呪イ――災禍の侵食、黒き獣の囁き
――――運命とは、かくも面白いものかのぉ。
聞こえるのは嘲りに満ちた声。
――――同じことばかりを繰り返す、主はやはり愚かだな。
たび重なる侮蔑。
苛立ちが頭を掠め、意識が遅れて持ちあがり、ユウは頭を抑えながら、よろめきつつ起き上がった。
「……ここは」
辺りを見渡せば、そこは夕焼け色の教室。
机は、教室の後ろに積み上げられ、真っ平らな床が教壇まで広がっていた。
床に伸びるのは自分の影。
そして、もう一つの大きな影。
「起きたか?」
立ち上がりつつ、振り返れば、教壇の上に影が一つ鎮座していた。
ニィと歪める口元から覗かせる鋭い牙。
ピンと立った耳。
紅い双眸が、全身を覆う黒い体毛にあって、異様なほどにくっきりと浮かび上がり、立ちすくむユウを見つめる。
フンと鳴らす突き出た鼻腔。
全身を覆うのは黒い体毛。
長い尻尾を教壇から垂らし、前足の爪を表面にめり込ませ、そこには一体の獣がこちらを見つめていた。
狼――――全身を黒い靄に覆われ、黒き獣は紅い双眸を細め覗きこむように、たじろぐユウに首を伸ばす。
「ほぉ。その目、ここがどこかわからんという顔だな」
「――――お前誰だよ」
「誰でも良かろう? ワシを案ずるほど余裕はなかろう?」
「……」
「なんせ、お前は一度死んだのだからな」
そう言って、嘲るように黒い狼は顔を歪めて、身体に纏う靄を妖しく揺らす。
刹那、腕に走る痛み。
ハッとなって痺れる右腕を持ち上げると、右手の甲に何かが浮かんでいた。
指先を伝う黒い蔦模様。
僅かに立ち上る黒い靄。
燃える太陽のように、黒い文様は、手の甲に浮かぶ黒い円形の痣を中心に広がり、手首から腕を這いあがっていた。
甲に浮かぶ黒い呪印が赤黒く滲む。
それは黒く太陽が血を流す様に―――――
「……」
「それは呪印だ。お前が抱え込んだ【原初の罪】だ」
「――――呪印?」
「しかり。原初の罪。神が死した時、お前は永遠の呪いを受けた。決して消えぬ痛みを抱えて生き続ける呪いを受けた。
その呪いは、やがてお前を蝕み、魂をも喰らいつくすだろう」
「なんで……?」
「覚えているだろう?」
そう告げる黒き狼の言葉尻は楽しげで、ユウは右手を下ろすと、忌々しげに顔を歪めて眼を反らした。
頭に浮かぶのは、最期の場面。
黒いナイフが身体に突き刺さっていく瞬間。
ユウは頭を抑えつつ、苦々しい面持ちで視線を落とした。
「紫苑院……」
「お前を殺した者がどこかにいる」
何かを踏んだ感触に、視線を落とせば、そこには割れたガラスの破片。
うっすらと表面に浮かぶのは、自分の顔。
細めるのは、紅く滲んだ右目。
右頬から首筋にかけてくっきりと黒い蔦模様の浮かんだ、苦悶に歪んだ奏夜ユウ自身の顔がそこにあった。
「結末を知らないお前ではあるまい」
「……」
「ある男は、実験で魂を【原初の災禍】に食われた。そしてその身体は完全に滅し、魂は深淵の牢獄に繋がれた」
「……次は、俺か」
尾を引く黒い靄。
スルリと滑り落ちるように、前足を床に這わせると、胴を伸ばして黒き狼は教壇から静かに下りた。
そして歩み寄るままに、黒き狼はその紅き瞳を重ねるように、ユウの右目を覗き込む。
その瞳は血のように紅く、ユウは右目を抑えつつ、顔を背けて街の景色を眺め見た。
「ここはどこだよ?」
「ここは原初の荒野。お前の魂が生まれた場所だ」
「魂の?」
「心の底。眠りの闇。世界が生まれた原初の中心だ」
見渡せば、そこは確かに見知った景色だった。
夕焼けに茜色に滲んだ街の景色も、同じく草間市のもので、ユウは長らく住んでいた街並みの光景に目を細めた。
「そして、その場所は、今ここで崩れ始める」
――――空を走る亀裂。
刹那、夕焼け色の景色に罅が走り、破片がまるで雪のように大地に降り注ぎ始めた。
崩れ落ちるビル群。
大地が轟音と共に地割れを起こし、やがて見慣れていた景色が崩れ始める様に、ユウは愕然と眼を見開いた。
「な……」
「お前の魂はいずれ滅する。やがてお前はその肉体と共に、過去を思い出す事も、未来を思い描く事も無くなる。
死ぬとは、そう言う事だ」
「……」
「さがせ、お前の魂に眠った【災い】を目覚めさせた者がいる」
轟音にビシリと教室の窓に走る罅。
崩壊を始める街並みを見つめ、ユウは小さなため息と共に、自分の右手を覗き込むと、繭を潜めた。
「お前を殺したいと、望む者がいる」
「――――紫苑院、夕紀」
「探せ。そして。この世界を壊す者を。その【眼】で世界と向き合い、自らが望むままにその拳を振るえ。
その為に、我が力、差し出し与えよう」
そう言って、黒き狼はユウの手を覗き込む――――
「受け取れ、我が【焔】を」
刹那、腕に走る熱。
ハッとなって視線を落とせば、そこには右腕が黒く燃え上がっていた。
まるで焔が墨色に燃え上がって右手全体を覆っているようで、ユウは揺らめく黒い炎の熱っぽさに眼を細める。
「……これは」
「魂の焔をやろう」
「……」
「お前の眼に映る【敵】は強く、そしてお前の魂を狙っている」
「……これで、戦え、か」
「否。世界と向き合え」
スゥと崩れ落ちる夕焼け色の景色を横目に、黒き狼は鋭く眼を細めて、たじろぐユウの顔を覗き込んだ。
ニィと牙を覗かせ口が三日月状に歪む。
その顔つきはまるで悪鬼の如く――――
「尋ねよう。我が主よ。……この世界が【真実】に満ちていると、本当に思っているのか?」
「……どういう、事だよ」
「この世界が、全て正しいものだと思えるか?」
「……」
「お前の【眼】には、何が映る?」
「俺の、眼?」
恐る恐る右目の目元を指でなぞれば、刹那【慧眼】が起動し、黒い文様が紅い瞳に刻まれた。
そして【慧眼】が真実を見せる。
眼の前にいる獣の姿を―――――
「お前の眼に映る全てが、世界の真実か?」
「……」
「【宇宙】に問いかけよ。そして答えはお前自身が見つけよ。その先に【原初の災禍】がお前を迎え入れるだろう」
「……」
「急げよ。旧き【呪い】は着実に主を蝕む」
「――――ユキ」
「呪いを与えた者を探せ。世界を滅ぼす者を探しだし、其の地を見つけ出し」
黒き狼はニヤリと笑った。
「そして殺せ、災禍の魔王、我が主よ」
何が起きているのか分からなかった。
「……うう」
気がつけば、病院のベッドに横たわっていた。
「お兄ちゃん!」
「……美香」
「お兄ちゃぁあああああああん!」
ベッドに横たわる俺に最初に飛びかかってきたのは、妹の美香だった。
いつもと同じ匂い。
いつもと同じ超え。
泣きじゃくりながら肩に顔を埋める仕草は変わってなくて、、それでもか細い妹の体重に身体が痛みを走らせた。
「生きてる……」
「お兄ちゃん、よかったよぉおお!」
「い、いたい」
「あ、ごめん……」
ふと身体を見下ろせば、そこには俺の身体。
包帯だらけになった俺の四肢。
動かすだけで鋭い痛みが走り、これが俺が現実に帰ってきた事を教えてくれる。
あの場所から、俺は―――――
―――――世界は滅びを迎える。
「え……?」
「? どうしたのお兄ちゃん?」
泣きそぼった目尻を擦りながら、不思議そうに首を傾げる妹の、甲高い声ではなかった。
聞き覚えのある声。
あの場所にいた、黒い狼―――――
――――急げよ、我が主よ。
「……」
「やっぱり、何度も頭ぶつけたから……」
「……。大丈夫だよ」
わけがわからなかった。
ただわかるのは、自分の身体は包帯だらけで、痛みが今もずきずきと全身を走っていて、動くことすらままらないということ。
そして個室を見渡せば、妹が一人いるだけ。
「他の人達は帰ったよ」
「何人来ていた?」
「三十人かな?」
「クラス全員か?」
「うん。後担任の人と――――後、紫苑院さんって言う人は来てないって言ってたけど」
「……」
当然だろう。
アレだけのことをして顔を見せられるとも思えない。
だけど……彼女は泣いていた。
泣きながら、俺を見ていた。
あの顔はどこかで見たことがあった。
どこかで―――――
「――――正確な人数ってわかるか?」
「え?」
「一応、守衛さんに聞いてきてくれないか?」
「う、うん……」
――――後にしよう。
彼女は人を殺した。
そして俺を殺そうとした。
なら、彼女が敵か。
それとも―――――
「あ、お兄ちゃんッ。起きてた?」
「おうよ、お前が戻ってくるまで俺ずっと起きてる」
「もう……けが人何だから寝ていてよ」
「いいから」
「これ。誰がいつ来たかってリスト。来るたびにつけてもらってるみたい」
――――同じ時間に大量に来ている。
恐らく担任の虎矢の指示で、一人一人書いたのだろう。律義な男だ。名前をなぞりながら、俺は少し微笑みを浮かべた。
「……ん?」
――――違和感。
なぜ?という疑問符が頭をよぎった。
「どうしたの? お兄ちゃん?」
「……いや」
――――知らない名前がいる。
他のクラスメイトと同じ時間、リストでも前後でクラスメイトに挟まれながら書かれているのが見えた。
だけど、知らない生徒がいた。
誰かが、俺の病室を訪れていた。
誰。
なぜ。
指に針が刺さったような痛みを頭の裏に刻みながら、俺は【眼】を見開きつつ、その名前を眼に焼き付け読もうとした。
「!」
「どうしたの?」
―――――名前が、消えた。
正確には、読もうとしたその名前だけ、まるで墨を掛けたかのように、焼き尽くしたかのように一瞬でマスキングされたのだ。
一切視えない。
あるのは、黒く焦げた跡だけ。
そして、立ち上る黒い靄―――――
「……ありがとう、守衛さんに返して来てくれないか」
――――主よ、覚悟せよ。
「うん。今日は私止まるね」
「いやいい。お前は帰れ。ここにいたら、逆に危ない」
「でも……」
――――【敵】が近いぞ。
「明日には退院するさ」
「わかった……」
「悪いな。母さんも父さんもいないのに」
「ううん。いざとなったら看護婦さんの所で止まらせてもらうから」
「早く帰りなさい……!」
右手が疼く。
一人残った部屋で、包帯を外せば、そこには黒く変色し始める右腕があった。
肌に深く刻まれた黒い模様は、今も広がり、俺の肌を黒く浸食している。
旧き【呪い】
恐らく、これが全て身体を覆えば、俺は死ぬ。
時間がない。そして敵が近い。
俺を殺そうとしている―――――
「……ユキ」
――――不意に、忘れかけていた幼馴染の名前が思い出せた。
懐かしい名前だった。
それが誰の名前かすら、忘れていたはずなのに。
「……」
俺は拳を作って、胸に押し付けて祈る。
この大切な、思い出の欠片を、もう二度と離さないように。何度も思い出せるように。
そうだ。
彼女だ。
俺が、助けたい、大切な幼馴染の名前は―――――
「ユキ……俺が……」
記憶が混同する。
或いは、純化していくのか。
記憶の底に、誰かがいる。
俺は、誰なのか。
彼女は誰なのか。
眼の前に広がる景色は、全て真実なのか―――――