〜縁〜 (えにし)
これは、〜永遠の追憶〜を三部構成の物語として考えていた頃、第三部最終話として公開する予定だった物です。
お蔵入りさせたままにしておくのも勿体無いような気がしたので、公開させて頂く事にしました(^_^;)
立ち並ぶビル群を眼下に見下ろす高層ビルの屋上で、スーツ姿の女性は携帯電話を片手に、
「その取引の件に関してはあんたに任せるわ。 腕の見せ所なんだから、しっかりやってよ?」
と、時折風に煽られる手紙を戻しつつ言った。
高校時代に一度短く切った髪も、今ではすっかり長く伸びて、艶やかな黒を湛えている。
『え? で、でも、わたし一人だけじゃ……』
「大丈夫大丈夫。 もし何かあってもバックアップしてあげるから、思い切ってやってごらん?」
『何かあってもって……そんなぁ……』
「ええい、四の五の煩い! そんな根性無しの後輩を持った憶えは無いわよ! 女は度胸! 大学新記録を出した時みたいに勝負しておいで! あんまり泣き言ばっか言ってると、練習量を今の倍にするからね! 合宿の時には三倍にしちゃうから!」
『ひぃぃ〜ん、先輩の意地悪〜……』
高校生の頃、陸上部の部長を押し付けられた時もこうだった。
とにかく強引で、こちらの言う事になど耳を貸してくれないのだ。
「頑張れ頑張れ! アタシが応援してやるから。 実業団エースの底力を見せてみなさい」
問答無用で電話を切ると、風に揺れる長い髪を押さえながら、女性は手紙を持ち直して真剣に読み始めた。
「そっか……それ以外に考えられなかったんだね……」
それ程長くはない文面の全てに目を通し終えると、女性は薄っすらと口元に微笑を浮かべた。
懐かしい匂いの風が吹き、女性は一時 (ひととき) 目を閉じ、その風に身を委ねた。
そして大きな溜息を一つ吐くと、う〜んと背伸びをして、
「さて! バックアップするって約束したからには、ちゃんと体制を整えておいてやるか!」
ヒールを鳴らし、女性はビルの中へと戻って行った。
「やれやれ……」
分厚い胸板の前で広げた手紙に視線を落しつつ、呆れたような表情を浮かべて男性は言った。
少々年季の入ったアパートの一室には、けれど、どこか幸せそうな空気が満ちている。
男性は椅子を引いて腰を下ろすと、テーブル上にその手紙を置いた。
「何も進んで苦労を背負い込むような真似をしなくてもいいだろうに」
「でも、彼女らしいとも言えるわね」
男性の隣りで、髪を後ろに束ねた女性が言った。
その顔は男性とは対照的に、楽しげに微笑んでいる。
「しかし、現行の法律で許される事なのか? 何か問題が発生するような事は無いのか?」
「そうね……詳しい事は知らないけど、特に問題無いと思うわよ?」
「法律上の問題が無くても、後々の事を考えるとだな……」
「その点はしっかり考えてるみたいだし、わたし達が心配する必要は無いわよ」
「そうはいかん。 やはり先輩という立場に立つ者としては、後輩の動向には常に気を配ってやらんと」
「変わらないわねぇ……。 後輩の世話を焼くのもいいけど、少しはわたしの事も考えてね?」
「考える? 何をだ?」
言った瞬間、男性はお尻を抓られた。
しかも、思い切り……。
「いたたたた! いきなり何をするんだ!」
「まったくもう! 少しは彼を見習って成長してちょうだい!」
「何を怒っているのか知らんが、こんな事をしているようでは、奴が成長しているとは思えんぞ?」
「そこが違うのよ。 彼は成長してるわ……だって、こんなにも凄い結末を用意したんだもの」
「……そうなのか?」
「そうなの!」
難しい顔をして考え込んでしまった男性を見て、女性は深い溜息をついた。
何やら難しそうな本の並んだ小さな机の正面で、白いレースのカーテンが風に静かに揺れた。
ボブカットの髪を手で直しながら、白衣姿の女性医師は手にした手紙にもう一度目を通した。
「そう……。 貴方はその道を選んだのね……」
少しだけ微笑んで、女性は机の引き出しに大事そうに手紙をしまった。
「彼らしい結末……なのかしらね」
傍に立っていた研修医の女性は、それが医師の独り言なのか、それとも自分に言ったのか少し考えてから、 「そうですね」 と相槌を打った。
医師の読んでいた手紙と同じ物を受け取っていたので、その内容は研修医も知っているのだ。
どうやら医師は研修医に言っていたようで、満足気にニコリと笑った。
「そういえば、彼とは中学校が同じだったわよね?」
「はい。 と言っても、その頃は一度しか喋った事がありませんでしたけど」
「卒業して、別の学校になってからの方が仲良くなれたなんて、不思議なものね」
「そうですね。 でも、もしも彼と再会しなかったら、わたしがここで、こうしていられなかったんだと思うと、何だか不思議ですね」
「そうね、それが縁 (えにし) っていうものなのかしらね……。 ところで、妹さんは、お元気?」
「ええ、毎日煩くしてます。 彼女の影響かな? 小さい頃から懐いてましたから。 将来は看護師になるんだって言ってます」
クスクスと笑いながら言う研修医を見て、医師も笑った。
その時、穏やかな空気を切り裂くように、白い壁に取り付けられたホットラインが鳴った。
『先生、交通事故ですぅ! 頭部からの出血と、内臓に損傷も考えられますぅ! 救急車の到着は十分以内の予定ですぅ!』
受話器から慌しく患者の容態が告げられると、先程まで優しかった女性の顔は、キリリと引き締まった医師の顔になる。
「解りました、すぐに裏口を開けて」
『はいですぅ!』
「スキャンの用意。 それと、処置室は空いてる?」
女性医師はすぐさま、近くに控えていた研修医に指示を出した。
「はい、大丈夫です」
「頭蓋骨 (あたま) を開頭 (ひらく) かもしれないから、その用意もね。 意識レベルの確認と、輸血の準備も」
『ご安心下さい、全て手配済みですぅ! その辺に抜かりはありませんですぅ!』
「頼りになるわね。 じゃあ、お迎えに行きましょう」
「はい!」
女性医師は眼鏡を直すと白衣の襟を正し、研修医と共に颯爽と部屋を出て行った。
「よし、今日はここまで!」
「ありがとうございましたぁーっ!」
小柄な青年が終了の声を上げると、子供達はそれぞれ使った物を片付け、帰り支度を始めた。
「みんな道草など食わずに、真っ直ぐ帰宅するようにな。 迎えが来られない遠方の人は、先生が送って行く」
「では、お迎えの来ていらっしゃらない方は、わたしに申し付けて下さいね。 お車を御用意致します」
和服姿の女性が、青年に寄り添うようにして言った。
しかし、幸いな事に各々の迎えはきちんと来ているようで、子供達は手を振りながら元気に帰って行った。
板張りの床だというのに、ドタドタという足音も聞こえない程、子供達は静かに歩いている。
どうやら相当に日頃の指導がしっかりとしているようだ。
「お疲れ様でした。 只今お茶をお持ち致します」
「ありがとう」
青年はその場に正座をすると、女性の差し出したタオルで汗を拭い、一つ息を吐いた。
「あ、そうそう。 先程、お手紙が届きましたよ」
女性は思い出したように、懐中から手紙を一通取り出し、青年に手渡した。
「手紙? ああ、奴からですか?」
「はい。 全て滞りなく、無事に終わったとの事でした」
「ん? どうして内容を?」
手紙が開封された様子は無い。
と言うより、目の前の女性がそのような事をする筈も無いのだ。
「わたしにも届きましたから」
「全員に送っているのか……。 律儀と言うか、相変わらず無駄な手間をかけているな」
「あ、それともう一つ、お電話がかかって参りました。 一体いつになったら試合の日程を組むのかと、些かご立腹のご様子でしたよ?」
「奴もしつこいな……。 まあ、近い内に手合わせの機会は設けます。 それまで適当にあしらっておいて下さい」
クスクスと笑いながら、青年は自分宛の手紙の封を切った。
「……お前が選んだ道だ、俺達は何も言わん。 ただ精一杯、応援してやるのみ」
青年は文面を目で追いながら、今日までの数々の出来事を思い出していた。
「但し、後悔する事は許さんからな……心しろよ?」
青年は開け放たれた窓から入る爽やかな風を感じ、静かに目を閉じた。
「うわっぷ!」
桜並木のある川沿いの道で、突然吹いた強い風に、大柄な青年は思わず目を閉じた。
いくらか砂埃が入ったのか、パチパチと何度も瞬きをしている。
「ペッペッ! 口の中がジャリジャリする……」
「歩きながら口を開けてらっしゃるからですわ。 お話も良いですけれど、気を付けないと」
「ははは。 こればっかりは一生治りそうもありませんね」
隣に立つ女性は、それを聞いてクスリと笑った。
さりげなく、一瞬の強い風から自分を庇った青年を見ながら。
「今回、貴方の出番はありませんでしたわね」
「まったくなあ……。 あの野郎、俺様に何も言わんで勝手に全部やっちまいやがって。 色々プランを考えてたのによ」
「それは仕方ありませんわ。 きっと、迷惑になるとお考えになったのでしょうから」
「迷惑なんて事あるもんか。 俺は、あいつらの為なら何だってしてやるのに……」
「それでも」
長い髪を風に遊ばせながら、女性は続けた。
「彼は彼なりに、色々と考えての事だったのでしょう」
「馬鹿のクセに考えんなっつーの。 考える事は、俺に任せておきゃあいいのによ……」
「変わりませんのね、そういう所も」
「ええ、変わりませんよ。 俺達はみんな、ずっと変わらない……変わらないさ」
「あーっ! こんな所にいたんすか!」
まだ少年のような、あどけなさを残した小柄な青年が、大柄な青年に駆け寄って声をかけた。
「探し回っちまいましたよ……。 早く戻って下さいよ、仕事、溜まってるんすから」
「何だよお前はよぉ〜……。 この満ち足りた至福の一時を邪魔するとは、何と無粋な」
「勘弁して下さいよ。 携帯の電源は切ってるし、行き先も言わずに消えちゃうし……これで何度目っすか?」
「よく見つけられたな?」
「先輩の行動パターンは把握してますからね。 ダテに二代目を襲名した訳じゃないっすから」
小柄な青年は 『どうだ』 と言わんばかりに胸を反らし、得意気な顔になった。
「なかなか有能な秘書ですこと。 これも貴方の教育の賜物ですかしら?」
長い髪の女性は、クスクスと楽しそうに笑った。
「あ〜あ……こんな事なら色々仕込むんじゃなかったぜ……」
一陣の風が、再び春の街を駆け抜けて行った。
桜の花弁が風に舞う……。
優しく、静かに……。
春の風はあくまでも穏やかで、しかし、時折その表情を変え……。
「ちょっと待った! それはおかしいよ」
「何でぇ? 全然おかしくなんてないもん」
「だって、今日はわたしの当番じゃない」
「起きて来ないんだもん、しょうがないでしょ?」
「起こしてくれてもいいじゃない!」
「子供じゃないんだから、自分で起きられない人の事なんて知りません!」
使い込まれた感のあるキッチンで、ショートカットの女性とポニーテールの女性が言い合いをしている。
ポニーテールの女性の方が若干小柄であるものの、勢いではショートカットの女性に負けていないようだ。
「なあ、どうでもいいけど、もう三時だぜ? 俺、腹減ってるんだけど……いい加減に昼飯にしないか?」
青年は力無くテーブルに両肘を着き、組み合わせた両手に顎を乗せて言った。
「どうでも良くないっ! あんたはお黙り!」
「そうだよ、黙ってて!」
「……はい」
口論している筈なのに、二人の息はピッタリと合っているようで、青年の付け入る隙など全く無い。
確か昔、これと似たような事があったな……と、青年は思った。
黙っていろと言われたからには、迂闊に口を挟む訳にもいかない。
そんな事をしたら、今度は自分が槍玉に上がってしまうだろう。
青年はボサボサの髪に指を突っ込み、ガシガシと頭を掻いた。
困った時や考え事がまとまらない時にする、昔からの癖である。
「何よ、ちょっとくらい料理が上手だからってさ。 わたしだって、やろうと思えばそれなりに出来るんだから」
「へぇ〜へぇ〜へぇ〜? やろうと思えばですか? じゃあ、普段はちっともやろうと思ってないんですね?」
「……どういう意味かなぁ?」
「そのままの意味ですけどぉ?」
「おのれぇぇぇ〜……! 言わせておけば図に乗ってぇぇぇ〜……!」
「ふふんだ! いつまでも大人しくしてると思ったら大間違いですよ〜っだ!」
やいやいと言い合いを続ける二人を見ながら、それでも青年はどこか穏やかな表情で……。
( 父さん……。 俺は、結局こんな答えしか出せなかったけど……どうかな? やっぱり、俺って馬鹿かな? )
そんな事を考えて、青年が自分に苦笑すると、
「お〜い、こら! 何を揉めてるの! 外まで丸聞こえじゃないの、恥ずかしい子達ねぇ」
呼び鈴も押さずに家の中に入って来た長い髪の女性は、両手に抱えた荷物をテーブルの上に乗せ、言い合いをしていた二人の顔を呆れたように交互に見た。
「あ、お母様……」
「お母さん! 聞いて下さいよぉ!」
「あ! 卑怯だぞ! お母様を味方に付けようなんて!」
「シャ〜ラップ! おい、愚息! 嫁達の揉め事くらい、スパっと解決しなさい!」
「無茶言うなよ、母さん。 俺に、こいつらの仲裁なんて出来る訳無いだろ? そんな事したら、結局、俺が酷い目に遭うんだから……」
「ちょっと、何よそれ……大体、あんたはどっちの味方なのよ!」
「そうだよ! この際、ハッキリして欲しいな」
「え? いや、どっちって言われても……」
怒りの矛先が自分に向いた事を悟り、青年は椅子から腰を浮かせて逃げる態勢をとった。
どちらの味方をする訳にも行かないのだから、青年としてはこれ以外の行動を取る選択肢が無い。
しかし……。
「あ! また逃げる気だな!?」
「今日は逃がさないからね!」
二人は前後に青年を挟み込むようにして退路を断ち、ジリジリと近付いて行く。
とても先程まで言い合いをしていたようには思えないくらい息が合っている。
こういう時の二人のコンビネーションは抜群のようだ。
「さあ! ハッキリ言ってもらいましょうか?」
「覚悟を決めなさい!」
「いや……。 そうだ! ここは一つ平和的解決を考えてだな、みんなで和解案を模索しないか?」
「却下!」
「これ以上の妥協は拒否します!」
「う……」
ついには壁際まで追い詰められた青年は、救いを求めるように母の顔を見るが、処置無しとでも言うように、母は両手を広げて笑っているだけだった……。
「涼! ハッキリしなさいよ!」
「涼ちゃん! わたしと利恵ちゃん、どっちの味方をするの!」
「勘弁してくれ〜っ!」
あまりの煩さに目が覚めてしまったのか、 『いい加減にしてよ』 と訴えるように、二つの揺りかごから同時に泣き声が上がった……。
緩やかに、穏やかに、時という名の船が思い出の海を奔る。
時に嵐を越え、時に凪でその動きを休める事はあっても、進むべき方向を見失う事は無い。
愛という光がある限り、友という舵がある限り、決して迷う事など無いのだ。
いつまでも、永遠に……。