を引かなければいいが。
『……』
――お母さん……。
私、消えることにしたよ。お母さんの願いを叶えてあげる。だから、お母さん――。
幸せになってね。
雨の多い季節になった。今日もどんよりと曇っている。降り始める前に学校へ到着しようと、私はかなり早めに家を出た。
空は暗いが、民家の庭に咲く紫陽花が綺麗だ。通りすがりにそれらを眺めると、心が和む。
(――ん?)
ふいに、何かが肩にポツリと当たった。
(おぉっ?)
いかん。降ってきたようだ。
今日、私は鞄とランチトートと紙袋を持っている。鞄の中に折り畳みの傘はあるが、学校までの距離はあとわずかだ。
鞄から傘を取り出して広げるか。本降りになる前に全力疾走して学校へ駆け込むか。私は後者を選んだ。
(ドドドドド!!)
なぜか、頭の中でミリちゃんの姿が再生される。彼女のように般若に変身は出来ないが、私は彼女に負けない速さで走り出した。
ポツッ、ポツッ……。
(ああぁ)
雨粒が増えてきた。これはまずい。――仕方ない。
邪道だが、私は正門まで行かず、その遥か手前の裏門から学園敷地内に進入した。ここは生徒用昇降口には遠いが、職員用出入口ならすぐそばだ。
ガラスの扉を開け、校舎内へ飛び込む。
――バンッ! ドカッ! バァンッ!
慌てて扉を閉めた直後、ザアァァァッと本格的に雨が降り出した。
(ふ〜……)
良かった。間一髪、間に合った。ガラス越しに雨を見て、私は大きく息を吐いた。
(……ん? 『ドカッ』?)
安心したら、ふと違和感を覚えた。そういえば今、扉の開閉とは別の衝撃があったような。
何気なく振り向くと――スーツ姿の男性が一人、床に膝をついていた。
「ああっ!?」
私はサァッと青ざめた。
しまった、先生か? ぶつかっちゃった!?
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか? 怪我しませんでした!?」
今日の私にはミリちゃんが降臨しているのだろうか。図書館前で出会った時の彼女のように慌ててしまった。
「……」
床に膝をついたまま、その男性はこちらを見た。
夜空のような黒い髪、黒曜石の瞳。薄紅色の唇、象牙の白に近い肌。
二十代半ばの、物静かな美貌だった。
「あの、先生……ですよね?」
年齢的にも服装的にも、明らかに生徒ではない。知らない顔だが、この時間にこの場所を使うということは教職員だろう。
「……」
その人は立ち上がった。
「まず――君、学年とクラスと氏名は?」
「……」
静かだが、妙に威圧感のある声だった。
「い、一年A組、篠沢恵瑠夢です」
「そうか。では、篠沢くん――君、甘い物は好きかな?」
「へっ?」
突拍子もないことを聞かれた。
私は目が点になり、答えるのが遅れた。
「す、好きですけど」
「ケーキ屋には詳しいかな?」
「はあ。まあ」
「では――これが何なのか、分かるかね?」
「え」
その人は床を指差した。
(――っ!?)
なんと、そこにはケーキの箱が一つ落っこちて、見るも無惨に潰れているではないか。しかも。
「こ、これは! パティスリー『ラ・ベル・シモーヌ』の一日限定十個のパッケージ!? ひょっとして、シュー・ア・ラ・ショコラとシュー・ア・ラ・フロマージュの、あの幻のセット!?」
「ほう、よく知っているね」
静かな声のまま、その人は続けた。
「そう……。このセットは予約不可で、並んでも滅多に買えるものではない。なぜなら開店と同時に整理番号が配られ、購入権は抽選で決まるからだ。故に幻のセットと呼ばれている」
「は、はい……」
「昨日、私は幸運にも当選し、念願のこのセットを入手することが出来た」
「そ、それはそれは……」
「しかし時間が取れず、昨日は遂に食べる機会がなかった。そこで今日、午後の休憩時間にゆっくり味わうことにした」
「……はあ」
「私はこのセットを買うのに三ヶ月を費やした。仕事の合間に暇を見つけては並び、並んでは外れ、外れては並び――それでも諦めきれずになお並んでいた昨日、とうとうその執念が報われた」
「さ、三ヶ月……」
「本当はすぐにでも味を見たかったが、残念ながら昨日はその後、立て込んでいた。しかし今日は、昼以降なら時間が取れそうだ。ならば己への褒美として、今日はこのセットを、午後のティーブレイクを、それだけを励みに執務へ臨もうと、私は学校に来た。今日の楽しみはこのセットだけだと――」
「……」
静かな声と口調なので分からなかったが、ようやく私は悟った。
この人、滅茶苦茶怒っている!
「――しかし、その楽しみは潰れてしまった。君の体当たりのひと突きで」
「すっ、すみませんでしたぁぁっ!」
食べ物の恨みは恐ろしい。私はとにかく謝った。
「あの、雨が降りそうだったので! 私、凄く焦ってて!」
「ほう」
「正門側の昇降口は遠くて! いけないこととは思いつつ緊急避難の心境でこっちへ駆け込んじゃって、そしたらこんな大惨事に!」
「それで?」
「か、片づけます! 責任持って綺麗に掃除します! 弁償もしますから!」
「ふむ」
その人はじっと私を見た。
「だが、篠沢くん。金を戻してもらっても、私の三ヶ月は戻らない。今日の楽しみも戻らない」
「シシシ、シュークリームですよね!? シュークリームが食べたいんですよね!?」
――フランス語の正式名称では、シュークリームはシュー・ア・ラ・クレームという。ショコラはチョコ、フロマージュはチーズのことだから、私が潰してしまったのはチョコシュークリームとチーズシュークリームのセットだ。
「売店かコンビニで買ってくるつもりかな? それで間に合わせろと?」
「違います違いますっ! あの、お詫びに私も、今日の楽しみを犠牲にしますから!」
と、私は持っていた紙袋を差し出した。
「これは?」
「お弁当の時間に食べようと思っていたパリブレストです」
そう、偶然にも私は、今日のデザートにシュークリームを用意していた。
パリブレストとは、リング状のシュークリームのこと。もちろん『この子』の手作りだ。フィリングにバナナとチョコクリームを挟んだもの、イチゴとカスタードクリームを挟んだものと、二種類持ってきた。
(ああ、お弁当がパワーアップしてゆく……)
そのうち重箱とかバスケットとか持ってくるようになるんじゃなかろうか。自分で自分が怖い。
「……ほう」
パリブレストは保冷剤とともにタッパーへ入れ、それを更に保冷袋へ入れ、最後に紙袋へ入れてある。彼はその厳重な包囲網を突破し、中身を確認した。
「ふむ。目には目を、シュークリームにはシュークリームを――君も今日、これを食べる楽しみが奪われるわけだ。良かろう」
彼は厳重な包囲網を元に戻し、床へ目をやった。
「では、ここは任せたよ」
「はいっ! すみませんでしたっ!」
紙袋を手に、その人は去っていった。
本日のデザートは失われた。
(ああ、我ながらいい出来だったのに……)
でもまあ、『この子』が作ったのだから味は保証できる。美味しく食べてもらえればパリブレストも本望だろう。
――床に落とされて、潰れるよりは。
(……)
ケーキの箱を見下ろして、一瞬、昔のことを考えた。しかしそれどころではない。
私は掃除用具の調達に向かった。




