祖ハ神ヲ殺ス黒キ獣ナリ
故あって二つに分割。だって長過ぎるもん
―――――備えよ。この男は。
「そう言う事を言うのか」
青年はそう言ってにゆっくりと、こちらを振り返る。
ニィと笑う―――――
―――――お前の【敵】だ。
「!」
夕焼けに白く閃く刃。
立ち上る土埃。
飛び退くユウが居た場所を深々と抉り、そこには轟音と共に振り下ろされた巨大な鎌が突き刺さっていた。
「正解だよ、奏夜くぅううううううううん!」
「てめぇ……!」
「よくわかったねぇ。褒めてあげたいよぉぉおお!」
笑い声と大声を重ね、そこには身体を反らす生徒が一人、両手に二本の大鎌を携え立っていた。
見開く紅い瞳。
ニヤけた口元。
あの日、病院の屋上で見た鎌使いの男のソレと何一つ変わらない。
眼の前に【敵】がいた。
「……てめぇが俺の記憶を取ったのか」
「あれれぇ? ユウ君ユキちゃんの心配はいいのかなぁ?」
「それで呼ぶなぁ!」
「ちゃんと守らないといけないなぁあああああああああ!」
肩に担ぐ二本の大鎌。
埃を撒き散らし飛び退くままに、ユウは床に手をつき立ちあがると、駆けてくる生徒を前に腕の包帯に手を掛けた。
シュルリ……
解けた包帯が宙を舞い、二本の刃が虚空を撫でて布を切り裂く。
それは雪の舞い散り、粉雪払いて大鎌で地面を抉る様を見つつ、ユウは理科室の入り口へと飛び退く。
グッと握りしめる拳に黒き焔が浮かぶ。
腕に刻まれた文様に焔が浮かび、赤黒く明滅する―――――
――――我が焔を呼べ、主よ。
「急かすな……!」
「はやいねぇ! だけどちゃんと守りなよぉ!」
「てめぇ……」
「でないとぉ、また殺しちゃうよぉおおおおおおおおおおおお!」
「やかましい!」
夕闇に弾ける火花。
真一文字に振り抜いた鎌の刃を受け止め、ユウはその右腕を突き出すままに、衝撃に後ろに後ずさった。
「ぐぅ!」
指先から伸びる長い爪。
その姿はまるで獣の如く――――ユウは右手で鎌を受け止めながら、眼の前の男を睨みつける。
「この野郎!」
「爪が伸びたねぇ、だんだんと災禍に身体が染まっていく感触、悪くないだろう!」
「耳が腐るんだよ!」
「キハハハハハッ!」
男は声を張り上げ大声で嗤う。
今にも目玉が零れおちそうなほどに紅い目を見開き、狂気に嗤う。
「ニヒヒヒヒヒッ。いいねぇ、お前もようやくそれらしくなってきたぁ!」
「何者だてめぇは!」
「幌さんの賛同者だよぉ! てめぇを殺せって言われててなぁ、死んでもらうぜ!」
「名前ぐらい最期に聞いてやるよ!」
「暁正二! いい名前だろ、てめぇとは正反対だなぁ!」
「絡んでんじゃねぇぞゴミ虫がぁ!」
「ワンコがワンワン吼えんなよぉ!」
振り抜くままに吹き飛ばされる身体。
突き破れる理科室の扉。
ユウは吹き飛ばされるままに廊下に転がりつつ、床に右手をついて、滑るように体勢を立て直した。
―――――我が刃を掲げよ。
「這いまわれ……!」
夕闇に細める紅い双眸。
床に這わせた右手の黒い蔦模様が囁く声と共に、流れ出す様に指先から床へと刻まれだした。
そして、床に滲んだ呪印に沿って噴き上がる黒い炎。
それは真一文字に廊下を横切り、音を上げて飛び込んでくる生徒、暁正二の身体を飲み込み火柱を作り上げた。
それは天井を舐め、周囲の机を吹き飛ばし、黒き柱を作り上げる。
ユウは右腕を抑えながらゆっくりと立ちあがる―――――
「……」
――――来るぞ。
「だよな……!」
「まだだぁ! 気を抜くなよぉ、クソガキ坊主ぅ!」
交差に振り薙いだ鎌の二閃にはじけ飛ぶ黒い炎。
天井を這う焔が衝撃波にはじけ飛び、そこにはボロボロの制服の暁正二が鎌を両手に立っていた。
全身に浮かぶ黒い呪印。
体中から黒い靄が溢れだしては、まるで死神の如く、霧はその形をとる。
「ヒヒヒックソワンコが……! てめぇのおかげで服がボロボロだろうが」
そう言って後ろに手を伸ばせば、死神を形取る黒霧の中へと腕が吸い込まれる。
数瞬後、引きずり出されるのは黒いコート。
フードを頭に被り、コートに袖を通すと、男はニヤリと笑うままに、おどけた調子で肩をすぼめた。
「どうだよ、格好いいだろう? 幌さんが用意してくれた、俺の【呪い】だぁ」
「……でけぇ」
「ニヒヒヒッ この力は命を奪う。人の命を骸に変える。そして死を奪う」
「――――その力で」
「正解ぃ」
「なんだだ! なんで俺達を狙う!」
「幌さんに聞きなよ」
「てめぇに聞いてんだよ間抜けがぁ!」
「俺かぁ?」
ニィと笑いながら、身体を引きずるように、暁正二は前のめりに一歩を歩きだす。
ソレと共に死神の身体から無数の刃が迫り出す。
その切っ先が全て廊下に立つユウを捉える―――――
「お前がムカつくからだよ、このクソ野郎が」
「てめぇ!」
―――――逃げるぞ。
「お前には与えてやるよぉ! だから死ねよぉおおおお!」
刹那黒い霧の中から吐き出される無数のナイフ。
飛び退いたユウの居た場所へと刃が次々と突き刺さり、ユウは廊下を駆けだすままに、廊下の壁に手を這わせた。
「ワンコぉ! どうするんだよぉ!」
―――――壁に呪印を刻め。
殺意が背中まで迫ってくる。
ユウは走りながら、滑るようにその場で踵を返すと、壁に右手を這わせるままに、黒い呪印を指先から這わせた。
刹那、壁に吸いつけた手の間から黒い炎が漏れ出す。
スゥと紅い瞳を細めて、夕闇を切り裂き駆けてくる暁正二を捉えて、ユウは叫ぶ。
「焔よ……!」
刹那、廊下を遮るように天井いっぱいに焔が黒く噴き上がる。
それは隔壁になって駆けてくる暁正二の動きを止める――――
「キハハハハハッハハハッ」
―――――すり抜ける刃。
刹那、無数のナイフが暁正二の背後に揺らめく黒き死神の身体から飛び出して、燃え盛る焔の壁にめり込んだ。
ズズズ……
無数のナイフが一瞬で黒い灰となり焔の中に吸い込まれる。
それでも中の数本が炎に耐えきり、黒炎の壁から飛び出し、飛び退くユウの頬を掠めていく。
「な!」
頬を抑えながら振り返れば、そこには数人の生徒が見える。
「よけろぉおおおおおおお!」
――――無駄だ。
ザクリ
肉のめり込む音が廊下に響き渡った次の瞬間、投げナイフを受けた生徒の身体が、一瞬で真っ黒に染まった。
そして水風船の如く、膨れ上がり、その身体は一瞬で黒い水になって飛び散り周囲の生徒に飛び散った。
そして、彼らの身体もまた【呪い】を受けて黒く変色していく。
そして破裂し、飛び散り、辺り一帯に黒い水たまりができ上がっていく。
そして人が四人、破裂して死んだ―――――
「……くそったれ」
――――目的を履きちがえるな。お前は校舎の生徒を救うために戦うのか?
「俺は……」
――――来るぞ。
「くそぉおおお!」
黒い炎の壁を抜け飛び出してくる暁正二。
背中を反らし吼えるままに、ユウは紅き瞳を見開くと、振り下ろされる二枚の鎌を前に爪を薙いだ。
夕闇に弾ける火花。
鋭い爪を前に一振りの鎌が吹き飛ばされて壁に突き刺さり、一振りの鎌が肩にめり込んだ。
「がぁあああああああああああ!」
「ヒヒヒヒヒヒッ」
飛び散る飛沫が黒い死神に掛かり、暁正二は嬉しそうに迸る鮮血を舐めて、振り下ろした鎌でユウの身体を抉る。
「いてぇよなぁ、もっと泣けよ! て眼ぇがなけばそれだけ世界は救われるんだよぉ!」
「調子に乗るなよぉ!」
鋭く細める紅き双眸。
夕闇に伸びる右腕。
ガシリッ
めり込む爪は深々と皮膚を抉り、ユウは暁正二の顔面を鷲掴みにすると、スゥと息を吸い込んだ。
そして、赤黒く手の甲に浮かんだ呪印から炎が噴き上がる。
「災禍の炎よ……!」
刹那噴き上がる黒き炎。
首から上を一瞬で燃やすと、男を吹き飛ばすほどの衝撃が、ユウの右手から迸り、暁正二は弧を描いて宙を舞った。
飛び退くままに、床を伝う大量の鮮血。
動けば動くほど、心臓の拍動に合わせて飛び出す血飛沫。
抉れた肩の痛みと熱っぽさにユウはグッと左肩を抑えると、前のめりに膝をつきながら傷口に炎を当てた。
「はぁ……はぁ……」
――――炎が傷と痛みを喰らう、戦え。
「場所を変える……」
――――どこも一緒だ。
「うるせぇ!」
――――何を求める……。
「うるせぇ!」
――――その目に何が映る。
「うごけよぉ!」
――――主よ……。
失血で身体は鈍く、それでもユウは息も絶え絶えに地面を蹴りあげ踵を返すと、廊下を走った。
廊下を超え、階段を上る。
後ろから聞こえてくるのは、刃が空を切る音。
そして、続くのは甲高い断末魔。
その度に人が死んでいくのがわかる。
――――なぜ戦う。
「俺は……!」
――――何を求める……。
「くそぉ、くそぉおお!」
――――真実か、それとも収束か。
階段を登り切り、ユウは苛立ちに罵声を吐き出しながら、最後に屋上の廊下へと登ろうとした。
「おい、奏夜ぁ!」
背後から聞こえてくる野太い声。
聞き覚えのある声。
青ざめた表情で振り返ればそこにはムスッとした虎矢が廊下の端から歩いてくるのが見えた。
「まったく何か騒がしいかと思えば、とりあえず奏夜廊下は走るな!」
「虎矢……」
「下で何かあったんだろうな、生徒どもが妙に騒がしいが……」
そう言って虎矢は怪訝そうな表情と共に呆然とするユウのいる階段の入口へと近付いてくる。
ソレと共に、階下から聞こえてくる悲鳴が近づいてくる。
足音が階段を上ってくる――――
「! 虎矢逃げろ!」
「教師に向かって――――」
―――――声は途切れた。
宙を舞う首。
見開く二つの眼。
血飛沫が尾を引き、頭が一つ天井にぶつかって、床に転がり、胴体はいくつか痙攣を起こして床に倒れた。
ドロリ……
血が断面から溢れだした。
床一杯に赤黒い血が夕闇の廊下に広がっていった――――
「どうして……」
「どうしてぇ!? 面白い事を聞くなぁ君ぃ!」
手すりを切り裂く重たい刃を前に、ユウは飛び退くと、階段を上ってくる黒い靄を睨みつけた。
「どうしてだ、なぜここまでする!」
「それは彼女を殺した事かい!? それとも今こうして君と戦う事かなぁ!?」
「こうも無意味な人殺しをする!」
「人間じゃねぇよぉ! 視えるかぁ!? こいつら全員土くれの人形だよ!」
「手前勝手に決め付けてるんじゃねぇ!」
「意味がないから斬るんだよ! 自分にとって関係のない人間が死んだ所でどれほどの感慨が湧こうものか!
手前を殺せれば、俺は他に何も要らないんだよぉ!」
―――――宙を舞う腕。
空を切り裂き、地面を深々と抉る二枚の刃。
真一文字に振り下ろした鎌が肉を抉った次の瞬間、身体をよじってのけ反るユウの左腕が吹き飛んで黒い靄へと吸い込まれた。
「ヘヘヘヘ……腕貰ったぜ」
「ぐぅううううううう……・!」
ポタリ……ポタリ……
滴る大量の血。
痛みに明滅する視界。
脚もおぼつかなくなり、ユウはニィと笑う暁正二を横目に、身体を引きずるように屋上へと踵を返した。
刹那、死神を形取った黒い靄から迫り出す無数の刃。
暁正二は薄ら笑いを浮かべながら、階段をよろよろと登っていくユウを捉えては、その人差し指を伸ばす。
「殺せ……!」
虚空を切るナイフ。
ドスリ……
めり込む痛みは鈍く、異物が身体に刺さる痛みに吐き気が走る。
飛び散る鮮血。
見開く紅い瞳。
背中を反らし、数本のナイフを体に受けながら、ユウは血を吐きだし、その場に転がるように倒れ込んだ。
そして階段を滑るように、鎌を持った男の足元へと転がり落ちる。
「ぐぅうう……」
「あっけないなぁ……」
男はため息と共に大きく鎌を振り上げる―――――
――――雑魚が粋がりおる。
消えた。
「え……?」
ピタリと振り下ろす手が止まる。
一瞬と言う時間も無く、そこには階段に蹲るユウの姿は消えてなくなっていた。
溢れていた血溜まりも消えていた。
刺さっていたナイフは床に落ちていた。
ただ、彼がいたという事実だけが、消失していた。
「……なんだこれ?」
――――バタン。
頭上から聞こえる扉のしまる音。
足音が階段を上り屋上へと消えいていくのが聞こえてきて、暁正二は不満げに口を尖らせ怪訝そうに眉を潜めた。
「……まぁいいか」
そう言いつつ、男は階段を上がっていく。
その気配を背に、ユウは屋上へと這い出すと、フェンスに身を預けて、左腕の断面を抑えた。
蹲れば、痛みが血と共に溢れだして、血溜まりが一帯にできた。
喉の奥から、せき込むたびに飛び出す鮮血。
眠気が目尻をよぎる。
息をするのも苦しく、眼の前が霞んでいく。
ユウは大きく肩で大きく息をしながら、フェンスを背に蹲ったまま、苦笑いと共に右手を胸に押し付けた。
「ユキ……」
―――――心を澄ませ。
「見つけたぁ!」
ズリズリと金属を引きずるような音が聞こえる。
霞んだ瞼は重たく、屋上の扉を開く暁正二に一瞥すると、ユウはフェンスに血まみれの背中を押しつけ立ちあがった。
「……」
「よぉ、元気かぁ!? 奏夜くぅん!」
そう叫んで二本の鎌を突き出す男に、ユウは苦しげに肩で息をしながら睨みつけた。
「……最期だ。聞いてやる」
「強気だねぇ……僕は昔からお前の態度も声も姿形も匂いも何もかもが嫌いだった」
「……。誰だよお前」
「暁だよぉ! 覚えてないのぉ!? 忘れたのぉ!? だよねぇ全部取ったんだから、お前に残ってるのはこの一カ月の記憶だけ。
これからもずっとそうだ、二度と変わらない。一生お前はこの時間を繰り返し続ける!」
「……なぜだ」
「幌さんは言った。世界を浄化するために、魂を堕落させ、【原初の災禍】を呼び起こさないといけない。
その痣は罪の証。世界が背負った罪。その罪をお前に背負わせ、世界を浄化する」
そう言って右腕に刻まれた呪印を鎌で突きつつ、暁正二はニヤリとほくそ笑んだ。
「嬉しいだろ、世界が救えるんだぜ?」
「……。あの男が、俺と夕紀に……」
「いつだと思う?」
―――――よぎるのは、理科室の光景。
ユウは霞んだ両の眼を見開いては、鎌を突きつける暁正二の満面の笑みを前に喉を鳴らした。
「まさか……あの時」
「実験材料としては適任だった。お前ら二人……今回の実験、男と女の両方が必要だったんでな。
世界を救うために、お前達には人柱になってもらうぜぇ」
「てめぇ……」
「嬉しいだろ?」
「……有難迷惑だ……」
「ユキちゃんは喜んでくれるかもしれないぜ?」
「うるせぇ……」
「そうしてお前は無間の闇に堕落する。永遠に光を見ることなく魂の分解を長い時間かけて行われる。
そしてお前は消滅するんだ、激しい痛みと苦しみの果てに」
「……」
「ヒヒヒヒヒヒヒッ! どっちだっていいよなぁ。お前は俺のこと覚えてないんだからよぉ!」
振りあげる大きな刃。
宵闇の中、月明かりに白刃をぎらつかせ、暁正二は二振りの鎌を構えると、血まみれのユウに向き合った。
「終わりだぁ! お前を殺せばお前は人柱として成立する! そしてお前の魂は世界を浄化するんだ!」
ズルリ……
黒い血をべっとりと擦りつけながら、ユウは滑り落ちるようにフェンスにもたれたまま崩れ落ちた。
そして力なく項垂れては、眼を閉じ息を潜める。
心音が小さくなっていく。
指が微動だにしない。
力が入らない。
息が小さくなる。
暗闇が眼の前に広がる。
心が、闇の底に吸い込まれる―――――
「終わりだぁ! 奏夜ユウぅううう!」
「ユキ……」
―――――主よ。眼の前には何がある?
闇の深遠で聞こえてくる声。
―――――何がある? 真実か? それとも虚実か?
(……俺の【敵】)
――――否。そんなものはここにはない。
(……なら、なんだよ)
――――【眼】を開け。
声は静かに囁く。
謂われるままに、ユウは重たい瞼をゆっくりと開くと、霞んだ視界で眼の前の男を見上げた。
そこには巨大な鎌を振り上げる一人の男が立っていた。
ピクリともしない腕。
見開いたままの二つの眼球。
まるで剥製で固められたかのように、凍りついた四肢が綺麗に弓なりなって得物を振り上げているのが見えた。
―――――何が見える?
ユウはぼやけた【眼】で世界を見つめる。
だが、【慧眼】はなにも映さない。
映るのは夜空に浮かぶ雲。
冷たい夜風。
そして、白き月―――――
――――わからぬであろう、視えぬだろう。所詮真実などそんなものだ。
(……)
――――だが、見えるものもある。
(敵……眼の前の)
――――お前はこの刃に倒れるだろう。
(……抗う)
――――出なければ、お前は再び奪われるであろう。
(ユキ……俺の記憶)
――――立ち上がれ。自らを純化せよ。痛みを吐き出し、視界を狭めよ。
(ユキ……俺が助ける、何があっても……何を犠牲にしても)
――――我が【闇】を与えよう。全てを喰らい、滅ぼせ。
(ユキ……!)
――――戦え、我が主よ。
声が大きくなっていく。
ソレと共に止まっていた巨大な鎌が動き始めた。
まるで時が動き始めたかのように、振り下ろされる二枚の刃が、ユウの身体を貫こうとする。
刃が眼前に迫る。
隙間は数拍。
息を吸い込む。
地面を蹴り身体をよじるようにして、ユウは立ち上がるままにその場を飛び出すと、刃が背中を掠めた。
――――何人も遮れぬ力。
ズゥウウウンッ
立ち上る轟音。
そして噴き上がる粉塵を払い、暁は眼をぎらつかせながら、背中を向けて走り出すユウを捉えて構えを振り上げる。
「のろくせぇんだよぉおおおおおおおおおお!」
再びその刃がユウの背中を捉える―――――
――――世界を喰らう力。
「な!」
――――祖は神を殺す力。
空を切る刃。
刹那、まるで霞みに消えたが如く、ユウの姿が眼前から消え、暁は眼を見開きながら辺りを見渡した。
音はない。
影もない。
ただ宵闇広がる屋上の下、白月が冷たく大地を照らすのみ。
ただ一人、夜闇の底に立つのみ―――――
「ど、どこに……」
―――――迸る黒い焔。
見開いた視界の死角。
ダラリと腕を垂らし、身体を低く構え、血まみれになりながら、一人の青年が振り返ろうとする男を捉えた。
グッ固める拳の隙間から迸る黒き焔。
スゥと吸い込む息。
眼を細め、地面が割れるほどに踏み込み、身体を深く食い込ませる。
拳を固め振りかざす―――――
「な、なぁ!」
―――――故にしかと見よ、これぞ神を殺す力なり。
「くたばりやがれぇえええ!」
震える夜空。
罅走る床。
顔面に深々とめり込む拳。
砲弾が落ちたかのような重たい衝撃が走った次の瞬間、くの字に曲がった男の身体が文字通り吹き飛んだ。
「ぐぇあああ!」
立ち上る轟音と粉塵。
屋上の入り口の扉へと大の字でめり込むままに、男は粉塵を払いつつその場を離れた。
「くそぉ、クソォオオオ! どこだぁ! どこにいやがる!」
晴れた土煙の向こう、再び人影は見えない。
足音すら、そして影すら見えない―――――
「俺は、ユキを助ける……!」
―――――皮膚に吸いつく右手の平。
「ひっ!」
「……必ず」
右手から噴き上がる黒い焔。
スゥと細める紅き双眸。
身体から立ち上る黒き霧。
振り返る首を固定し、震える暁の背後、そこには俯くユウが男の頭を右手で鷲掴みにして立っていた。
「ば、ばかな……力が増してる」
「――――わからぬか?」
「だ、誰だ……お前誰だ!」
「この世に真実は存在しない。旧き神が滅びし後、この宇宙に【原典】は消えてなくなった」
メキリと音を立てて鷲掴みにする力が強くなる。
ニィと牙を覗かせ青年はほくそ笑む―――――
「故に、我が主こそ、その真実の全て。その艶やかな瞳に映るものすべてが真実」
「何を……!」
「世界を制動し、宇宙の形を変える。時を捩じり生み出し滅ぼし、喰らうは主が見るがままに。
星の流れを止めるも変えるも、主の呼吸一つのままに」
「―――――時を、止めた?」
「否。滅ぼしうるものなり」
「な……」
「神を滅ぼすよりは、尚容易き事なり」
青ざめていく男の顔。
スゥと細める双眸は夜の獣の如く。
ニィと牙を覗かせ、黒い文様を顔に浮かべながら、青年はゆっくりと口元を暁の耳元に添えた。
そして唇を優しく開き、囁く。
「……聞こう。浅ましく我が主にたてついて、あまつさえ腕を貪ったその訳を」
「む、むかつくんだよ。女といつまでもいちゃいちゃしやがって……てめぇらなんざ死んでしまえばいいんだよ
お前らなんかなぁ、新しい世界には、幌さんの作る世界には必要ないんだよ!」
「世界?」
「そうだよ。俺もその為にこの力を幌さんから分け与えられて」
「ほぉ……」
「お前もだろ。お前も同じ力だろ、だったら!」
―――――深く頭にめり込む爪。
飛び散る鮮血。
手の甲に刻まれた呪印が赤黒く明滅し、ビタビタと宙づりになりながら暴れる男を掴み、青年はニヤリと笑みを深めた。
「あたかも――――無知なるものよ」
「ぎゃあああああああ!」
「わかっていない。我らは原初の時より、この魂に宿りし獣」
「な……な」
「なればこそ、聞くがいい。我は【災禍の白狼】なり。永久の闇に集いし六体の【災禍の獣】の一柱なり。
我は闇。我は虚無。故に神を穿つ者なり」
「お、俺を殺す気か……呪いで殺す気かぁ!」
「無論」
「俺は呪い殺せないぞ……お前の与えられた力は!」
――――凍りつく、月。
「まだ、わかっていないようだな」
動きを止める雲。
風が止み、車が動きとめる。
人が呼吸を止め動きとめる。
星が自転を止める。
宇宙が、時を止める。
光が途切れ宵闇よりも深い闇淵が、世界に広がり、星の光すら途絶えた闇の底で、青年は静かに男に囁いた。
「我は【原初の災禍】なり、故にただ一つを除いて比肩はあり得ぬ。魂ではない、存在ではない。森羅の根を腐らせ、流転を呼び込む深き澱みの一滴。
絶対を終わらせる力。永遠の楔を断つ刃、神の対となりし我は即ち【闇】」
その右手に宿る黒き焔。
ソレと共に、掴んだ指先から男の身体へと、黒い蔦模様が伝わっていく。
男の身体が黒く染まっていく―――――
「故に見よ。これぞ【焔・戒天】――――天を砕く一滴なり」
一瞬。
暁の足元から黒い焔が立ち上った次の刹那、男の身体が黒く焔に巻かれて、瞬時に呑みこんでいった。
そして炎は瞬く間に黒き空へと立ち上り消える。
背中に立ち上っていた黒き死神は、空へと掻き消えた。
残ったのは、黒い塊。
焦げ落ちる制服。
いななく夜風に霧散していく頭髪。
ボトリ……
脆く砂の如く、崩れ落ちる両手足。
全身は煤のように漕げ落ち、そこには真っ黒に染まった人の身体が、青年の手に握られていた。
「……返してもらうぞ」
黒く焦げ付いた背中へと吸いつける左腕の断面。
「我が主の腕、そして記憶、思い出を」
ボコリ……
弓なりに沿る黒い骸。
内側から押し出されるように胸部が膨らんだ次の瞬間、黒い煤の身体を貫き、白い肌が突き出た。
ソレは黒い呪印を肌に刻まれたユウの左腕。
その手の中には、小さな黒い塊。
ぽっかりと黒い骸の胸元に大穴を浮かべ、ユウは左腕を引き抜くと、その手に持った黒い塊を開いた。
「……これは」
――――喜べ。尊く失った、お前の記憶。
砂のように脆く崩れていく眼の前の【人】
ユウはゆっくりとその小さな塊を胸に押し当てると、静かに眼を閉じた。
流れ込んでくる記憶。
少女の笑顔。
小学校、同じ通学路を毎日のように通った。
冬の寒い日。彼女が出てくるのを待って、手がかじかんで頬が真っ赤になった。
夏の暑い日。一緒に海に行って溺れそうになった彼女を助けた。
秋の一日、息が切れるくらい雑木林で黄色い落ち葉を散らして走って遊んだ。
春。一緒に同じ中学校の正門を潜った。
手を繋いで、微笑む彼女の横顔を見て―――――
――――ユウ君……その、ずっと手を繋いでね。
「ユキ……ユキ……!」
忘れていた、奪われた思い出が溢れだす。
ユウはその場で崩れ落ちると、高鳴る胸を抑え、涙を血のように流し、背中を打ち震わせた。
――――ユウ君、覚えてる? 明日、私の誕生日。
眼を閉じるたびに彼女の、照れくさそうな横顔が見えた。
――――これ……うそ、プレゼント?
耳を澄ませるたび彼女の、少し嬉しそうな名を呼ぶ声が聞こえた。
――――嬉しい……嬉しい嬉しいッ、すっごく嬉しいッ!
手の感触が覚えてる。
――――ユウ君。手、ぎゅッてして……。
彼女が傍にいた事を覚えている―――――
――――ユウ君……大好き。世界で一番、大好きだよユウ君。
ユウは只管に涙を流した。
月が冷たく闇を照らし、南の空へと登っていった。