ガレット・デ・ロワ
ローテーブルの上に一台、大きなパイが載っている。中身は、カスタードクリームにアーモンドクリームを加えたフランジパーヌだ。表面には月桂樹の模様が描かれており、金色の紙で出来た王冠もかぶっている。
「ほう。ガレット・デ・ロワだね」
「ちゃんとフェーヴも入ってますよ〜」
昼休み。私は理事長室にいた。由和さんと向かい合う形で、ソファーに座っている。
本日のデザートは、十碧くんに貰ったバースデープレゼントを使用した一品である。せっかくなので作ってみた。パイにかぶせた紙製の王冠も『この子』の手作りだ。
切り分けたピースにフェーヴの入っていた人は、その日の王様・女王様になれる。王冠はそのためのアイテムだ。
「ふむ。私はその手のものに当たったためしがないが」
「今日は確率二分の一ですよ?」
「それでも外れるのが私だ」
「……」
そういえばこの人、クジ運が悪かったな。
「ところで、篠沢くん。エピファニーはだいぶ過ぎたが……」
「い、いいじゃないですか、いつ食べたって」
エピファニー――公現節。一月六日。キリスト降誕の際、東方の三博士が礼拝をしたという記念日らしい。このお菓子は本来、その日に食べるもののようだ。
「ほんとはこれ、新年のお祝いみたいなイベントなんですかね? 日本でいうと鏡餅的な存在ですか?」
「鏡餅……。確かにあれは正月限定の食べ物だね。別に他の季節に食べても罰則はないが」
「そ、それはまあ、真夏に鏡餅を食べても逮捕されたりはしませんけど」
独裁国家じゃあるまいし。
「ふむ。三月にガレット・デ・ロワを食べてはいけないという決まりもないね。それにそもそも、私はキリスト教徒ではない。それでは、気にせず切り分けようか」
「……。はあ」
だったらなぜエピファニーとか言い出した? こだわらないなら最初から口にする必要もないだろうに。
(……まあ、いいか)
私はパイの上の王冠をどけた。
「私が切るよ」
「そうですか。お願いします」
由和さんはナイフを取り上げた。その瞬間。
――バン!
(へっ!?)
いきなり、理事長室の扉が開いた。
「持ってきたぞ、理事長! これで文句は――」
現れた人物は紙の束を抱えていた。何か言いながら室内へ入ってくる。
が――入った途端、その人物はハッとしたように硬直した。
(あっ!?)
私も硬直した。
ゆるく波打つ亜麻色の髪、湖のような深い瞳――。
「し……紫関先輩!?」
「おおおおおっ!」
私が声を上げると、その人物はパアァァッと瞳を輝かせた。
「篠沢恵瑠夢! 今日は会えないと思ってたのに! ああっ、凄ぇ! 運命か!? おおおおおっ!」
「い、いや……」
ただの偶然でしょうよ、紫関先輩。
というか、なぜアナタがここに――。
「――紫関くん」
その時、由和さんが口を開いた。
(!)
私はビクッとした。
「……」
紫関先輩は、すっと冷めた。
「ノックぐらいしなさい。それと――ここで騒がないように」
(……)
静かな声、静かな口調。にも関わらず、有無を言わせない威圧感があった。
「……おい。どうしてここに篠沢恵瑠夢がいるんだ。あんたが呼び出したのか?」
――が、紫関先輩も負けてはいない。急激に機嫌を降下させ、冷気とともに由和さんを睨みつける。
(ヒッ)
部屋の温度まで下がった気がした。
「早かったね、紫関くん」
質問には答えず、由和さんはそっとナイフを置いた。
「期限は今日の放課後だったはずだが」
「ふん。またすっぽかされたらたまらねえからな」
「何の話かね」
「とぼける気か?」
「……」
「……」
(う)
空気がどんどん冷えていく。話の内容は見えないが、険悪なのは分かる。
(怖っ!)
「あ、あの……」
「――篠沢くん。すまないが、やはり君が切り分けてくれるかね。先に食べていなさい」
由和さんは静かに立ち上がった。そのまま奥の書き物机へ向かう。
「紫関くん、こちらへ。提出物を確認しよう」
「――待て」
低い声を響かせ、先輩は探るように目を眇めた。
「どういうことだ。あんた、まさかこいつを餌付けしてるんじゃないだろうな?」
(へっ!?)
餌付け!?
「……」
由和さんは立ち止まり、ちょっとこちらを見た。
「そうか……私は餌付けされていたのか」
「えええっ!? 違いますよ!」
納得しないで下さいよ、理事長様!
「ふむ。まあいい。それならそれで」
「良くはないですよ!」
『まあいい』とは何だ。『餌付けされてる自分』を肯定する気か? プライドはないのか、理事長様!
「――おい。質問に答えろ」
(ぐ)
ますますきつく、先輩は由和さんを睨んだ。
「君に教えるような事情はないよ」
由和さんは静かに質問を斬り捨てた。
「んだと? はぐらかすな」
(……)
いや、はぐらかしたわけじゃないですよ、紫関先輩。実際、わざわざ滔々と語るような大した事情はないんですよ。
(そういえば……どうしてこうなったんだっけ?)
自分でもよく分からないが、気がついたら時々デザートを多めに作り、理事長室でお昼を食べるようになっていた。
毎日ではない。たまにだ。が――何だ、この習慣は。
(……)
まあ、いいか。
「あの、先輩?」
私は流されやすい性格である。多分、なりゆきに身を委ねたのだろう。詳しくは思い出せないが。
そんなことより、とりあえず誤解を訂正しておきたい。
「これを持ってきたのは私ですから。先生はタダじゃ何にもくれないんですよ。口止めすることはあっても餌付けすることはないです」
「何ぃいいいっ!?」
先輩は驚愕の声を上げた。
「篠沢くん……それでフォローしているつもりかね?」
由和さんは呆れた声を漏らした。――あくまで静かに。淡々と。
「篠沢恵瑠夢が差し入れだと!? しかもこんなパイを丸ごと! 何でだ!?」
――何ででしょうね、本当に。
紫関先輩はたちまち絶望の表情を浮かべ、苦しげに身を震わせた。
「ああぁ、俺だって篠沢恵瑠夢とケーキ喰ったり喋ったりしたい! どうして親衛隊でもない奴がこんな特権を享受してやがるんだ! 俺は一緒にコーヒーすら飲んだことないのに!」
(……)
そういえばそうだな。文化祭の時はあくまで客と店員だったし。
「――そんなことは、どうでもよろしい」
紫関先輩の苦悶を、由和さんはまたしても静かに斬り捨てた。
「紫関くん。提出物はないのかね。ないなら退室しなさい」
「――ある」
ピタッと動きを止め、先輩は一瞬で冷ややかな表情に戻った。
「用がなきゃ来ねえよ、こんなとこ」
「それは結構。速やかに提出しなさい」
「……」
由和さんは書き物机に着いた。紫関先輩はその前へ移動し、持っていた紙の束をバサッと置く。
「――これで、文句ないだろ」
「ふむ。確認させてもらうよ」
と言って紙の束をパラパラと調べ、由和さんはその中の一部だけを抜き取った。
「揃っているね。よろしい。では、これは受理しよう」
そして、残りの束は紫関先輩のほうへ押しやった。
「他のものは、それぞれの教科担当の先生に渡しなさい」
「はあ?」
先輩は眉をひそめた。
「何でだよ」
「成績をつけるのは私の仕事ではないのでね」
「どうせあんたも口出しするんだろうが」
「何の話かね」
「……」
「……」
(ひえぇ)
再び空気が冷えた。
「――行きなさい」
短い沈黙の後、口を開いたのは由和さんだった。
「職員室へ寄って、迅速に全ての提出を済ませるように」
「……あんた……」
「急がなくていいのかね? 君にも予定があるだろう。期限は今日の放課後だよ」
「……。ちっ」
苛立った様子で、先輩は残りの束をバッと取り上げた。
そして勢いよく振り返り、焦がれるような眼差しを私へ向けてきた。
(っ)
異様な熱気が飛んでくる。軽くぞわぞわっとした。
先輩の唇が開く。が――そこから言葉が発せられようとした瞬間、邪魔するみたいに由和さんの声が響いた。
「紫関くん――行きなさい」
(!)
静かな声、静かな口調。にも関わらず、この威圧感。
(怖っ!)
「……。またな」
私をじ〜っと見つめ、それだけ言うと、紫関先輩は部屋を出ていった。由和さんのほうは二度と振り返らなかった。
――バン!
扉が閉まった。
(……。珍しく真顔で別れたな)
と、なぜかどうでもいいことを思ってしまう。
由和さんのほうへ顔を向けると、彼は先ほど受理した紙の束に目を通していた。
「……それ、何ですか?」
「生活態度に関するレポートだよ。彼は出席日数がぎりぎりでね」
「……はあ」
そりゃあ、皆勤とはいかないだろう。お仕事をしてるんだし。
「他にも課題がこまごまと溜まっているようだったので、まとめて出してもらうことにした」
――それはおそらく、先輩が持っていった分の束だろう。これから各先生へ提出するわけだ。しかし。
「あの、由和さん? そういうのって、理事長先生が直接指導するものじゃないような……」
「気にしなくてよろしい」
「気になりますよ!?」
担任も学年主任も生活指導担当もすっ飛ばし、なぜ由和さんが一生徒の出席日数やら課題状況やらを把握しているのか。
まさかとは思うが――これが、『圧力』?
「心配しなくとも、彼は今のところ、停学・退学まではいきそうにないよ」
「今のところ!?」
「ああ見えて成績は悪くない。先日の試験結果も上出来だ」
「何でちょっと残念そうなんですか!」
「これなら進級は確実だ。ふむ。仕方ない」
「仕方ない!?」
まさか、あわよくば紫関先輩を留年させようとかしてたんじゃないでしょうね、理事長様?
(見かけによらず物騒だよな、この人は……)
一見ただの物静かな美青年だが、淡々とサボるわ職権濫用するわ、よく考えたら結構とんでもない人である。
「それにしても――素晴らしい文章だ」
レポートに目を落としたまま、彼は呟いた。
「また指示した文字数の十倍も書いてきた。そして相変わらず、その八〜九割が君へのラブレターと化している」
「ええ――っ!?」
アナタもなかなかとんでもない人ですね、紫関先輩!
「よくこんな名文が書けるものだ。読むかね?」
「い、いや、いいです……」
言葉だけ聞けば褒めているように取れなくもないが、由和さんは明らかに皮肉で言っていた。
(……でも、ちゃんと読むことは読むんだな)
提出させた以上はきちんと目を通して評価すべきと考えているのか、単にさっさと読んでさっさと終わらせたいのか――それは定かではない。が、受け取るだけ受け取っておいて後は放置、などという真似はさすがにしないらしい。
(それにしても……)
私はローテーブルのガレット・デ・ロワを見下ろした。
「――あの、由和さん?」
「何かな」
一応、言っておく。
「私、餌付けなんかしてないですよ?」
「そうかね」
由和さんは静かな声で応じた。
「確かに、君の成績なら私があえて考慮すべき点はなさそうだね。生活態度にも問題はない」
「へっ!?」
ちょっと待て。どういう意味だ。問題があったら考慮してくれる気か? 世はそういった行為を贔屓と呼ぶぞ、理事長様!
「では、他のことで何かあれば届け出なさい。苦情でも陳情でも人間関係の悩みでも」
「誰のことを想定してるんですか、由和さん!」
「被害者からの訴えがあればすぐに対処できるよ」
「私に片棒担がせようとしないで下さい!」
気持ちはありがたいが、そこまでは困っていない。私は紫関先輩の学校生活を妨害するつもりはない。
(この学校……ほんとに大丈夫かな……)
紫関財閥と揉めたりしなければいいが。
いつぞや覚えた不安が蘇りつつ、私はガレット・デ・ロワを切り分けた。