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小さな奇跡

「ヒナー」

 何の変哲も無い朝。

 雛子と一緒に小学校へ登校する為、涼は佐伯家を訪れた。

 だが……。

「おはよう、涼君」

 玄関から出て来たのは、雛子の母、明日美であった。

 涼は、いつも優しい雰囲気をまとった明日美の事が大好きだ。

 だが、このところずっとその優しさには陰りが見えた。

 子供である涼には判らなかったが、何となく様子が違うな……というくらいには感じていた。

「おはよー、おばさん。 ヒナは?」

「ごめんね、涼君。 雛子、今日もお布団から出て来ないのよ」

 ここ数日、雛子は学校へ行っていなかった。

 そればかりか、家から一歩も外へ出ないのだ。

 普段は雛子と一緒に登下校するのを恥ずかしがって避けている涼が迎えに来るのは、そういう理由からなのだ。

 それに、あの日から雛子は……。

「どうして?」

「それが、小母さんにも解らないの」

「……じゃあ、一人で行くね?」

「はい、行ってらっしゃい。 気を付けてね?」

「うん! いってきまーす!」

 ガチャガチャとランドセルを鳴らしながら、涼は走って学校へと向かった。

 明日美は涼の後姿を見送ると、小さく溜息を吐きながら玄関のドアを閉めた。

 そのまま雛子の部屋へと向かい、布団を被ったままの雛子に声をかける。

「雛子」

 明日美が呼びかけても、雛子は返事をしない。

 いや……したくても出来ないのだ。

 何故なら、今の雛子は喋る事が出来なかったから……。

「どうしたの? 学校大好きだったでしょ? 涼君、お迎えに来てくれたのに」

「……」

「学校で何かあったの?」

「……」

 しかし、雛子は布団から顔を出さず、明日美の問いかけにも何も反応をしない。

 あまりしつこく問い詰めるのも逆効果かと、明日美は諦めて部屋を出る事にした。

 階段を下りて居間へ入ると、明日美はソファに腰を下ろし、深い溜息を吐いた。

 雛子がこうなってしまったのには、自分にも責任の一端がある。

 明日美は、あの日からずっと、そう考えていた。

 保がこの世を去った、あの夏祭りの夜からずっと……。

「あれから、もう一年が経つのね……」

 何故、自分は雛子を保だけに任せてしまったのか。

 もしも自分か夫が一緒に行っていたなら、保が事故に遭うような事にはならなかった筈だ。

 仕事があった事など、言い訳にもならない。

 現に、こうして自分が休んでいたって、何も変わらずに会社は運営されているし、新薬の研究だって進んでいるではないか。

 勿論、夏祭りに行くからといって休暇など取れる訳もないが、家庭を犠牲にしてまで働く理由が、果たしてあったのだろうかと明日美は考えているのだ。

「環さん……」

 環が笑顔で接してくれる度、明日美は罪悪感にも似た気持ちで、胸が締め付けられるような思いに駆られる。

 もし自分が逆の立場だったら、きっとあんな風には笑えないだろう。

 相手を恨んで、罵って……。

「……やめよう」

 そこまで考えて、明日美は首を強く左右に振り、気持ちを切り替えようとした。

 こんな事を考えていたって、雛子の声が戻って来る訳でもないのだ。

 ただ、雛子の身体自体に障害がある訳ではない。

 要は心の問題なのだから、極力普段通りの生活を続ける事が肝要なのだと担当医は言っていた。

「普段通りの生活……か」

 しかしそれは、雛子を孤独の中に戻す事を意味する。

 早朝から深夜まで、一日中たった一人で家の中にいる……そんな生活をさせる事を意味するのだ。

 明日美は両手で顔を覆い、再び深い溜息を吐いた……。



 涼は学校から帰ると、すぐに佐伯家を訪れた。

 そして二階に駆け上がり、雛子の部屋へと入る。

 毎日こうして雛子の部屋へ行く事は、既に涼の日課になっているのだ。

 その両手には明日美から貰ったケーキとジュースがある。

「ヒナ、まだ寝てんのか? ネボすけだなぁ〜」

 涼に言われると、眠っていない事をアピールするように、雛子は掛け布団を少しずらして、少々不機嫌そうな顔を覗かせた。

 ネボすけの涼に言われた事が悔しいのだろう。

「またそんな顔する。 ブスになっちゃうぞ?」

 ケラケラ笑いながら言う涼に対し、雛子はプゥ! っと頬を膨らませ、再び布団を被ってしまった。

「ほら、今日も練習するんだから、顔出せよ」

 今まで野球やサッカーに費やしていた時間 (まあ、大部分はケンカだが……) を、涼は全て雛子の為に使っている。

 それが解る雛子は被っていた布団を外し、ベッドの縁に座り直した。

 涼は雛子の机から椅子を引っ張って来るとそこへ座り、コホンと軽く咳払いをしてから、雛子に向かって大きく口を開け……。

「じゃあ行くぞ。 『あ』」

「……」

 雛子は涼の口の動きを真似て、自分も口を開け、発音しようとする。

 だが、やはり雛子の口からは何の音も出て来ない。

「そうそう、そんな感じ。 『い』」

「……」

「うん、昨日よりもいいよ。 『う』」

「……」

 涼は雛子の動き一つ一つにコメントを付けながら練習を続ける。

 実際には何の意味も無いのかもしれない。

 だが、雛子が自ら声を出そうと努力する姿勢を見せるのは、こうして涼が一緒にいる時だけなのだ。

 雛子にとって、父よりも、母よりも、涼の存在が大きいのだ。

「……今日はこれくらいにしよう。 あんまりやると疲れちゃうからな」

 短気な涼が癇癪も起こさず、五十音の最後までニコニコしながら終えた。

 これは、殆ど奇跡に近いような出来事だ。

 雛子の発声練習に付き合う事で、涼にも若干の成長が見られるのかもしれない。

 涼にとっても、雛子は大事な存在なのだろう事を窺わせる。

「なあヒナ、何で学校に行かないんだ?」

「……」

「誰かにイジメられるのか? だったら俺に言えよ。 そんな奴、俺がブっとばしてやるからさ!」

 確かに雛子が喋れなくなってからというもの、クラスの女子の一部から陰湿なイジメを受けている。

 最初はクラスのみんなも同情してくれていたのだが、さすがに一年もの長期に渡ると、徐々にそれを疎ましく感じる者が出て来るようだ。

 だが、雛子が学校へ行かないのは、それが直接の原因ではなかった。

 自分が喋れないのがいけない……。

 自分がシッカリしていないのがいけない……。

 雛子は、自分が他人に迷惑ばかりかけているのが嫌で、自分の存在そのものが嫌で、何もかもが嫌になっているのだ。

 両親が暗く沈んでいるのも自分のせい……。

 涼が遊ぶ時間を犠牲にしているのも自分のせい……。

 保が死んだのも自分のせい……。

 生まれて初めて見た環の涙……それも自分が流させた物。

 生まれて初めて見た涼の涙……それを流させたのは自分。

 大好きな人を苦しめ、悲しませたのは自分……。

 雛子は、そうやって自分の心を切り付け続けているのだ。

「あ、さっきおばさんがケーキくれたんだっけ。 なあ、一緒に食べようぜ」

 でも、こうして涼が毎日来てくれる。

 その事が雛子の心を軽くしてくれるのも事実だった。

 だがしかし、それを嬉しく感じる心を、雛子はまた恨めしくも思う。

 結局、雛子は心の中で問題を処理し切れないのだ。

「……ヒナはさ、大きくなったら何になりたいんだっけ?」

 雛子が考え込んでいると、不意に涼が言った。

 思い切りケーキを頬張っていた為、涼の口の周りにはクリームがたくさん付いている。

「……?」

 将来の夢……いつか涼には教えてあった筈なのにと、雛子は首を傾げて涼を見た。

「何だっけ……お嫁さんじゃなくて……あ、お母さんか?」

 雛子はコクリと頷いた。

 なりたい職業もたくさんある。

 けれど、雛子が一番なりたいのは何の変哲も無い、ごく普通のお母さん……優しい母親になりたいと思っているのだ。

「でさ、この間俺のお母さんが言ってたんだけど、お母さんになるには、お父さんよりも強くないとダメなんだって」

「……?」

「お母さんは 『命』 を産むんだから、負けちゃダメなんだって。 今度ここに来た時、ヒナに教えてあげなさいって言われてたんだ」

「……」

「俺にはよく解んないけど、確かに俺のお母さん、強いもんな」

 涼は、そう言って頭を掻きながら笑った。

 雛子にも、涼の口を借りた環の言葉の意味はよく解らなかった。

 けれど……何となく、絡まった心の中の鎖が一つ外れたような気がした。




 翌朝、宇佐奈家の玄関の前には、ランドセルを背負った雛子の姿があった。

 少し背伸びをしてインターフォンを押すと、応対に出た環に向かって雛子はニッコリと微笑んだ。

「あら! おはよう雛子ちゃん。 相変わらず可愛いわね〜」

 環は雛子の元へ歩み寄ると、いきなり抱きしめて頬擦りを始めた。

 別に珍しい光景ではない。

 環は雛子に会うと、必ずこれをする。

「も〜……いっそ、うちの子になっちゃいなさい!」

 雛子は環に抱きしめられても、いつもなすがままになっている。

 それは、環の温もりが心地良いのと、安心出来るような匂いのせいだ。

「……お母さん、何してるの?」

 ランドセルを手に持ち、玄関まで出て来た涼は、相変わらずの環の行動に渋い顔をしている。

「あら、我が愚息。 これは朝のご挨拶よ」

「俺、そんなのされた事無いけど?」

「だって、雛子ちゃん専用のご挨拶だも〜ん」

「……」

「さあ! 今日も元気に勉学に励んでらっしゃい!」

 雛子を開放した環は、涼の頭をペシ! っと軽く叩き、満面の笑顔で二人を送り出した。

 どうやら、これが涼専用のご挨拶らしい……。


「まったくもう……ヒナは、あんなお母さんになるなよな?」

 暫く歩いた所で、環に声が聞こえない事を確認してから、涼は頭を摩りながら言った。

 それを聞いて、雛子は笑った。

 自分が目標にしている母親像が環だと知ったら、涼はどんな顔をするだろう? と思いながら。

「……あれ? 雛子じゃん」

「あ、ホントだ」

「宇佐奈も一緒だ……珍しい〜」

 通学路の途中にある大通りの手前で、三人の女の子が涼と雛子に気付いて、二人を見ている。

 信号待ちをしているので、二人の周りには何人かの人も立っているのだが、子供は涼達だけだ。

「雛子ってさぁ、な〜んかウジウジしてて、見てるとムかつくんだよね」

「そうそう。 せっかく休むようになって、せいせいしてたのに」

「いいじゃん。 また休むようにしちゃえば」

 三人は嫌な笑みを浮かべ、涼達に近付いて行った。

「ひ〜なこ」

 三人の内の一人が雛子のランドセルに凭れ掛かるようにして、後ろから圧し掛かった。

 一瞬、雛子はビク! っとして後ろを振り返り、その後、急にオドオドした様子で下を向いてしまった。

「ずっと休んでたから心配してたんだよぉ〜?」

「どうしたのぉ? 風邪でもひいてたのぉ〜?」

「お前ら、ヒナの友達か?」

「そうよ。 ねえ雛子、アタシ達と一緒に行こうよ。 女同士の方がいいでしょ?」

「はいはい、アンタは一人で行きなよ」

 そう言うと、女の子達はグイグイと涼を歩道の端へと押しやった。

「な、何だよ、押すなよ! 危ないだろ!」

「男のくせに何ビクビクしてんのよ。 車なんて来てないじゃん」

「何こいつ? 超ヘタレ〜」

 普段、男子相手には無敵の強さを誇る涼も、相手が女子では殴る訳にもいかない。

『自分よりも弱い者に暴力を振るうのは、卑怯者のする事だ!』

 と、生前の保に徹底的に教育されたからである。

 涼も自分自身そう思っている為、自分よりも強い者か、多人数相手 (それもやはり男限定) 以外には、決して力を振るったりはしない。

 女の子達は涼が大人しくしているのをいい事に、調子に乗って更に力を込めて涼を車道へと押し出そうとする。

「よせってば!」

 車道……そこは、保が命を失った場所。

 例え違う道であったとしても、涼にとってそこは父を殺された場所なのだ。

 しかも自分の目の前で……。

 幼い涼には、そこは 『怖い場所』 なのだ。

「あ、車が来たっ!」

 こちらに走って来る車を見つけた一人の女の子が、涼の傍でわざと大きな声を出した。

 それは、もっと涼を脅かしてやろうという、些細な悪戯心からの事だった。

 だが、その一言は、涼に対して予想以上の効果をもたらしてしまった。

 目の前で車に跳ね上げられ、人形のように空中を舞う保の姿が涼の記憶の中でフラッシュバックすると、涼の身体は硬直し、足がもつれたようになり、そのまま車道へヨタヨタした足取りで出てしまった。

 それに合わせたように信号が青から黄色へと変わり、赤になる前に交差点を通過しようとする車が加速した。

「え……?」

 誰もが、それを見ていても何も出来なかった。

 目の前で何が起こっているのかは理解出来ても……瞬時に何をすべきかは解っても、身体が動かないのだ。

 と、その時、

「涼ちゃん、危ないっ!」

 聞き覚えのある声と共に、小さな手が強い力で涼の手を掴み、歩道へと引き戻した。

 次の瞬間、今まさに涼が出ていた場所を、一台の車が猛スピードで駆け抜けて行った……。

「……ヒナ?」

 倒れこんだ涼が自分の下に見たのは、大きく目を見開いた雛子の顔だった。

「怪我してない? 痛い所、無い?」

「ヒナ、お前……」

 涼が立ち上がり、雛子の手を引いて立たせると、雛子はキッと振り返り、

「どうしてこんな事するのっ! 危ないって判ってるのにっ!」

 猛然と女の子達に食って掛かって行った。

「え? あ、あの……それは……」

「もしも涼ちゃんに何かあったら、絶対に赦さないからっ!」

「べ、別に何も無かったんだから、いいじゃない……」

「謝りなさいよっ! 謝れっ!」

 今の今まで喋れない相手と高をくくってイジメていたのに、それが突然、物凄い勢いで挑みかかって来たものだから、女の子達は三人とも対応出来ないでいる。

「い、行こう!」

「うん!」

「あ、待てぇっ! ちゃんと謝れっ!」

 リーダー格の女の子が走り出すと、残る二人も後を追って走り出す。

 その背中に向かって雛子は更に文句を言うが、女の子達は振り返りもせず、そのまま学校の方向へと走り去ってしまった。

 尚もそれを追いかけようとする雛子の腕を後ろから掴み、

「ヒナ……声……」

 涼は怒る事も忘れ、ポカンとした様子で雛子に話しかけた。

「え?」

「だから、お前、今喋ってるって……」

「あ……」

 今まで自分でも気付いていなかったのか、涼に言われて初めて自分が喋っている事を認識した雛子は、信じられないといった顔をして、 『あーあー』 と、確かめるように何度も声を出した。

「声、出た……」

「出たな」

「……涼ちゃん! ヒナ、お家に帰る!」

「え? だって学校……」

「お母さんとお話するの! たくさんお話するの!」

 一年間……ずっと話せなかった事が山ほどある。

 親と一緒にいる事自体が殆ど無い雛子にとって、この一年間に無くしてしまった機会は、あまりにも多い。

 明日美が家にいられるのは、自分が喋れない間だけ……その時間は、今日で終ってしまうのだ。

「……じゃあ、俺も一緒に行くよ」

 あまりにも雛子が興奮してしまっているので、涼は心配になったのだ。

 もしもこれで再び喋れないような事になったら、雛子はきっと立ち直れない……そう思って……。

 だが、そんな心配は杞憂に終り、雛子は明日美に対し、何時間も捲し立てるように喋り続けた。

 いつも大人しい雛子の姿は、そこからは想像出来ないくらいだった。

 そして今日ばかりは、この涼のルール違反に関して、環は何も言わなかった。


 それはまだ残暑の厳しい、九月のある日の出来事だった……。

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