ナノちゃん
「何に、出るんだ……?」
「バスケとリレーだよ。涼和くんは?」
「ソフトと、リレー……」
昼休み。私は体育館に来ていた。涼和くんもいるが、今日はバスケはしていない。
いつもと違い、体育館は盛況だった。体育祭が近いため、複数のグループが練習に来ているのだ。
冷泉院の体育祭は、リレー付き球技大会といった趣だ。当日はグラウンドや体育館でさまざまな球技の試合が行われ、その成績で各クラスの順位が決まる。そして最後を飾るのが、学年クラス対抗リレーだ。
涼和くんはそれと、ソフトボールに出るらしい。
(バスケには出ないのか……。あ、バスケ部だから?)
彼がバスケ部かどうか、実は未だに知らないのだが、多分そうだと思う。
バスケ部員は、体育祭ではバスケに出られない。バレー部員はバレーに出られないし、野球部員はソフトボールに出られない。なるべく公平に、ということだろう。
「へえ、リレー? 足、速いんだね」
「……お前もな」
対抗リレーは、四月に行われた体力テストの結果で選抜される。涼和くんは好タイムを叩き出したのだろう。
もちろん、『篠沢恵瑠夢』も選抜された。『この子』は足も速い。
「バスケ、教えてやろうか……?」
「えっ、いいの?」
「……少しなら」
相変わらず無愛想だが、冷たい性格というわけでもないらしい。
「じゃ、ボール取ってくるね」
「いや、俺が……」
「――イマキューレー!」
その時、聞き覚えのある声がした。誰かが小走りにやってくる。
「ねえ、良かったらバスケ教えてくれな――あ」
女子だった。私に気づくと、なぜか彼女は硬直した。
(あ)
と、私も思った。
栗色の髪、つぶらな瞳。素直そうな口元、素朴な肌。
見覚えがあった。この子は、昼休みにいつも涼和くんを応援し、「イマキューレー!」と叫ぶ子だ。
おお。そういえば、ちゃんと会うのは初めてかもしれない。
「……坂上」
涼和くんがぼそっと呟いた。眉間にシワが寄っている。
(うわ)
露骨に嫌そうな顔だ。
しかし最近、私は気づいた。これは嫌がっているのではなく、困っている顔だ。
涼和くんは別に、女嫌いというわけではない。ただ、女子への接し方が分からなくて苦手なのだ。
「ご、ごめん、邪魔しちゃって!」
女子は気まずそうに目を逸らし、パッと踵を返した。
「えっ!? ちょっと――坂上さん!」
私は慌てて引き止めた。
(坂上さん……でいいんだよね?)
とりあえず涼和くんが呟いた名前を呼んでみたが、自信はない。何しろ彼は女子に無関心だ。彼女の名前も、正確に覚えているかどうか怪しい。
「はいっ?」
だが、彼女はビクッと立ち止まって振り向いてくれた。
「す……い、いまきゅうれいくん、に用事なんだよね?」
涼和くん、と言いかけ、私は訂正した。
彼女は涼和くんに気がある様子だ。下の名前で呼んだりしたら、あらぬ誤解を招くかもしれない。
「い、いえいえっ、私は別にっ」
坂上さんは慌てて否定した。
「でも今、バスケ教えてほしいって、いまきゅうれいくんに……」
失礼ながら言いにくい苗字だ。舌がもつれないよう、注意する。
(普段、言ってないからなあ)
今給黎、今給黎……漢字を思い浮かべれば少しはマシな気がした。
「いえ、どうしてもってわけじゃないしっ。ごめんなさい、篠沢さんがいたの気づかなくてっ」
――さては、涼和くんしか目に入ってなかったな。
私はくすっと笑った。それをどう思ったか、坂上さんはサッと青ざめた。
「あっ、違うの! ただ、コイツの陰になってたから見えなかっただけで――睨まないで、イマキューレー!」
(え?)
ふと横を見ると、涼和くんの眉間のシワがますます深くなっていた。
(……)
坂上さん、これは睨んでるわけじゃないよ。何か気になることがある顔だよ。
「どうかした? 今給黎くん」
聞くと、彼は訝しげな目を向けてきた。
「何で、そう呼ぶ?」
「え」
「下の名前でいいだろ……いつも通り」
(げ)
せっかく気を遣ったというのに、この人は。
「……」
坂上さんは目を見開いた。
(げげ)
涼和くんは女子にそっけない。普段、彼を下の名前で呼ぶのは私ぐらいだ。これでは誤解されかねない。
まずい、フォローしなくては。私は坂上さんの恋路を邪魔するつもりはない。
「あの……」
「――ナノちゃ〜ん」
その時、声がした。見れば、少し離れたところに女子のグループがいる。その中の一人がこちらへ向かって手を振っていた。
「あっ。と、友達が呼んでるから、私はこれで……」
ハッと我に返った様子で、坂上さんが言った。
「ナノちゃん、って呼ばれてるの?」
「うん。私、坂上菜乃香っていうの。だから……」
――良かった、涼和くんの記憶は正しかった。この子の名前は坂上さんだ。
「そっか。可愛い名前だね」
「え! そ、そうかな?」
「うん。――私は、篠沢恵瑠夢」
坂上さんは『この子』のことは知っているみたいだが、礼儀として、私は名乗った。
「エルとかエルムとか呼ばれることが多いかな。よろしくね」
「えっ……あの、そう呼んでもいいの?」
「うん、もちろん。私も、ナノちゃんって呼んでもいい?」
「い、いいよっ」
坂上さんは嬉しそうに笑った。
(おお)
容姿はごく普通だが、笑うと三割増しで可愛かった。
それはともかく、いい流れだ。このまま涼和くんの呼び方に話を持っていけば――。
「ナノちゃ〜ん」
「あっ、行かなきゃ。じゃあまたね、エ、エルちゃんっ」
「え」
――が、その前に再び友達に呼ばれ、坂上さんは行ってしまった。
(ああぁ)
誤解を解けなかった……。
「……どうした?」
涼和くんは訝しげなままだ。
この人は理解していないだろうな、坂上さんの気持ち……。
「――何でもない」
私は力なく微笑んだ。
涼和くんは私の顔をじっと見たが、深くは追及してこなかった。
「……ボール、取ってくる」
代わりに、彼は短く言った。