憂い
青い光の満ちた空間に、人影が一つ、すらりと佇んでいる。
ゆるく波打つ亜麻色の髪、湖のような深い瞳。どこか野性的な、鋭い美貌――紫関先輩だ。
彼の上には、網目状に揺らめく金色の光が落ちている。水中世界を思わせる、幻想的な光景だ。
と――ふいに、先輩がこちらを見上げた。瞳に艶めいた熱が灯る。彼は眩しげに目を細め、誘うような眼差しを向けてくる。
『……』
挑発的な唇が、わずかに動いた。ほんのひと言、何かを喋ったらしい。
でも――その声は聞こえない……。
「……。『エルム』って言ってるね」
「言ってないよ!」
「この唇の動きは『エルム』だろう?」
「気のせいだよ!」
「……」
携帯から顔を上げ、十碧くんは私を見た。
「篠沢さん、現実逃避は良くないよ」
「私から現実逃避を取ったら何にも残らないよ!」
「は?」
朝。我々は廊下にいた。偶然遭遇し、何となく立ち話が始まり、現状に至る。
今、十碧くんが見ているのは紫関先輩の最新CMだ。途中、やけに色っぽい口パクのシーンがあり、ファンの間では「何て言ってるのか気になる!」と話題になっていた。
「ところでそれ、何のCM?」
「目薬だね」
「じゃあその商品名を言ってるんだよ、きっと!」
「篠沢さん……これが『SSSブリリアント‐ハイ超爽快クールグレード』に見える?」
「長っ!」
さすがに無理がある。そうは見えない。
「で、でも、いくら紫関先輩だって、公の場で勝手に私の名前使ったりはしないでしょっ? CMは『公の場』だよねっ?」
「――篠沢さん」
真面目な顔で、十碧くんはこちらを見た。
「残念だけど……氏名に著作権はないんだ……」
「妙に深刻に言わないでくれる!?」
「そもそも、口パクじゃあね……。本当に『エルム』って言ってるか証明するのは難しそうだし、そんなこと言ってない、とか主張されたらそこまでだし……」
「えっ、何の算段してるの!? 別に私、精神的苦痛とかで訴えようとは思ってないよ!?」
「そう? 放っといていいの? 本当に?」
「心底不思議そうに聞かないでくれる!?」
彼のことはそっとしておきたい。というか、ヘタに刺激しないでもらいたい。
十碧くんは携帯に顔を戻した。
「それはそうと……あの人、いつから君を下の名前で呼ぶようになったわけ?」
「なってないよ!」
「えっ。じゃあ、心の中でだけいつも君を『エルム』って呼んでるとか? 写真を眺めたり妄想したりしながら?」
「シャレにならないこと言わないでくれる!?」
想像するとちょっと怖い。
「シャレじゃないよ。この前もあの人、君のポストカードを睨むように見つめてたよ。あれは喜びを必死に抑え込んでる顔だったよ」
「ポ、ポストカード!?」
「うん。自分で作ったのかな、アレ……」
「……」
まさか持ち歩いてるんですか、紫関先輩?
「――来海くん」
真面目な顔で、私は自称フェアリーを見た。
「ごめん。忘れて」
「え?」
「来海くんが目撃したモノは忘れて。大丈夫。いくら紫関先輩でも、勝手に私のポストカード作って悦に入ったりはしないから」
「……」
十碧くんは『儚げな美少年』の範囲内で、不審そうな表情を浮かべた。
「もしかしてアレ、君が作ったの? しかも、よりによって紫関先輩にあげたわけ? まさか自主的にそんなことをするなんて。君もとうとうファンサービスに目覚め――」
「目覚めてないよ!」
君じゃあるまいし。
「だいたい、アレは私の仕業じゃないから!」
「えっ、じゃあ誰が?」
(ぐ)
私はちょっと目を逸らした。
「ク、クマが……」
「……」
十碧くんはますます呆れ顔をした。――あくまで上品に。儚げに。
「そうか……お兄さんのほうも、君のことが大好きなんだね……」
「いや、違うよ!? それは違うから!」
たった今、十碧くんの中で『篠沢朔真』が『シスコン』に認定された。すまない、クマ。
「え、遠藤さんだって作るんじゃないっ? そういうの!」
「……。それは彼の前で言わないでくれるかな、篠沢さん? ほんとに作りかねないから」
「失礼しましたぁっ、気をつけます!」
穏やかな物腰、繊細な声。にも関わらず、この圧迫感。
(怖っ!)
余計なことを言ってしまったらしい。遠藤さんは十碧くんグッズを自作したりはしないようだ。いや、作ってるのかもしれないが、少なくとも十碧くんの目には触れていないようだ。
「そそそ、それはともかく!」
「ともかくって、君……」
「今日は期末試験の結果が出てるはずだよね! 良かったら一緒に見に行かないっ?」
「……。まあ、いいけど」
強引に話題を変えると、やや眉をひそめながらも、十碧くんは携帯をしまってくれた。
貼り出された紙の前には人だかりが出来ていた。
「あっ、来海くんだ!」
「篠沢さんだ!」
――が、我々の接近に気づくと、その人だかりはサーッと割れ、道を空けてくれた。
(……)
「どうしたの、篠沢さん。行かないの?」
「よく平然としてられるね、来海くん!」
私は無理だ。たいへん居心地が悪い。
「おろおろしても仕方ないよ。美しいものは目立つんだ。どうせなら堂々としてようよ」
「私はそこまで悟れないよ!」
それに、自分で自分を『美しいもの』とか言えない。
(きっぱりしてるよな、この人は……)
十碧くんに迷いはない。
彼は進む。優雅に儚げに、それでいて自然に。私はその後を、ややうつむきながらこそこそついていった。
――これだけ注目されておいて、『こそこそ』も何もないが。せめて気分だけでも。
それはともかく。
さて、テスト結果は――。
(……三位か)
「ちょっと落ちたね、篠沢さん」
「い、いいじゃない、別に」
落ちたといっても、二位から三位に下がっただけ――私としては十分過ぎる。満足だ。
私は他の順位も確かめた。
「門叶くんはまた一位か〜。凄いよね」
彼はいつも通り、全教科満点である。とうとう一年間、百点以外を取らなかったわけだ。さすが、本と勉強の虫。
他の知り合いの名前は、十位以内になかった。
「来海くんはどうだった? テスト」
「うーん……数学がちょっと」
十碧くんは困ったように微笑んだ。
(この人、理数系が苦手だからな……)
――そうだ。苦手といえば。
ふと思い出し、私は十碧くんに尋ねてみた。
「それはそうと、来海くん。ちょっと気になってることがあるんだけど、聞いてもいい?」
「ん?」
「門叶くんと同じクラスなんだから、音楽の授業も一緒だよね? 門叶くんの歌って……」
「――っ!!」
皆まで聞かず、十碧くんはサッと青ざめた。
(!?)
――へっ?
なぜか怯えたような表情を浮かべ、彼はこわごわと声を漏らした。
「う、うん……門叶くんの歌が……どうしたの?」
自称フェアリーは震えていた。
「……」
何だ、この反応は。演技か? それとも――。
「あの……そんなにスゴイの?」
「……」
十碧くんはふっと目を逸らし、自分に言い聞かせるみたいに呟いた。
「僕は、人前で悪口は言わないんだ……」
「……」
陰る瞳、憂う顔。繊細で傷つきやすそうな、『儚げな美少年』そのもの。どこからか女子の黄色い声がする。
(……)
「えっと、それは――」
本音ですか? それとも『憂いを帯びた美少年』モードですか? ――とは、聞けない。
が、私の言いたいことは察したらしい。十碧くんはそのうるわしき風情を保ったまま、物凄い小声で囁いた。
「アレは聞くな。聴覚が破壊される」
(……)
涼和くんと似たようなことを言われた。
(門叶くん……頭はいいのに……)
天は二物を与えないらしい……。