花畑
母親はいつも、悲愴な目で私を見た。
この子を産んでしまって良かったのだろうか。
産んだからには、きちんと育てなければ。
――それでも、捨てないでいてくれた。
好きでもない男の、子供を。
(……。ん?)
ふと気がつくと、私は知らない場所にいた。
紺碧の空。遥かな地平線。足元には、私の知らない花が咲いている。
(……サクラソウ?)
似ているが、微妙に違う。その花は完全な純白で、葉や茎もどこか違和感があり、何より――光っていた。
全体が、淡く。
そんな花が、見渡す限り一面に広がっている。まるで巨大な絨毯のようだ。
(……)
空の青。大地の白。そして、無限の地平線。ここは――。
「……天国?」
「んなわけねえだろ」
馬鹿にしたような声が降ってきた。と同時に、影が射す。
「……クマ」
奴だ。私の頭上に浮いている。
つやつや光る漆黒の髪、妖しく底知れない闇の瞳――本性モードだ。
(……ああ。これ、夢か)
私は今、眠っているらしい。そこへクマが干渉しているのだ。奴は時々、こういうことをする。
「これ、何の花?」
私は景色に目を戻した。どこかで嗅いだような、甘い匂いがする。
「綺麗だろ。お前のために用意したんだ」
クマはにやりと笑った。
「さあ、好きなだけ喰いな」
「……。はっ?」
何ですと?
「いや、いくら私でもナマの花は食べないよ? それとも何、蜜を吸えってこと?」
「くくく……」
奴は面白そうに私を見下ろした。
「花じゃねえよ」
「えっ」
「よく見な」
「……?」
私は膝を屈め、足元の花に顔を近づけた。
(――ん?)
「あっ、これ、チョコレート!?」
なんと、その花は本物ではなかった。
至近距離で観察すればようやく分かる。白い部分はホワイトチョコで、葉や茎などの緑の部分は――。
「抹茶?」
「ピスタチオだ」
外れた。
「え――っ、凄い! これ、全部チョコレート!?」
私は立ち上がり、改めて周囲を見渡した。花――いや、チョコレートは、空と大地の切れ目まで、どこまでもどこまでも続いている。淡い光を放ちながら。
さすが夢。現実でこんなモノを作ろうとしたら大ごとだ。光らないだろうし。
「……けど、これじゃ動けないね」
私がいる場所だけは何もないが、他の地面は全て花(の姿をしたチョコ)で覆われている。その花を踏んづけない限り、一歩たりとも移動できそうにない。
「これ、行きたい方向の花を摘んで食べながら進めってこと? そんなゲームあったね」
「お前も飛べばいいだろ。ほら」
クマがそう言った途端、私の体はふわりと軽くなった。たちまち奴と同じ高さまで浮き上がる。
(おぉ)
下とはまたちょっと違った角度で、花畑(チョコ畑?)を見渡せた。
「気に入ったか?」
「うん!」
「さあ、好きなだけ喰いな」
と再び言って、奴は一本差し出してくる。一つの茎に四〜五の白い花と緑の葉が付いていた。
受け取って白い花びら部分を一枚かじると、それは本当にチョコレートだった。
「おぉっ。『モンルージュ』のショコラ・ブランの味がするよ!」
「ここはお前の夢の中だからな。お好み通りに咲いてるはずだ」
「へえ〜」
その一本はあっという間に平らげた。
私は空中をふわふわと漂い、少し離れた場所に咲く別の花を一本摘んだ。その花びらもかじってみる。すると。
「あれ? これは『ラ・ベル・シモーヌ』のブランの味がするよ」
見た目は同じだが、最初の花とは少し違っていた。
「言っただろ。お前の好きなホワイトチョコが咲くんだ。一流パティスリーから近所のスーパーの徳用まで、何でもあるぞ」
「へえ〜」
しかし、形は一律サクラソウもどき。その上光っている。
さすが夢。現実でこんなモノは存在しまい。
「……でも、何でホワイトチョコなの?」
私は素朴な疑問を口にした。
「別に統一しなくても、ミルクとかビターとか黒っぽい花が混ざっても良かったんじゃない? あんた、白が好きだっけ?」
「特に好きじゃない」
クマは肩をすくめた。
「けど、今日はホワイトデーだろ」
「……え」
「『ホワイトデー』っていうからには、やっぱり白だろ」
「……」
私は食べかけの花に目をやった。
バレンタインのお返しだったのか、これ。
「ス、スケール大きいね? 花束ならともかく、花畑丸ごとプレゼントってあんまり聞かないよ?」
「豪快だろ」
奴はにやりとした。
「時間無制限、摘み放題食べ放題。それと、人目のない綺麗な景色。お前の好物ばかりだ」
「好物!?」
何となく引っ掛かる言い方をするなよ、クマ。
「いや、普通なら私、せっかく咲いてる花を摘んだりしないよ!? ましてその場でバクバク食べないよ!? そこまで飢えてないからね!?」
「そうか。――オレは、いつだって飢えてるけどな」
ふいに、クマは唇を歪めて笑った。
「……え? どういうこと?」
何だか意味ありげな声音だった。つい、聞き返す。
「そのまんまの意味さ。悪魔は常に飢えてる。だから、奪ってやりたくて仕方ない」
――何を?
「……じゃあ、天使は?」
「奴らは逆だ。いつだって満たされてる。だから、分け与えてやりたくて仕方ないそうだ」
――だから、何を?
(……魂?)
いや、多分違う。魂なら『契約』すれば手に入る。それに、悪魔が『魂を奪ってやりたくなる』のは分かるが、天使が『魂を分け与えてやりたくなる』というのは何だ。意味が分からない。
魂じゃないのなら――何を?
「……私は、あんたにいろいろ与えてもらってるけど」
「くくく……」
クマは馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「オレの一番の楽しみを教えてやろうか、エルム」
「え」
「それはなあ――オレの地獄に落ちた亡者を数えることだ」
「……」
「数え直すたびに増えていく――それが、何より楽しい」
「……へえ」
陰気な楽しみだな、そりゃあ。
「そのためなら、生きてる間ぐらいは何でもしてやるさ。人の運命をいじるなんざ、オレには大した手間じゃない。お前も、好きなだけワガママ言っていいんだぞ」
奴は目を細めた。
「せいぜい楽しめ。今のうちに」
「……うん。楽しんでるよ」
クマは、私の望みを全て叶えてくれる。そういう『契約』だ。
「でもあんた、契約の終わった魂は食べるんじゃないの? 『増えていく』ってどういうこと? それとも、食べた数をチェックするだけ?」
「喰うこともある。その時だけは、満たされたような錯覚を味わえる」
奴はちろっと、唇をなめた。
「――が、取っておくこともある」
「取っておく?」
「喰っちまったらそれきりだろ? 取っておけば、まだしばらくは遊べる。といっても、契約中ほど面白いことはないけどな」
「……?」
よく分からない。
「――お前も、取っておいてやってもいい」
クマは私の頭を撫でた。
「オレが飽きなきゃ、地獄の時間は引き延ばせるぞ。それこそ、永遠にでも」
「……飽きたら、食べるんでしょ」
私は呟いた。
「それなら、最初から食べられたほうがマシだよ」
「暗いな、お前」
奴は嬉しそうな顔をした。
「オレは好きだぜ、陰気も無気力も絶望も」
「……悪魔だもんね」
こいつは、神様が愛さないものを愛する。
「いつ喰われるか分からない状態よりは、いっそ契約終了直後に喰われたいってわけか。なるほど。だが――契約が終わった後の話なら、もうお前の望みを叶えてやる義理はないよなあ?」
クマはますます嬉しそうに笑った。
「――お前が喰われたいなら、オレは喰ってやらない」
「……」
奴はまだ、私の頭を撫でている。その手つきは優しいが、浮かべる笑みは意地悪だ。
こいつに喰われて完全に消滅するか。地獄に落ちて永遠に苦しむか。
(……まあ、いいか)
自分で選んだ結果だ――受け入れられる。
(それに、契約が終わるまでは幸せでいられる)
人生には意味も勝ち負けもない。あるのはただ一点――最後に満足できるかどうか。それだけだ。
辛い年月がどんなに長くても、最後の一瞬が幸せなら救われる。少なくとも、私は。
「けど――まだ時間はある」
クマは言葉を続けた。
「今のうちは、何でも叶えてやる。何かあったら言えよ? 欲しいものとか、やりたいこととか」
「うーん……」
私はふと、花畑を見渡した。
「じゃあ――あんたも一緒に食べない? お腹空いてるんでしょ?」
「は?」
クマは一瞬、きょとんとした。が、すぐに呆れ顔になる。
「いや、『飢えてる』ってのはそういう意味じゃないんだが」
とは言ったものの、奴はリクエストに応えてくれた。自分も空中に浮いたまま、地面の花へ手を伸ばす。一本、摘んだ。
「まあいい。付き合ってやるよ」
「うん」
こいつは意外と、ノリがいい。
――目を覚ますと、まだ甘い匂いがした。
(あれ?)
見れば、枕元に花束が置いてある。
(おぉ)
夢の中と同じだ。ホワイトチョコとピスタチオチョコのサクラソウもどき――さすがに光ってはいないが。
(この状態のほうがよっぽど『ホワイトデーのプレゼント』らしいな)
などと思いつつ、花束(チョコ束?)を手に取る。そしてベッドから降りた。
(さて、今日のお弁当は……)
朝起きて、これからの予定を確認する。体は軽く、気分は明るい。
学校へ行くことを考えても、憂鬱にならない。
(今日も一日、生きられる……)
花を一本抜き、花びら部分をかじってみる。
夢と同じ――甘くて優しい味がした。