黒キ【焔】 宵ヲ焦ガシ天ヲ裂ク
こっそり続き
――――心音すら聞こえる静けさ。
9月9日。
午前一時。
草間市内にある私立病院病棟の一フロア。
暗がりの中、一人の看護婦が夜間の見回りにと、一人懐中電灯で辺りを照らしつつ廊下を歩いていた。
コツコツという足音は廊下に響き、ライトは放射状に視界を照らし、暗闇を裂く。
「うーん……今日はおじいちゃんたちもよく寝てるかな」
そう呟く声すらひどく響く静けさ。
息遣いは微かに耳に聞こえ、機械音もエレベーターの音も聞こえない。
無音の暗闇。
ただ非常用通路の緑の蛍光灯が静かに闇を照らす。
ただ懐中電灯の明かりが、無造作に辺りを照らす――――
「はぁ……」
――――コツン……
「ん?」
――――コツン……
跳ねる音。
何かが床を叩く音。
看護婦は怪訝に思って後ろを振り返ろうとした。
「え、誰か」
―――――身体を貫く、無音の疾風。
「え……」
刹那の風に看護婦は大きく仰け反った。
揺れる懐中電灯の光。
闇が蠢き、光を吸い込み、人の形を取って、後ずさろうとする看護婦の前に、黒づくめの人影が腰を落としていた。
ドスンッ
床がめり込む程に踏み出す一歩。
くの字に曲がるほどに前のめりになる小柄な身体。
腰に伸びる細い袖。
はためく黒いローブがまるで翼のように広がり、その腰からスルリと何かが這い出した。
それは、大ぶりの刀の柄――――
「ひぃ!」
「……」
顔を覆う程に大きなフードの奥で、口をつぐみ、刀の柄に手を這わせる。
音はない。
息遣いすらかき消す深い闇。
刹那の内、闇を切り裂くのは一閃。
懐中電灯が宙を舞い、照り返す。
振り抜いた刃を腰の鞘に収める一振りの刀の軌跡を、照らし、その華奢な背中を覆う黒いローブを粗く照らす。
「――――記憶を貰う」
カチリ……
ぎらつく刃が闇に消え翻す黒いローブの背後には、何もなかった。
ただあるのは【黒い】床。
残ったのは、黒い靄。
大の字に寝そべった人の形に広がった黒い煤のような染みが、非常用通路の蛍光灯にほの暗く照らされた。
人の影が地面に縫いつけられたように、黒い墨が床に刻み込まれた。
「今回は、あっち……」
フードを深く被りつつ、小柄な人影は長いローブを床に引きずりながら廊下を音も無く歩いていく。
そして一つの病室の前に立つ。
表札には一人の男の名前。
『奏夜ユウ』
扉を開けば、部屋の中央、ベッドの上で僅かに膨らんだシーツが、いくつもの計器につながれ置かれているのが見えた。
敷居を超え、扉を閉め、黒づくめの人影は腰に添えた鍔に指を掛ける。
そしてすり足で一歩を踏み出す。
前のめりに息を潜める―――――
「!」
――――聞こえるのは微かな心音。
後ろから―――――
「……あんたが【敵】か」
グッと闇に突き出すメス一本。
闇に細める紅い双眸。
刀を構えたまま振り返る黒づくめの首筋に、切っ先を添えると、ユウは息を潜めて部屋の扉の裏から這い出し、静かに囁いた。
「【眼】が俺に教えた」
「……強い」
鋭く細めた右目から溢れる殺気。
刀を引き抜くことすら許さぬ冷たい雰囲気に、黒づくめの人影は身体を低く構えたまま小柄な身体を強張らせた。
「答えろ。お前らは何者だ……」
「……」
首元に鋭利な刃物を当てられ、ピクリともしない人影。
紅く脈打つ身体の黒い模様。
その華奢な立ち姿を見下ろしつつ、ユウは表情を険しくして、俯いたまま微動だにしない人影に口を開く。
「てめぇらがこの身体にこんな力を残したのか」
「……」
「てめぇが学校の生徒を殺したのか」
「……」
「お前が……ユキを『奪った』のか……!」
――――振るえるか細い背中。
「……。なんで」
「?」
「っ……」
虚空を掠める切っ先。
弧を描いて闇に閃く刃。
刹那、音も無く天井の鋭い刃の軌跡が真一文字に刻まれ、振り薙いだ刀が仰け反るユウの鼻先をよぎった。
「な!」
仰け反るままに床に倒れるユウ。
その顔を見下ろしながら、人影は深くフードを被ると、素早く刀を収めてユウの頭上を飛び上がった。
「……」
「待てよ!」
コートを靡かせ、飛び上がる人影を追いかけユウは立ちあがった。
人影はそのローブを靡かせながら、廊下を走り、やがて追いかけるままに屋上への階段をひた走る。
蹴破られる扉。
宙を舞う鉄のドアを横目に、ユウは月明かりの下、病院の屋上に立つ。
そしてフェンスに囲まれた辺りを見渡す――――
「……なんだてめぇら」
そこには三人。
フェンスを背に、同じく黒づくめの男が立っていた。
「情けないなぁ。幌さん、やっぱりこいつ外した方が良くないですか」
一人はユウと同じ背丈の青年の声。
肩に大柄な鎌を一本担いで軽い口調でそう言うと、足もとで蹲る小柄な人影の首に逆巻きの刃を絡めた。
「だろ? お前何回目だよ? おかげで俺が動く羽目になったじゃないの」
「……」
「おら、立てよグズ」
小柄な人影はというと胸を抑えて息苦しそうに肩を上下させて立ち上がる。
そして刀の鞘で首に絡んだ鎌を払うと、コートを翻してフードをさらに目深にかぶりつつ、立ちすくむユウに向き合う。
「ハッ、相変わらず生意気だ」
「やめてくれ」
「―――――わかってますよ」
不満げには鳴らすと共に、鎌を持った男は同じくフードを深く頭から抑えつつ、隣に立つ人影を見上げた。
もう一人、隣に黒づくめの男が立っていた。
フードから覗かせる口元に零れる笑み。
ほっそりとした手首を袖から覗かせつつ、痩身の青年は一歩、二人の間から抜け出して、ユウに歩み寄った。
そして、優しく語りかける言葉が、夜の月夜に響いた。
「やぁ、奏夜ユウ君」
「……。あんたら、誰だよ」
「身内が手荒なまねをしたね。許してほしい」
「答えろよ」
そう言って、右腕を突き出すユウに向き合い、男は一人、フードの奥に携えた瞳を細めた。
屋上を掛ける風に靡く病院副。
細める紅い瞳。
顔半分を覆う黒い呪印。
その右腕にはうっすらと黒い文様が浮かび、手の甲には黒い太陽がくっきりと刻みこまれ、赤黒く明滅していた。
ニヤリ、男は口の端を嬉しそうに歪める。
「どうやら……【滅び】は君を受け入れたようだね」
「何のことだよ」
「僕は世界を救うもの」
そう言って両手を広げるそぶりを見せる男に、苛立ちにユウは双眸を細めて、腰を低く落として構えた。
「戯言も大概にしやがれ……」
「本気さ」
「学校の連中にちょっかいかけたのはてめぇらだな」
「正解だ」
「人殺しが世界を救う? 偽善を垂れるのもいい加減にしやがれッ」
「誰かに喜んでほしいわけじゃない」
「その垂れ流した電波が迷惑だって言ってるんだよ。このボケナス」
紅く脈打つ黒い文様。
スゥと眼を細める姿はまるで夜に得物を狙う獣の如く。
青年はニヤリと笑うと、その手をユウにかざして、囁いた。
「もう一度、僕の所にくるんだ」
「――――もう一度?」
「ああ。もう一度だ。何度も言うのは好きじゃない」
「俺の身体に何をした……!」
「君の魂に細工をした。魂は呪われ、やがて災禍の獣を生み出し、それは神へ続く道となりうる」
「何が目的だ……」
「世界を救うため」
「人をバカにするのもの大概にしやがれ!」
「――――君の幼馴染は喜んで手を貸したよ」
見開く紅い瞳。
愕然とするユウにフードの奥で男はニヤリとほくそ笑んで、手を差し出したまま、一歩を踏み出した。
「かつて、君の幼馴染はその呪いを全身に受けた。神を受け入れる器になるため、自らが汚れる決断をした」
「……何を言っている」
「そして、僕らの仲間になった」
「なんでお前らが、【アイツ】の事を知っている……!」
――――男はほくそ笑んだ。
「忘れたのかい?」
目深にかぶった黒いフードの奥に隠れた、その卑屈な笑みが、見開いた紅く滲んだ瞳に映る。
そして紅い瞳に呪印が浮かぶ。
【慧眼】が告げる。
真実が眼の前に広がる。
「……お前らか」
「なにが?」
一人の少女の姿が幻のように映る。
優しく微笑み振り返り、長い金色の髪を風に靡かせる、名もなき幼い少女の笑顔が見える。
名前を忘れた少女が浮かぶ。
奪われた記憶の断片が魂に焼きつき燃え上がる。
ユウは眼を見開いて、牙を剥く――――
「お前……俺の記憶を取ったな!」
「だとしたら?」
幻をかき消す様に、男はたじろぐユウに手を伸ばし、声を上げる。
ユウは眼を紅く見開き夜に吼えた。
「返しやがれ……!」
「いやだね」
「世界を救うと言った男のセリフがそれか!」
「君が必要なんだよ」
「自分がやってきた事を棚に上げたそのエゴイズムが俺の記憶を、幼馴染を奪った!」
「今まで忘れいたんだろう? 悪いのは君だ」
「どの面下げてほざいたかぁ!」
顔全体に浮かぶ黒い蔦模様。
身体から溢れだす黒い靄。
息も荒く、身体を低く地面を蹴りあげると、ユウは立ちつくす黒服の男に覆い被さる程に高く飛び上がった。
その拳は赤黒く光を放ち、黒い文様がビッシリと全体を覆う。
そして、黒い焔が立ち上る―――――
「幼馴染――――ユキを返しやがれぇえええええええええ!」
「暗き獣よ……」
「逃げるなよぉおおおおおお!」
―――――夜に立ち上る炎。
一体に走る激しい轟音。
それは屋上を覆う程の火柱となって夜空全体を覆い、月を黒く染めて貫いた。
飛び退くままに翻すローブ。
立ち上る黒い火柱を前に、青年はフードを抑えつつ、残りの二人に支えられながら屋上に降り立った。
「幌さん。大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫だよ」
そう言いつつ、左腕は炭化して崩れ落ちていて、男は忌々しげに崩れかけた左腕をもぎ取りつつ、眼の前の火柱を見上げる。
その炎は未だ立ち上り続け、三人の視界を遮り続ける。
その火柱の奥、黒い炎に包まれ唸り声を上げる影が見える。
背中に立ち上る黒い靄。
手足を地面にめり込ませ、首を伸ばす黒い獣の影が、揺らめく焔の向こうで金色の眼をぎらつかせる。
スゥと眼を細めて黒づくめの男捉えて牙を剥く―――――
「まさに化け物……」
「幌さん。後は俺がやりましょうか?」
「ダメ。君だと殺してしまう」
「あいよ」
「今は戻ろう。彼女の覚醒段階もこれで上がったはずだ」
「はいさ」
「【災禍の獣】は直に目覚める。焦ることはないさ」
そう言ってフェンスを飛び越えて二つの影が病院の屋上から飛び降りた。
残ったのは一人の影。
グッと手で握りしめる刀の鞘。
胸に手を添え、震える指先。
立ち上る火柱の熱風にローブを靡かせながら、小柄な人影はきつく唇を結んで黒い炎を見上げた。
「……奏夜くん」
―――――グルルルルルゥ……!
黒き焔の柱の向こうから聞こえてくる唸り声。
剥きだす敵意に、小柄な人影は静かに頭を抑えてフードを目深にかぶると、踵を返して二人の後を追いかけた。
そして三人の男の姿が消え、焔の柱が強く立ち上る。
「……ユキ」
収束していく焔の柱。
やがて黒き焔は渦を描いて霧散し、暗闇の中、立ちつくすユウが一人、焔の中から姿を現した。
ボロボロになった病院服。
顔に浮かぶ黒い文様。
震える手には未だに黒い炎が立ち上り、腕の表面を這う赤黒い文様を伝うように肌を舐めた。
目尻を伝うのは、雫。
「……」
――――ユウ、くん……。
思いだすのは
ズキリと胸が痛む。
眼の奥が熱い。
喉が痛い。
たまらず、ユウは蔦模様の浮かんだ胸倉を掻きむしると、鋭く伸びた爪を立てて肌に血を滲ませた。
痛みが身体を貫いた。
熱が身体を焼いた。
それでも、ユウは自分に楔を打ち立てるように黒き焔を胸に焼けつけ傷を刻みつけた。
意識が明滅して、涙があふれた。
その度、少女が微笑む姿が、瞼の奥で溢れた。
―――――ユウ君……いつか、私を助けにきて。
「ああ……」
――――必ずだよ……私、待ってるから。
「俺は……」
獣は月を見上げる。
そして目を細める―――――