遭遇
その日、私はたまたま帰るのが遅くなった。担任の先生に頼まれ、雑用を手伝っていたのだ。
それも終わり、私は一人、教室へ戻ろうと歩いていた。
この時間、洋館のように美しい校舎は夕焼けに染まる。ほとんどの生徒はもう帰ったようだ。辺りには誰もいない……。
と、思ったその瞬間──。
ドタッ! ガツンッ!
人が降ってきた。
(へっ!?)
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
気がつけば、私の足元に一人、男子が転がっている。彼の背後には階段が見えた。
(あ、そうか。階段から落ちたんだ、この人)
思わず冷静に状況を把握してから、私はハッと我に返った。
(えっ、大丈夫!?)
「……った……」
その人は顔を上げた。
(げっ!?)
血が出ていた。
といっても、怪我をしたわけではない。鼻血だ。しかし、見たこともないような大出血だ。
「きゃ──っ、大変!」
「えっ?」
私は慌ててティッシュを取り出した。
「これ、使って! 早く!」
「……えっ……」
本人はきょとんとしている。気づいていないらしい。
「鼻血! 凄いよ、ドクドク流れてる!」
「……っ……」
その人は顔を片手で押さえた。その指の間からみるみる血が溢れた。
(ひええ)
「あー、もう! 私やるから!」
私はその人の顎をつかんでグイッと上向かせ、鼻の穴にティッシュをギュギュッと詰めた。その人はフゴッと言った。
「ち、ちょっと……」
「動いちゃ駄目! しばらくじっとして!」
「えっ、ここで!? でも、誰かにこんなところ見られたら……」
「そんなのどうでもいいよ!」
「──良かねえよっ!」
突如、その人は私を押しのけて立ち上がった。
「俺はフェアリーだ! フェアリーは鼻血出したりしないんだぁぁっ!」
「──へ!?」
私は面喰らった。
その人は私の手からティッシュを奪い、凄い勢いで走り去った。
止める暇もない。彼の背中はあっという間に遠ざかり、ふわふわの淡茶色の髪がキラッと光って、見えなくなった。
(い、今なんて言った? ふぇありー?)
フェアリー……妖精?
ティッシュを鼻の穴に詰めた彼の顔が蘇り──私はプッと噴き出した。
それから二日後。私はこの自称フェアリーの正体を知った。
その日も帰るのが遅くなり、私は一人、廊下を歩いていた。
校舎は夕焼けのオレンジ色に染まっている。この時間、もう人けはない……。
と、思ったその瞬間──。
「──篠沢、恵瑠夢……」
声が降ってきた。
(へっ!?)
私はちょうど階段の横を通り掛かったところだった。見れば、その階段の上から、誰かがこちらを見下ろしていた。
(わっ……)
ふわふわの淡茶色の髪、澄んだ瞳。薄桃色の唇、透きとおるような肌。
綺麗な少年だった。人間とは思えないような、儚げな美貌だ。
「篠沢さん、だよね?」
と言いつつ、その人は階段を降りてきた。
声までもが繊細で、透きとおるようだ。
「う、うん。……あなたは?」
「……」
その人は、ふっと左右に目をやった。つられて私も左右を見た。誰もいない。
次の瞬間。
──どしっ!
その人はいきなり、私にチョップを喰らわせた。
「痛っ!」
「お、ぼ、え、て、な、い、の、か、よ……」
「ええっ!? い、痛い痛い」
パシパシと、一音ごとに叩かれた。
(何!? この人)
「ていうか、俺のこと知らねえのかよ!」
「し、知らないよ! だって、初対面だよね!?」
「何ぃっ!?」
どこから取り出したのか、その人は校内新聞をバッと突きつけてきた。
「見ろ、注目の新一年特集! 高等部の新プリンス! 中等部時代から人気投票連続首位継続中! こんな有名な俺様を知らないだと!?」
「ええ〜っ!?」
……本当だ。突きつけられた校内新聞に、この人の写真が載っている。
一年D組、来海十碧。
「くるみ……じゅうへき?」
「とあ」
「あ、『とあ』って読むんだ、これで」
へえ。珍しい名前。
「……で、私に何か用?」
「お、お前っ……ほんとに覚えてないのかよ! 誰もが一度見たら一生忘れられなくなる美しいこの俺様を!」
「えっ!?」
(何!? この人!)
と、再び私は思った。
……ん?
「──ああっ!」
顔はともかく、そのナルシストな発言が連想の引き金となり、私の記憶を繋げた。
「あなたはおとといの! 鼻血のフェアリー!」
「変な呼び方すんなぁぁっ!」
「痛っ!」
またチョップされた。
容赦のない力加減だ。私は涙目になり、頭をさすった。自称フェアリー・来海くんはキッと睨んでくる。
「いいか、二度と忘れるなよ。俺は学園一の美少年だからな」
「顔見ただけじゃ分かんないよ! だっておとといは鼻血ダラダラ流してて……」
「それを言うなぁっ!」
(ひっ!?)
来海くんは凄まじい形相に変貌した。
「おとといのことはバラすなよ? もし誰かにバラしたら……ただじゃおかねえ……」
凄まじいのは形相だけではなかった。彼の全身から、黒いオーラが噴出している。
(怖っ!)
「は、はい……分かりました……」
私は気圧されて後ずさった。
「それから──篠沢恵瑠夢」
「はいっ?」
来海くんは再び、校内新聞を突きつけてきた。
「いい気になるなよ?」
「えっ」
「俺より記事が大きいからって、いい気になるなよ! フェアリーはこの俺だ! 俺一人だけで十分だ!」
「ええ──っ!?」
意味不明な発言だ。私は『フェアリー』なんて称号、狙っていない。これっぽっちも欲しくはない。
(それに、わ、私の記事もあるの?)
知らなかった。
「──じゃ、そういうことだから」
「へ」
突如──来海くんは鎮まった。
目は和み、唇は微笑む。本当に──鎮まった、としか言いようがない。一瞬にして、先ほどとは真逆の変貌だ。
「まあ、君は外進の新顔だから珍しいせいもあるし……。次は負けないからね? 篠沢さん」
「えっ……」
声も口調もまるで違う。森の穏やかな風のようだ。
(べ、別人……)
その時──廊下の彼方で、気配が動いた。
(ん? 誰か来た?)
こんな時間だが、他にも残っている生徒はいたらしい。話し声とともに人影が近づいてくる。
「──ねえ、あれ、来海くんじゃない?」
「ほんとだ!」
「ひゃ〜、綺麗な顔〜」
数人の女子だった。来海くんに気づくと、ひそひそきゃあきゃあ、楽しそうに盛り上がる。
(く、来海くんのファン?)
それを意識してか、来海くんは校内新聞をさりげなく隠し、ふっと窓の外を見た。
夕陽を浴びて光る、淡茶色の髪。どこか遠くへ向いた、儚げなまなざし。そのまま黄昏の光に消えてしまいそうだ。
きゃ〜、と女子が声を漏らした。
「──ねえ、一緒にいるの、篠沢さんじゃない?」
「ほんとだ!」
「ひゃ〜、超可愛い〜」
ピクッ。
ほんの一瞬、来海くんの眉が痙攣した。
(ひええ)
まさか、自分以外の人間が注目されるのが気に喰わないのだろうか。私は戦慄した。
「……またね、篠沢さん」
それでも儚げな微笑みをキープして、来海くんは美しく去っていった。
きゃ〜、と女子がまた声を漏らした。
(あ、あなたたち、騙されてるよ!)
心の中で、私は叫んだ。
「フェ……フェアリー・プリンス?」
翌日。私は学園敷地内の雑木林でベンチに座り、校内新聞を読んでいた。
今は昼休み。お弁当を食べ終えたところだ。
一年D組、来海十碧。中等部からの内進。月間人気投票は常に一位、付いた称号がフェアリー・プリンス……。
この記事だけ見れば、確かに来海くんは『美少年』だった。載っている写真も綺麗で、モデルみたいだ。
とても──あの鼻血をダラダラ流していたのと同一人物とは思えない。
(自分でも『俺はフェアリーだ!』とか言ってたけど……フェアリー・プリンスって……)
ガサガサッ。
(ん?)
ふいに、音がした。
と思ったら、女子が一人、目の前を走り去っていった。
(……。何?)
カサカサッ。
と、また似たような音がした。草を踏む音だ。誰か来る。
「……篠沢」
(げ)
近くの木陰から現れたのは──何と、来海くんだった。
私はとっさに、読んでいた校内新聞をサッと隠した。
「来海くん?」
また会ってしまった……。
「何だ、その嫌そうな顔は。喜べよ。広い校内で、幸運にもこの俺と偶然出会えたんだぞ」
「喜べないよ!」
(ナ、ナルシスト……)
私は呆れた。
「……ここで何してるの?」
「……」
聞くと、来海くんはなぜか数歩移動し、ふっと笑った。
淡茶色の髪が、木洩れ陽にキラッと光る。
「ふふん。フェアリーといえば森の木陰だろ? 緑の中に佇む俺! 絵になるよな!」
「……森?」
私は周囲に目をやった。確かにここは広いし、手入れの行き届いた木立ちは美しく、小さな『森』に見えなくもない。……が、実際は所詮、学園敷地内の『雑木林』に過ぎない。あくまで『雑木林』。
「ほら、シャッターチャンスだ。特別に正面から撮らせてやる」
「撮らないよ!」
髪や瞳が光に反射し、来海くんはキラキラと輝いていた。
「何だ。つまんねー奴」
と言って、来海くんはスッと肩の力を抜いたように見えた。
何とその途端、キラキラが消えた。私は心底驚いた。
(ま、まさか、光が反射する角度を計算してる!?)
どうやら、先ほど数歩移動したのは、ちょっとした立ち位置や姿勢を考慮したかららしい。
「す、凄いね。いつもそうやってフェアリーごっこしてるの?」
「『ごっこ』じゃねえよ!」
来海くんはキッと睨んだ。
「俺は本気だ! 本気でフェアリーやってるんだ、馬鹿にするなぁっ!」
「馬鹿にはしてません!」
思わず謝った。
(怖っ!)
しかし、『本気でフェアリー』とはいったい……。
「あの、それで! ほんとは何してたのっ?」
話題を変えようとして、私は尋ねた。
「……別に」
「別にって……今、女の子が走ってったけど──あ」
言っている途中で、ふいに思い当たった。
緑の木陰。女子と二人きり。ということは。
「ごめん、お邪魔だった!?」
「違うっ!」
──どしっ!
来海くんにチョップを喰らった。
「痛っ!」
(この暴力フェアリー!)
と言いかけたが、ぐっとこらえた。
「わざとらしくボケるなよ。俺は告白されてただけだ」
「告白!?」
私は目をむいた。
「来海くんに告白する人がいるの!? そんな物好きな……」
──どしっ!
二発目のチョップを喰らった。
私は言い直した。
「そんな……えーと、変わった人が」
「意味同じだろ、それ!」
三発目のチョップが飛んできた。
が、さすがに今度はよけた。
「お前、俺を何だと思ってやがる。学園一の美少年だぞ。ファンクラブだってあるんだからな!」
「ファンクラブ!?」
(何それ。アイドルじゃあるまいし)
と、私は呆れた。
「モ、モテるんだね」
「当然」
(うわ)
自慢げだ。
「……で、OKしたの?」
「するわけないだろ」
(……それはそうか)
成就したのなら、さっきの女子は一人で走り去ったりしなかっただろう。
「好みのタイプじゃなかったの?」
「そういう問題じゃない。フェアリーはみんなのものだからな。彼女なんか作らないんだ」
「ええっ!?」
(何それ! アイドルじゃあるまいし!)
と、私は再び呆れた。
「だから、俺は誰とも付き合わない。今までもずっとそうしてきた」
「えっ。ということは、彼女いない歴十五年?」
「モテないみたいな言い方すんなぁっ!」
「すみません!」
怒られた。
(怖っ!)
しかし、否定はしなかった。ということはこの人、本当に彼女いない歴十五年らしい。
いったい、いつからフェアリーやってるんだろう……。
「だいたい、自分はどうなんだ。彼氏いるのか?」
「いないよ」
「ほらみろ」
「……」
勝ち誇ったような顔をされた。
「いや、来海くんと一緒にしないでほしいんだけど。私は単にモテないだけで……」
「はあっ? 何だそれ、嫌味か!」
「……」
信じなかった。
(来海くんは知らないものね……元の私)
中学までの私──化け物みたいに醜かった、元の自分。あの頃のままだったら、来海くんはこんなふうに話しかけてこなかっただろう。
(……いや、あの頃のままだったら、そもそも私は今ここにいないか)
ここは名門、冷泉院。元の私には手の届かない世界だ。
「嫌味じゃないよ。今まで、私に告白する人なんかいなかったし」
「そんなはずないだろ。──ん? ああ、そうか。周りがブサイクばっかりだったんだな?」
「えっ!?」
突如、来海くんは妙な方向へ納得した。
「ザコからの告白なんてカウントしてない、ってことだろ? 分かるぜ。俺やお前レベルの美貌は滅多にいないもんな」
「ええっ!?」
「とはいえ、ザコこそ重要なんだぞ。何しろ数だけは稼げるからな。断るなら美しく断る! そうすればフッても投票してくれる!」
「えええっ!? 何の話!?」
「人気投票の話に決まってるだろうがぁぁっ!」
来海くんはクワッと目を見開いた。
「ヒッ」
私はズサッと後ずさった。
隠した校内新聞が見つからないことを祈る。今見つかったら火に油を注ぐ気がする。
「いいか、一位は常に俺だからな! お前には絶対負けねえぇっ!」
捨て台詞のように言い放つと、ぷいっと顔をそむけ、来海くんは立ち去った。
「し……心配しなくても、人気投票って男女別なんじゃ……」
弱々しく呟いた私の反論は、来海くんには届かなかった。