想い、時を越えて
いつも応援して下さっている皆様、ありがとうございます。
日頃のご愛顧に感謝の気持ちを込めまして、スペシャル読み切りを公開させて頂きます。
ホールの中は熱気に包まれていた。
と言っても、別に何かの大会が開かれていて盛り上がっている訳では無い。
ホール内には大勢の人が集まっており、まだ春浅いこの時期にも拘らず、その体温のせいで室温が上昇しているだけなのだ。
空調設備は充実しているのだが、来場者の年齢層が比較的高い為、それを考えると無闇に冷房を入れる訳にもいかないのである。
という訳で、そこそこの温度に保とうとすると、自然に湿度が上がってしまうという結果になる。
除湿だけでは、やはり体感温度は下がらないのだ。
「本当はもっと冷やしたいんだけどねぇ……」
雅はブラウスの襟元を少し開け、手でパタパタと風を送りながら言った。
一応フォーマルな服装をしているのだが、そういった事に無頓着なのは相変わらずだ。
本当はもっとラフな格好をしたいのだが、一応、今回の集まりでは主催者の立場なので、それは仕方ない。
公式の場所では、それなりの格好をするというのが社会という物なのだ。
「雅ちゃん、見えちゃうぜ?」
「この位置で見えるのは掃部関君だけでしょ? 顔を横に向けてなさい」
「ケチ」
「……もっと緊張感を持ちなさいよ」
隣に立っている真一郎に、苦笑と共に厳しい視線を送ってから、雅は大きな拍手が送られている壇上へと視線を移した。
そこでは新たに建設されるテーマパークの見取り図面が、大画面に映し出されている。
ステージの下、ホールの中央には縮小された模型も展示されており、それも併せて施設の説明がなされている。
本来ならば企画発案者である真一郎か雅が説明をしなければならないところなのだが、まだ二人とも学生である事を考慮し、それは社の者に任せた。
やはり出資者に対する説得力に欠けるというのが、その理由だ。
ちなみに、この模型を制作したのは真一郎である。
「けど、良く出来てるわね。 さすが掃部関君」
「でしょ? 雅ちゃんの為に必死に作ったんだぜ? 俺に対して愛が芽生えそうでしょ」
「一之瀬との共同プロジェクト第二弾なんだから当然でしょ? そんな事ばかり言ってると、美奈さんに言い付けちゃうからね?」
ちなみに、美奈は現在ニューヨークで開かれているコンベンションに出席しており、その名代として真一郎がここにいる。
さすがに美奈の父である棗はいい顔をしなかったが、母の馨は真一郎を気に入っているらしく、美奈と共に強引に押し切ったらしい。
「またぁ〜……。 全然変わんないんだもんなぁ、雅ちゃん」
「変わんないのは掃部関君も一緒じゃない。 未だにアタシの事 『雅ちゃん』 って呼ぶんだもん。 アタシ、もう今年で十九歳だよ?」
雅は、しかし、楽しそうにクスリと笑った。
「俺は一生そう呼ぶよ」
「アタシがお婆ちゃんになっても?」
「勿論」
変わらないのだ……。
真一郎の中では、例えどれだけの時間が自分の傍を通り過ぎようとも、あの頃のまま何一つ変わりはしないのだ。
それは雅も同じなのだろう。
真一郎の言葉を聞いて、その顔は先程よりも柔らかい微笑を湛えていた。
やがて説明が終ったのか、ホールの中に再び大きな拍手と共に歓声が沸き上がった……。
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〜永遠の追憶〜 すぺしゃる
『想い、時を越えて』
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「帰って来られない?」
稽古を終え、手拭で汗を拭きながら琢磨は言った。
磨き上げられた道場の床は綺麗な木目を浮き上がらせ、日頃の激しい稽古にも、まったくその色を褪せてはいない。
それは琢磨の日々の手入れも然る事ながら、傷んだ部分をすぐに修理しているからに他ならない。
琢磨もそこそこに器用さを発揮してはいるのだが、やはり修理には真一郎の力を借りる事が多い。
何しろ、
「金? んなもん要らねえよ。 メシだけ食わせてくれりゃあいい」
と言ってくれるのだから、琢磨にとってはありがたい存在なのだ。
「予定では一年の筈だったろう? それに年末の電話では、確か先週あたりに帰って来るという話しではなかったか?」
「うん、そうなんだけど……」
床に正座している雛子が言った。
すぐ傍に座布団が用意されているのだが、琢磨が稽古中という事もあって使わずにいた。
「この間かかって来た電話では、今日帰って来るって言ってたんだけどね……無理みたい」
「相変わらず肝心な所で抜けているな、涼は。 しょうのない奴だ」
「ごめんね、何度も予定を変えさせちゃって……」
「佐伯のせいではなかろう? そんなに申し訳無さそうな顔をするな」
琢磨も苦笑しつつ、雛子の正面に正座をして座った。
それと同時に道場の戸が開いて、
「琢磨様、お茶をお持ち致しました」
と、人数分のお茶を乗せた盆を持ち、美耶子が入って来た。
雛子と琢磨の前にそれぞれお茶を置くと、美耶子は琢磨の隣に正座をする。
まるでずっと昔からそうしているかのように、その動作はあくまでも自然だ。
「佐伯さん、どうぞお楽になさって下さい。 足が痛くなってしまいますし、春とは言っても、道場には床暖房が入っていませんから冷えてしまいます」
「うん、ありがとう美耶子さん」
美耶子が差し出した座布団を受け取り、雛子は素直にそれを敷いた。
こういう時、昔は 「大丈夫だよ」 と答えていた雛子だが、最近ではそういった 『つまらない遠慮』 は、しなくなっている。
ちなみに、琢磨は床の上に平然と正座をしているのだが、まあ、琢磨にとっては当たり前の事なのだろう。
「やはり床暖房は必要だろうか……?」
琢磨は難しい顔をして考え込んでしまった。
浦崎流剣術道場を開いたはいいが、どうにも門下生が集まらない。
それは稽古の厳しさや知名度の低さだけが理由ではなく、設備に問題があるのではないかと、美耶子にも言われているのだ。
しかし、今の琢磨にそんな金銭的余裕がある筈も無く、今のままの状態が続いている。
「わたしからお父様にお願いしてみましょうか?」
「いや、それはいけません」
琢磨は、美耶子の言葉に首を振って、
「まだ、お借りしたお金を返済し切れていません。 その上お父上に頼み事をするなど、俺には出来ませんよ」
「琢磨様は借りたと仰いますが、あのマンションのお家賃は不要と申し上げた筈ですよ?」
「そういう訳にはいきません。 俺が住んでいた期間の分は必ずお支払いします。 それに、この道場の建築費も……」
黎明高校卒業と同時に、琢磨は勤めていた小料理屋に就職し、昼間に加えて夜間も働く事になった。
道場は、小料理屋の定休日と早朝に開いているのだ。
しかし、それらの稼ぎだけでは、到底払い切れる金額ではない。
せめて、もっと門下生が増えてくれれば、その月謝で何とか出来る可能性もあるのにと、琢磨も美耶子も常々考えていた。
「この道場こそ、お金など頂けません。 これは、わたしが勝手に建てた物ですし……」
北鳳杯へ向けての特訓の為に建てた道場。
本当なら大会終了後に解体される筈だったのだが、美耶子の断っての希望でそのまま残された。
そして、卒業と同時に登内邸の敷地内からここへ移設し、その運営を琢磨に任せたのだが……。
「わたしが要らぬ事をしたばかりに、琢磨様に余計な負担をおかけしてしまって……申し訳ありません」
「いえ、そんな事はありません。 若輩の身で、こんなに立派な道場の主になれたんです。 張り合いにこそなれ、負担になど感じませんよ」
琢磨はそう言うと、にこりと笑った。
まさに二人だけの世界が展開している。
「あの〜……」
「え?」
「そろそろ、わたしの話しに戻してもいいかな?」
苦笑しながら雛子が言うと、琢磨も美耶子も途端に顔を真っ赤にして、
「も、申し訳ありません! 佐伯さんのお話のお邪魔をするつもりは無かったのですけれど……」
「す、すまん佐伯、つい……」
「……ぷっ」
雛子が堪え切れずに噴き出すと、二人もつられて噴き出し、三人は声を揃えて笑った。
三人は一瞬、道場内の空気が、高校時代の物と同じ匂いになったような気がした。
「それで同窓会の会場の件だが、俺の勤め先の大将に承諾を得た。 午後八時から深夜零時までだ。 日程の変更も問題無い」
「登内のホールが使えれば良かったのですけれど、さすがに今のわたしの勝手には出来ませんし……」
「同窓会って言っても、わたし達七人だけの集まりだからね。 あの大ホールじゃ持て余しちゃうよ」
「まあ、その分は真が大騒ぎをするだろうから、賑やかさでは問題無いだろうがな」
琢磨の一言で、再び三人は笑った。
この件に関しては電話で確認しても良かったのだが、丁度、大学の授業で使う物を買いに出たついでに、琢磨と美耶子の顔を見たくなった雛子は、その誘惑に勝てなかったのだ。
いや、それよりも二人の暮らしぶりが見たかった……と言った方がいいだろうか?
「美耶子さんも、もうすっかりここでの生活に馴染んだみたいだね」
「はい、お蔭様で」
高校卒業と同時に、美耶子は家を出て琢磨の元へと押しかけ、そのままここへ住み着いてしまった。
だが、二人はまだ結婚している訳では無い。
あくまでも美耶子が押しかけ女房を気取っているだけの事だ。
寝室も別々 (美耶子が寝室を使い、琢磨は道場で寝ているそうだ) だし、美耶子はきちんと大学生としての生活を営んでいる。
二人は決していい加減な事をしている訳では無いのだ。
さすがに美耶子の父である大蔵も、いくら娘に甘いとは言え激怒し、一切の援助はしないと断言したのだが、そこはそれ。
こっそりと母の美晴が、美耶子の学費や生活費を調達している。
勿論、それは大蔵の耳にも入っている筈だが、どうやら知らぬふりをしているようだ。
「ところで佐伯、大学生活はどうだ?」
「うん、すごく充実してるよ」
「佐伯さんは、管理栄養士さんを目指していらっしゃるのですよね? 素敵ですねぇ」
素敵だとは言っているが、美耶子は管理栄養士が実際にどのような物か知らない。
まあ、貶しているのではないのだから、この際放っておこう。
「先日、真からの電話で聞かされたんだが、佐伯が先生役をしている事もあるそうだな?」
「相変わらず真君は凄い情報網持ってるなぁ……。 まあ、先生役って言っても、実習の時なんかにまとめ役をしてるだけだよ」
雛子は笑いながら言ったが、実際、雛子は大学でも一目置かれる存在である。
あの宇佐奈環の一番弟子である事も、その一因だ。
そのせいで、あちらこちらからお呼びがかかり、最近ではプライベートの時間も殆ど取れなくなってしまっている。
「すっかりお忙しくなってしまわれて、こうしてお会いする機会も減ってしまいましたねぇ……」
「そうだね。 昔ほどは一緒に遊べなくなっちゃったもんね」
「雅もあまり顔を出してくれませんし……。 仕方のない事と解ってはいるのですが、わたし、少し寂しいんです」
「あ、雅ちゃんと言えば……」
何かを思い出したのか、雛子は急に可笑しそうに笑い出した。
「愚痴の電話がたくさんかかって来るってボやいてたよ?」
「まあ! あの子ったら、そんなご迷惑をおかけしているんですか?」
「本人は全然気にしてないって言うか、むしろ楽しんでるみたい。 でも、美耶子さんの事は言ってたなぁ」
「わたしの事ですか? もしかして、怒っていらっしゃるのでしょうか……?」
「自分だけ幸せを満喫してるのは許せん! 少しは分けろ! ……だって」
「これは、今度の同窓会では覚悟をしておいた方が良さそうですよ? 美耶子さん」
「脅かさないで下さいまし、琢磨様。 今のわたしには、SP部隊もついていないのですから……」
どうやら美耶子は本気で怯えているようだ。
「琢磨君がいるから大丈夫だよ、美耶子さん」
「いや、俺の力ではどうしようもないかもしれん……。 何しろ、相手が相手だからな」
「あははは」
道場の格子窓から、桜の花弁が一片、風に運ばれて舞い込んで来た。
「でも、意外だったなぁ」
里美は学食のカレーを食べながら言った。
勿論、独り言ではなく、目の前には話し相手が座っている。
「何が?」
と、恵が答えた。
しかし、本来なら、恵はこの場所に座っていてはいけないのだ。
何故なら……。
「恵が看護学校に行くとは思ってなかったもん。 と言うより、看護師になるなんて、いつ決めたのよ」
「うん……。 実はさ、わたし、進路の事なんて全然考えてなかったんだよね。 元々、涼先輩を追いかけて黎明に入ったでしょ? でも、結果があれだったじゃない? ずっと涼先輩と同じ道を歩きたいって思ってたけど、その道が急に無くなっちゃって……」
「涼先輩、卒業式の日に行っちゃったんだってね……。 道理で送る会が終ったあと、探してもいなかった訳だ」
「それもあってさ。 わたし、卒業したあとに、何をどうしたらいいのか解んなくなってたんだ。 そんな時に街をブラブラしてたら、阿達さんに会ってさ」
「阿達さんって……ああ、先輩達の友達の?」
「うん。 なんか懐かしくって、思わず声をかけてた。 阿達さんもビックリしてたよ。 まさかわたしと出くわすなんて、思ってなかっただろうからね」
「阿達さん!」
「え?」
急に声をかけられ、抱えていた数冊の本が落ちないように気を付けながら振り返ると、紫はそこに立っている少女の顔をじっと見た。
「あら、貴女は確か……」
「迫水恵です。 一年の時、文化祭でお会いしました」
「そうそう、憶えてるわ。 お久し振りね、お元気?」
「はい。 わたし、それしか取り得がありませんから」
「まあ」
笑顔で答える恵に、紫も笑顔を返した。
その拍子に少しバランスが崩れたのか、本を落としそうになって慌てて抱え直した。
「うわ……。 何だか重そうですねぇ」
「関連書籍をあれもこれもって選んでると、結局こうなっちゃうの。 わたしって、本を選ぶのが下手みたい」
「宅配を頼んだらどうです?」
「あまり余計なお金を使いたくないの。 自分で運べる物は、自分で運ぶ方が得でしょ?」
「でも、危なっかしいですよ。 わたし、お手伝いします」
「え? そんな、悪いわ」
「いいんです。 どうせ暇人ですから」
紫の腕から何冊かの本を受け取ると、恵はその表紙に書かれた文字を見た。
……読めない。
どうやらドイツ語で書かれているようである。
「随分楽になったわ」
紫は、ホっとしたように笑いながら言った。
そのまま二人並んで歩き出してすぐ、紫は恵の顔が何故か少し沈んでいる事に気付いた。
文化祭で会った時には、もっと弾けるような明るさがあったのに、今は何か考え込むような、それでいて何かを諦めているような、そんな微妙な暗さがある。
「どう? 時間があるなら、その辺でお茶でも飲まない? 本を運んでくれたお礼をしたいの」
「え? そんな、お礼なんていいですよ」
「貴女が良くてもわたしは良くないの。 わたしを礼儀知らずにしないでね?」
「あ、じゃあ、お言葉に甘えて……」
駅前まで来ると、丁度、可愛らしい造りの甘味処が目に付いて、紫はそこへ恵を連れて入った。
店内は明るく、店員も皆、きびきびとした動きを見せていながらも、客にリラックスさせる事を忘れていないようで、落ち着いた空気がある。
こういった目に見えない基本が出来ている店は紫の好みである。
これからはここを贔屓にしてもいいかなと思った。
今度、美奈を連れて来てみよう。
きっと美奈も気に入る筈だ。
二人で注文を済ませると、紫はお茶を口に運んで一息ついた。
「美奈が一緒の時は大抵紅茶になっちゃうんだけど、わたしは緑茶も好きなのよ」
「そうなんですか」
「美奈は紅茶党だからね。 でも、たまには違った物も飲みたいと思うわ。 例え、どんなに紅茶が好きでも、時にはコーヒーやトマトジュースもね」
「そりゃあそうですよね。 毎日同じ物じゃ飽きちゃいますもん」
「……人も同じだと思わない?」
「え?」
「例え、その人の事がたまらなく好きでも、時には違う人の事を考えたりしない? 顔を見たくない日だって、あると思うし」
「どうでしょう……。 わたしにはそういった経験が無いんで、よく解りませんけど……」
「人間は感情の動物だから、時には理性よりも感情が勝る事があるの。 普段は押さえていても、どうしようもない時があるのよ」
そう言うと、紫は再びお茶を飲んで、美味しそうに軽く息をついた。
「阿達さん、その本、何の本ですか? わたし、さっき表紙を見たんですけど、何が書いてあるのか解りませんでした」
「ああ、これ? 医学書とか、症例に関する文献よ」
「医学書? 阿達さん、お医者さんになるんですか?」
「ええ。 家が病院を経営してるし、祖父も父も医師だしね」
「そうなんですか……」
「迫水さんは? もう進路は決めてあるのかな?」
「わたしですか? いえ、わたしは……」
何も決めていない……いや、決められないのだ。
子供の頃に思い描いた夢は、どれも現実味が無く、そもそも夢と呼べる物でもない。
だいいち、その為の努力などした事も無かったし、ただ毎日を涼を追いかける事に費やして来たのだ。
これといったスキルを身に付けている訳でもないし、ましてや明確なビジョンなど、ある筈がなかった。
周りは皆、自分の夢に向かって努力している。
道をしっかりと見定めている。
あの作矢でさえ大学進学を目指して猛勉強しているのに、自分は何も見つけられず、どんどん取り残されて行く気がする……。
「……迫水さん」
「はい」
「道は望めば無限の方向を示してくれる。 でも、望まなければ、自分が今どこにいるのかさえ、見せてはくれないわ」
「……」
「時々意地悪して迷路に誘い込んだりするけれど、でも、それも決して無駄な回り道にはならないものよ。 その道を選んだのが自分の意思なら、迷路の出口は必ず見つかるわ。 必ずね」
「……阿達さんも、そうだったんですか?」
「そうね……。 わたしも迷ったり転んだり、もう立ち上がるのが……歩くのが嫌になったりした事があったわ。 でも、目指す先にある何かを見ないままで終るのが嫌だったから、また必死になった……そうしてここまで来たわ」
「わたしにも見つかるでしょうか……? 目指すべき物……」
「それを探す為に歩いてみるのもいいんじゃないかしら? もしかしたら、思わぬ所で何かを拾うかもしれないしね」
注文した品が来て、会話が一旦途切れた。
紫は口に広がる甘さに、暫しの幸福感を味わうと、その余韻を楽しみながら言った。
「疲れたら休めばいいだけの事よ。 こうやって、甘い物でも食べて……ね?」
「それで?」
里美は水を一口飲んで、恵の話の先を促した。
「阿達さんの家って、代々お医者さんの家系なんだって。 でもね、だからお医者さんになろうって決めた訳じゃないんだってさ。 阿達さんの友達に病気で苦しんでた人がいて、でも、何とかしたいって思っても何も出来なかった自分が悔しかったって。 その人が病気を克服して退院する時、家族の人が凄くいい顔をして笑ってるのを見て、自分も誰かを笑顔にしたいって、そんないい笑顔をたくさん作りたいって……それでお医者さんになる決意を固めたんだって言ってた」
「そうなんだ……」
「今、最先端医療の本場はアメリカなんだってね。 でも、阿達さんはドイツに拘ってる。 懐古主義って訳じゃないけど、その拘りは捨てたくないんだって。 理由は教えてくれなかったけど、何となく解る気がするんだ」
「へぇ〜……。 優しそうに見えるけど、阿達さんて意外に頑固な所もあるんだね」
「それを聞いて思ったんだ。 わたしだって、きっと何か出来る筈だって……誰かの為に、役に立てる筈だって。 その時に、目指すべき何かを見つけられたような気がしたの」
「それで、進路が決まったって事?」
「それだけじゃないけどね」
「他にも何かあるの?」
「まあね。 でも、それは内緒にしとく。 口に出すと消えちゃいそうな気がするから……」
「そう」
しつこく訊き出す気は無かった。
里美は、恵が決めた道を歩くのを、ただ応援してあげればいいと思った。
それが友達としての自分の務めだし、今までだって、そうやって恵と付き合って来たのだから……。
「で? 学校サボってわたしを訪ねて来たのには、何か理由があるんじゃないの?」
「別に、そんなの無いよ。 ただ、久し振りに里美の顔を見たくなっただけ」
「ふうん」
「陸上、頑張ってるみたいだね」
「勿論。 みっともない成績だと、雅先輩にどやされちゃうもん」
「そう言えば、何で雅先輩と同じ大学に行かなかったの? 誘われてたんでしょ?」
「え? そ、それは、まあ、色々と事情があって……」
急に俯き加減になってゴニョゴニョと言葉を濁した里美を見て、
「隠したって無〜駄。 どうせ五作と同じ大学に行きたかったってのが理由に決まってるんだから」
恵は冷かすように言った。
「ち、違うわよ! そんな事、一度も言った事無いでしょ!」
「言われなくたって解りますぅ〜。 あんたと何年付き合ってると思ってんのよ」
「むうぅ〜……。 あーっ! ここに部外者が紛れ込んでるーっ! 誰か警備の人呼んで来て下さーい!」
突然叫んだ里美の声は、さすがに運動しているだけあってよく響く。
途端に何人かの生徒が集まりだして、恵は大いに慌てた。
「ちょ、ちょっと里美、何て事言い出すのよ! ち、違うんですよ! わたしはこの子の友達で、決して怪しい者じゃ……」
「きゃー! 襲われる〜っ!」
「あんたって子はぁ〜……! 雅先輩に似て来てるわよ!」
「何だよ、煩せえな……。 誰だあ? 食堂で騒いでる馬鹿は……って、迫水じゃねえか! こんな所で何やってんだ、お前!」
「あ、五作……! あんたこそ何しに来たのよ!」
「ここは食堂だぞ? 飯食いに来たに決まってんだろ。 相変わらず馬鹿丸出しだな、お前は」
「何だとぉぉぉ〜……五作のクセに生意気なっ!」
「また始まった……」
中学生の頃から、この二人は顔を合わせればこれである。
これ程行動パターンが変わらないのも珍しいのではないだろうか?
「……あ、成る程。 恵は、これがやりたかったのか」
勉強よりは身体を動かすのが得意な恵である。
恐らく、結構なストレスが溜まっていたのだろう。
そう考えながら二人のやり取りを見ていると、何となく楽しそうですらある。
「たまにはわたしも参加してみようかな?」
二人を見る里美の目は、いつもと同じように優しかった……。
「まだ帰って来てねえだぁ? 何考えてんだよ! 約束は今日だったろうが!」
真一郎は乱暴にビールのジョッキをテーブルに置くと、ガシガシと頭を掻きながら、つまみの枝豆をポイポイと口に放り込んだ。
座敷の席には琢磨と真一郎、それに向かい合うようにして美耶子と雅が座っている。
雛子は何か用事を済ませてから来るとの事で、少し遅れると、雅の携帯電話に連絡があった。
「何であいつは肝心な時になると、いっつもボケた真似をかますんだ!」
「俺に言うな。 それに真、お前はまだ未成年だろう、ビールはよせ」
「琢磨……お前もお前だぞ!」
「何がだ」
「いつまで経っても成長しない! 酒も呑めずに漢と言えるか! 酒も呑まずに仕事が出来るかぁっ!」
「成長しとらんのはお前だろうが……。 それに、それは学生の台詞ではないぞ」
琢磨はウーロン茶を飲みながら、隣に座る真一郎に説教を始めた。
この構図も昔から変わっていない。
「まったくねぇ……。 こっちは宇佐奈君に合わせて予定組んでるってのにさぁ」
「雅、そんな事を言うものではありませんよ? きっと宇佐奈君にも、何か事情があったに違いないのですから」
「大体、姉さんも姉さんよ。 まさか卒業と同時に出て行っちゃうとは思わなかったわ。 お蔭でアタシがどれだけ大変な思いをしてるか……」
「その件に関しては申し訳無いと思っています。 それに、もう何度も謝ったではありませんか」
「謝ってもらっても、アタシには幸せはやって来ないわぁ〜。 あ〜あ、アタシもラブラブ光線出したいなぁ〜……」
「鳳蔵院さんがいらっしゃるでしょう?」
「はあ? 何よ、それ」
「先日、鳳蔵院さんからお電話を頂いたそうではありませんか。 お付き合いは上手く行っているのですか?」
「何でアタシがあんなのと付き合わなきゃなんないのよ。 それに、どうして姉さんが知ってるの? ……って、訊くまでも無いわね」
雅がジロリと睨むのと同時に、真一郎がそそくさと立ち上がって、どこかへ行こうとしている。
「お待ち。 どこへいくのかな? 真ちゃん」
「いや、ビールを飲むとトイレが近くなるものですから……」
「まだジョッキ一杯も飲んでないでしょ。 ちょっとこっちへ来て座りなさい、話しがあるから」
「……何で話しをするのに携帯握り締めてるの?」
「掃部関君とのやり取りを、美奈さんに実況中継しようと思って。 今までの悪行の全ても含めて」
「悪魔ですか、あなたは……。 ん? 今バイクの音しなかった?」
真一郎は通路まで行くと、耳に手を当てて、店の出入り口の方へ向けた。
目を閉じて、じっと耳を澄ましている。
「また……。 そんな事言って誤魔化そうったってダメだからね!」
「いや……雅さん、真の言っているのは本当ですよ。 段々近付いてます」
「浦崎君、判るの?」
「さすがは琢磨様ですね」
「間違いねえ……こりゃあ、涼の単車の音だ! あの馬鹿、やっと帰って来やがった!」
真一郎が駆け出すと、
「あ、待ってよ! アタシも行く!」
と、雅もそれに続いた。
「琢磨様、私達もお迎えに出ましょう」
「そうですね、行きましょうか」
真一郎が店の戸を開けて外へ飛び出すと、こちらへ向かって走って来るバイクのヘッドライトが見えた。
しかし、何故かかなりのスピードを出しているようで、それはあっという間に真一郎に近付いて来た。
「おーい、涼! ここだここ! まったく人を散々待たせやがっ……おわぁっ!?」
真一郎が飛び退くと同時に、今まで真一郎が立っていた場所に、バイクが横滑りしながら停止した。
「ば、馬鹿野郎! 俺様を轢き殺す気か、お前はっ……って、あれ?」
「さっすが真ちゃん。 いい反射神経持ってるわね〜」
てっきり涼だとばかり思っていたのだが、ヘルメットを脱いで現れた顔は……。
「……何で環さんが涼の単車に乗ってるんですか?」
「涼なら……ああ、来た来た」
環が振り返った先に、車のヘッドライトが見えた。
しかし、右に左にと蛇行していて、危ない事この上ない運転だ。
「あれって恭さんの車ですよね? 恭さん、酔ってるんですか?」
「ううん、そうじゃなくて、車内で修羅場が展開してるから、その煽りを食らってるんでしょ」
「修羅場……?」
真一郎も、続いて外に出た雅達も、何の事か解らずに首を傾げている。
「いや〜、家じゃ決着が着かなくてさ。 でも、みんなが待ってるって雛子ちゃんが焦ってたもんだから、仕方なく私は涼のバイクで来たって訳。 恭一はここの場所知らないし、雛子ちゃんは道案内どころじゃないし、涼じゃどこへ案内されるか解んないしね〜」
「話が全然見えないんですけど……?」
「美耶子ちゃんも雅ちゃんも、危ないから下がってた方がいいわよ。 あ、琢磨君はそのままね」
「は、はあ……」
「何? 姉さん、一体何が始まるのかな?」
「さあ……? わたしには解りませんが、ここは言われた通りにした方が良さそうですね」
美耶子と雅は、環に言われるがまま、店の軒下まで下がった。
「真ちゃん、琢磨君、下手に手出ししない方がいいわよ? 相当にご機嫌斜めだから」
「手出しするなと言われても……」
「何が起こるのか解らないままでは、手の出しようもありませんが……。 真、一応、構えだけは取っておいた方がいいかもしれんな」
取り敢えず臨戦態勢をとった二人のすぐ傍に恭一の車が停まると、後ろのドアが開き、そこから転がり出て来たのは……。
「いてててて! 痛ぇって言ってるだろうが! いい加減にしろよ、お前はっ!」
両手で頭をガードしながら、必死の抗議をしている涼と、
「うるさい馬鹿者っ! 三日前に帰って来るって約束してたのに何で遅れたんだ! 理由を言え、理由をっ!」
「利恵ちゃん! 涼ちゃんは道に迷ってたんだってば! 仕方ないよぉ!」
「ヒナちゃんは涼に甘過ぎっ! 道に迷ってたなんて嘘に決まってるんだから! 大方、例のシーナとかいう外タレと乳繰り合ってたんだろう!」
「俺がそんな真似するかっ! 本当に迷ってたんだよ!」
「せっかくみんなで色々企画してたのに、全部無駄にしてえぇぇ〜……!」
「だから、それは悪かったって何度も謝ってるだろ! もう勘弁してくれよぉっ!」
ポカポカと涼を叩き続ける利恵と、それを必死に止めようとする雛子。
その様子を、真一郎達は、ただ唖然として見守るしかなかった。
「真! 琢磨! 黙って見てないで、利恵を止めてくれよ!」
「いや、止めろと言われても……なあ、琢磨」
「うむ。 下手に手出しをして、今度は俺達が標的にされては敵わん」
「は、薄情者ーっ! もう雅でも美耶子さんでもいいから、頼むよ!」
「『でも』 って……そんな頼み方じゃあね〜」
「そうですね。 人に物を頼むには、それなりの言い方という物がありますからね」
「な……何て奴らだ……!」
「わたし、もう疲れちゃった……」
「ヒナ! お前まで俺を見捨てるのかぁーっ!?」
利恵の体力は衰えを知らないのか、涼を叩く手の動きは一向に収まる気配を見せない。
そればかりか、涼が逃げる気配を見せる方向に素早く回り込み、すぐさま退路を断ってしまう。
利恵、恐るべし……。
「しかし、いつまでもこんな事してたんじゃ、同窓会どころじゃねえな」
「成る程、それもそうだな。 仕方ない、そろそろ助けてやるとしようか」
「はいはい、利恵。 もうそれくらいにしときなよ」
「放せ雅! 今日という今日は、とことんやってやるぅ!」
「アタシとだって久し振りに会ったんだから、貴重な時間を浪費するのはおやめ」
「ガルルルルル……!」
「猛獣か、あんたは……」
三人がかりで、ようやく涼から利恵を引き剥がすと、涼はホっとした表情を浮かべて、
「……遅くなって申し訳ありませんでした」
と、全員に頭を下げた。
「おう。 俺様の心は大海原のように広いからな。 今回は特別に許してやるから、涙を流して感謝しろ」
「偉そうに……何様だ、お前は」
「恐れ多くも掃部関真一郎様だ。 この名前、しかと心に刻んでおけ」
「はいはい……。 悪かったな琢磨。 ヒナから聞いたよ、店の事とか」
「気にするな。 佐伯がちゃんと気を利かせてくれていたからな、何の問題も無かった」
「そうか」
やはり、こういった事では雛子は頼りになる。
連絡の相手に雛子を選んで良かったと、涼は思った。
「お〜い、涼。 俺には労いの言葉はねえのかぁ?」
「あ、忘れてた。 恭さん、悪いね」
「それだけかよ……」
「さあ、恭一、わたし達は帰るわよ。 今日は同窓会なんだから、わたし達は邪魔邪魔」
環は再びヘルメットを被ると、バイクのエンジンをかけながら言った。
「あ、真ちゃん。 恭一の車は置いて行くから、帰りはみんなを送ってあげてね」
「え? でも俺、酒飲んじゃいましたよ」
「あら、困ったわね……」
「では僭越ながら、わたしが運転致します」
「へ? 姉さん、いつの間に免許なんて取ったの?」
「家を出てすぐです。 お母様が、今時の婦女子なら免許くらい持っていなくてはいけないと仰って、合宿所を借り切って下さいました」
瞬間、全員の頭を嫌な予感が掠めた。
「……ヒナちゃん、生命保険、入ってる?」
「入ってない……。 で、でも大丈夫だよ。 美耶子さんなら、きっと安全運転で……」
「でも、ブザーの音が延々と鳴り続けるのは少々耳障りですねぇ。 あの音が出ない車なら良いのですけど」
一同はその台詞を聞いて、一様に硬い表情を浮かべた。
どうやら美耶子は、ハンドルを握ると性格が変わるタイプらしい。
「琢磨、お前は免許持ってねえのか?」
少々青ざめた顔で真一郎が言った。
「こんな事になると判っていれば、無理をしてでも取っておいたのだがな……」
「雅ちゃんは?」
「アタシ、まだ仮免まで行ってないのよ……」
「真、お前はもう呑むな。 そして、全力で水を飲んで寝ろ……すぐさま死んだように寝ろ!」
「って言われてもなあ……。 命か酒か……難しい選択だな、涼」
「そこで悩むなっ!」
とにかく全員揃って店内に戻り、席に着くと、すぐにポンポンと言葉が飛び交う。
卒業して一年……しかし、その時の流れなど感じさせないほど、話題の種が尽きる事は無い。
「何でアタシが登内グループを継がなきゃなんないの? おかしいでしょ? ねえ、宇佐奈君、おかしいと思わない!?」
「俺に言われてもなぁ……。 美耶子さんとは双子なんだから、別にどっちが継いでもいいんじゃねえか?」
「こんな時ばっかり双子だって事を持ち出さないで欲しいわ! 普段は 『わたしは姉ですよ』 なんて言ってるクセしてさぁ〜」
「まあ! わたし、そんなに偉そうな物言いをしていましたか? 琢磨様、わたしは嫌な女になってしまっていますか?」
「いや、雅さんは酔っているだけですから、本心で言っている訳ではありませんよ」
「ねえねえ、ヒナちゃん。 酔ってるからこそ本音が出るって事もあるよね?」
「利恵ちゃん、話がこじれるから……」
「なはははは! こじれた話は踊って忘れるのが一番だぁっ! ……と、いう訳で。 一番! 掃部関真一郎! 裸踊りをします!」
「何で呑んでるんだ、お前はっ!」
もうこうなっては仕方ない。
帰りは覚悟を決めて、美耶子の運転でという事になるだろう。
そうと決まれば遠慮は要らないとばかり、真一郎のピッチが上がる。
涼も雅も、カパカパと呑み始めた。
それを見て、琢磨と雛子は顔を見合わせ、やれやれと溜息を吐いた。
「そうそう、肝心な事を忘れておりました。 宇佐奈君、合格おめでとうございます」
「え? ああ、ありがとう美耶子さん」
「まっさか涼が一発で合格出来るとは思わんかったな〜」
「真でさえストレートで合格したのに、俺が落ちる道理がねえだろうが」
「じゃあさじゃあさ、利恵が先輩って事になるの? うわ〜……宇佐奈君、イジメられそう」
「それもいいなって思ってたんだけど、わたし、涼と同級生になるのよね〜、これが」
その場にいる全員が、 『え?』 という表情になった。
「あれ? 言ってなかったっけ? わたし休学してたのよ、一年間」
「……何で?」
「やあねぇ、涼ったらぁ〜、何度も言わせないでよぉ……。 愛しのダ〜リンと同級生になりたいからだってば」
「それだけ?」
「そうよ? 何かおかしい?」
「いや、おかしいって言うか……なあ?」
「まあ、この子のやる事だから……ねえ?」
涼と雅は頷き合うと、ハァ……と溜息を吐きつつ、グラスを合わせたのだった。
「何よ……何か言いたい事があるなら、はっきり言いなさいよね」
「まあまあ、利恵ちゃん。 とりあえず、今日はおめでたい席だから」
ジト目で涼と雅を睨んでいる利恵の隣りで、雛子はクスクス笑いながら利恵を宥めた。
「おめでたいって……真君の頭?」
「そ、そうじゃなくて……。 涼ちゃん帰って来たし、大学にも受かったし」
「よせやい高梨、照れるぜ」
「真、誰も誉めておらんぞ……」
「まあ、真が 『めでたい』 ってのは確かだけどな……」
「そこまでおだてられたら豚でも木に登るっ! 二番! 掃部関真一郎! スパイダーマンやるますっ!」
「脈絡の無い事をするなっ!」
騒がしくも懐かしい顔ぶれが集う。
そこには、あの頃と少しも変わらない空気がある。
そして……。
想いは時を越えて、優しく微笑みかける……。
このお話しは〜永遠の追憶〜を三部構成として考えていた頃に作った物です。
あくまでも読み切りとして公開する物ですので、ここからすぐに第三部が開始される訳ではありません。
一応、念の為……(^_^;)




