序
鏡の中に、一人の少女が映っている。
柔らかな髪、うるんだ瞳。桜色の唇、真珠の肌。──綺麗だった。それも、物凄く。
「これ……私?」
思わず呟いて、私は自分の顔に手で触れた。すると当然、鏡の中の少女も全く同じ仕草をする。
「ああ。もちろん」
と、奴が答える。
「我ながら傑作だ。今のお前は絶世の美少女だぜ」
そう言って、奴は得意げに笑った。
「……凄い……」
顔だけでなく、私は自分の体をあちこち触ってみた。
形の良い大きな胸。きゅっと締まったウエスト。すらりと長い手足。──完璧だ。爪の先まで美しい。
「凄い……凄いよ、あんた!」
驚きのあまり、私は繰り返した。
ちょっと表情を作ったり、体の向きを変えたりしてみる。鏡の中の少女は、どんな角度から見ても美人だった。
(凄い……モデルみたい)
いや、むしろそこらのモデルやアイドルより、よっぽど綺麗だ。
「信じられない……これが私だなんて」
「ふふん、そうだろそうだろ。何しろ元がアレだもんな」
私の驚きっぷりを見て、奴は満足そうだった。
鏡の中の少女は、ほっそりとした指で頬を撫でたり、横顔を向けて整った顎のラインを確かめたりしている。
──元の私は、こんな美少女ではなかった。
パサパサの髪、つり上がった細目。黒ずんだ唇、シミだらけの肌。
何より──体重、百五十キロ。
身長ではない。体重だ。体重が、百五十。
(それが……凄い。さすがクマ)
私は奴をクマと呼ぶ。本当の名前は知らない。
「……でも、外見だけ変わっても……」
鏡の中の少女が、ふいに表情を曇らせた。
うるんだ瞳が、憂いの色を帯びる。それだけで雰囲気が一変した。ちょっと艶っぽい。
「心配するな。必要なものはオレが全部揃えてやるよ。新しい家も、名前も」
「ほんと?」
「契約内容は『最高の高校生活を送ること』だからな。ちゃんと面倒見てやるさ」
(……契約)
その通りだ。私はクマと契約した。死後の魂と引き換えに。
「ま、せいぜい楽しむことだな。今のうちに」
そう──クマは、アクマの『クマ』。
真新しい制服に身を包み、私は正門の前で立ち止まった。
──私立冷泉院学園。
(……信じられない)
広大な敷地に白亜の校舎。県内有数の進学校。あの憧れの冷泉院。
夢ではない。私はここの生徒になれるのだ。
「エルム、エルム」
いつの間にか、クマがいた。気がつかないうちに近づいてきたわけではない。文字通り忽然と現れた。
普通の顔、普通の男子。ご丁寧に、奴も冷泉院の制服を着ている。──今日は偽装モードだ。
「ほら、そこに立てよ。記念に一枚撮ってやる」
何と、奴は携帯を持っていた。
「写真? どうせ残らないのに」
「残るだろ。三年間は」
ふいに、クマは馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
そういう表情をすると、平凡な容貌の奥に一瞬、凄味の色香が仄見える。奴は、本当は脅威の美形だ。
「その間、いくらでも見られるさ」
「……まあね」
クマの言葉には皮肉めいた響きも混じっていた。しかしこれでも、奴としては私の世話を焼いているつもりなのだろう。素直に従うことにした。
正門のそばの、『入学式』の看板横に立つ。
クマの構える携帯に向かい、にっこりと微笑んだ。
廊下を歩けば、声がする。
「──ほら、あの子」
視線が集まっているのを感じる。私はギクッとした。
「可愛い……」
「岬美理より可愛いじゃん!」
(……)
思いきってちらりと振り返ると、ちょうどその辺りにいた男子が数名、ハッと目をみはった。
「おぉ〜っ、目が合った!」
「馬鹿、今のは俺を見たんだ!」
「可愛い〜。すっげぇ可愛い〜」
(……)
どうやら、私は騒がれているらしい。あの岬美理以上の美少女だと。岬美理というのが何者なのかは分からないが。
(……凄い、『この子』。アイドルみたい)
これが自分だという実感が湧かない。別人に乗り移って動いている幽霊になった気分だ。周囲の反応も、妙に客観的に見てしまう。
「──ねえねえ、あの子誰?」
「外進だよね? 中等部にいなかったし」
「篠沢恵瑠夢っていうんだって。可愛いよね〜」
──篠沢恵瑠夢。
そう、それが今の、『私』の名前。
クマがくれたのは美貌だけではなかった。
入学早々に行われた学力テストで、私は学年二位だった。
体力テストも、全種目で学年三位以内。
美術や音楽など、芸術系の授業では真っ先に褒められた。
(凄い、『この子』。何でも出来るんだ)
こんな完璧な美少女が自分だとは、やっぱり思えない。つい、一歩離れた視点で見てしまう。
もう少し慣れたら、今の『私』を楽しむ余裕も出てくるだろうか……。
──しかしとりあえず、高校生活は順調にスタートした。
そしてまもなく、私は思わぬ遭遇を果たすこととなる。