お兄ちゃん
六月、第二日曜日。今日は体育祭当日だ。私は早めに家を出た。
「エルム、エルム」
学校へ向かって歩いていると、クマが忽然と現れた。
「クマ。おは……よう……?」
挨拶しながら横を見て、私は思わず立ち止まった。そこには当然、クマがいたのだが――。
「おはよう」
挨拶を返すその姿は、悪魔ではなく人間バージョンだ。しかし。
「な、何? その格好」
いつもと違う。
柔らかな髪、優しげな瞳。桜色の唇、真珠の肌。
本性である捕食モードには及ばないものの、かなりの美形だ。しかも、いつもの偽装モードは私とだいたい同い年ぐらいだが、今日は少し年上気味だ。
「あんた……ちょっとフケた?」
「そこかよ」
クマは肩をすくめた。
「今日、体育祭だろ? せっかくだからお前の保護者役になってやろうかと思ってな」
「はあっ?」
……確かに、こういう行事の時は身内が見物に来るものだが。
「あんた、私の身内じゃないでしょ。それに普通、親兄弟に応援されるのって恥ずかしがるものじゃない?」
いや、私は『普通』じゃないのでよく分からないが。ちなみに本当の親は、どんな行事があろうと一度たりとも学校に来なかった。
「……どうなんだろ。みんなは、家族とか来るのかな……」
「けどお前、誰も来なきゃ来ないで寂しがるだろ。ほら、今日はこれでお前の活躍を記録して、昼は一緒に弁当喰ってやるよ」
これ、と言ってクマが見せたのは、なんとフルハイビジョンのビデオカメラだった。最近の悪魔はハイテクだ。
「ええっ? 別にそんな親馬鹿みたいな真似はしてくれなくても――えっ、じゃああんた、今日は私のお父さんってこと?」
「それにしちゃ若いと思わないのか、この格好」
「……思ったけど」
年上っぽい姿といっても、とても高校生の娘がいるような年代には見えない。せいぜい三〜四歳上、といったところだ。
「じゃあ……『この子』の、お兄ちゃん?」
「ああ」
クマはにやりと笑った。
「名前は『篠沢朔真』。東大の一年生だ」
「東大!?」
あつかましい設定だ。
「だから、いつも通り呼んでいいぞ」
「『サクマ』の『クマ』、ね」
「学部はどうする。理系か? 文系か?」
「……適当に決めれば?」
正直、どうでもいい。
「なら、工学部な。航空宇宙工学科だ」
「……」
本当に適当に決めたよ、こいつ。
「じゃ、弁当はオレが預かっといてやるよ。あとでな」
「えっ」
ひょいと私のランチトートを取り上げて、クマは忽然と消え失せた。
(……まさか、私のお弁当を横取りしに来たんじゃないでしょうね?)
だとしたら許せないが、まあ、そんなことはなかろう。気を取り直し、私は再び学校目指して歩き出した。
荷物が減って身軽になったせいか、足取りまで軽くなった気がした。
「――おや、篠沢様。おはようございます」
「えっ」
学校に到着してまもなく、私は意外な人物に遭遇した。
上品な雰囲気、ピシッとした動作。三十代前半の男の人。――来海家の運転手、遠藤さんだ。
「遠藤さん……お久しぶりです。どうしたんですか、こんなところで」
通常、生徒の運転手は学園の専用駐車場にしか立ち入らない。しかし今、遠藤さんは校舎のそばをうろうろしていた。
「下見です。今年から高等部で、場所が変わりますので」
「あ、来海くんの応援ですか?」
体育祭は中等部と合同だが、中等部の試合はそちらの施設で行われる。今の発言から察するに、遠藤さんは中等部時代も毎年、来海くんを応援しに来ていたのだろう。
「ええ。ご家族の皆様はお忙しくていらっしゃいますので、代わりに私が十碧様の体育祭を見届けさせていただき、撮影もお引き受けしているのです」
と、遠藤さんはフルハイビジョンのビデオカメラを見せてくれた。
「……」
ここにもいたよ、親馬鹿が。
「まあ、映像を繰り返し繰り返し、一番よくご覧になるのは十碧様ご自身なのですが」
「……凄く来海くんらしいです」
さすがフェアリー。ナルシストだ。
「ところで、来海くんは何に出るんですか?」
「バレーボールです」
「あんまりスポーツで汗を流すイメージがありませんけど……大丈夫なんですか、フェアリー的に」
「ええ。うまくやってらっしゃいますよ。よろしければ応援して差し上げて下さい。きっと喜ばれます」
いや、喜びはしないでしょうよ。
「篠沢様は何に出られるのですか?」
「バスケとリレーです」
「ほう、俊足でいらっしゃるのですね。きっと十碧様も応援に行かれますよ」
「……」
いや、それはない。絶対ない。
と思ったが、口には出さないでおく。
「そ、そうですか? それじゃ頑張らないと……はは」
私はぎこちなく笑った。
「そういえば、篠沢様のご家族はいらっしゃるのですか?」
「え」
――今の私に、家族はいない。
しかしもちろん、遠藤さんはそういう意味で言ったわけではない。
「は、はい。今日は、兄が来るんです」
と、私は答えた。
――今の私に、家族はいない。
いるのは、悪魔が一匹だけ。