真夏の夜の……(中編)
「風が出て来たな……」
「肝試しの雰囲気バッチリだね」
相変わらず涼の腕を取ったまま、雅は涼の顔を見上げるようにして言った。
「呑気な事を……。 雨でも降って来たら厄介だろうが」
「それはそれで、また楽しめるわよ」
「楽しかねえって」
「アタシは楽しいの〜」
肝試しの最中とは思えないほど、雅は笑顔だった。
「風が出て来たね……」
涼と雅の消えた方向を見ながら、雛子は誰に言うとも無く呟いた。
「そうだなぁ……。 雨、降んないといいけど……」
「フン! ずぶ濡れになって、風邪でもひけばいいのよっ!」
今現在、利恵はとても腹の虫の居所が悪い。
今の台詞に同調しても反論しても、絶対に怒られるだろう。
真一郎と雛子は互いに顔を見合わせて、溜息をつきながら頷きあった。
「そう言えば……さっき雅ちゃんの言ってた 『伝説』 って、どんなお話しなんだろうね?」
「どうせ雅の作り話に決まってるわよ」
「いや、そうでもないぜ? 婆ちゃんからも、そんな話し聞いたからな」
「そうなの?」
真一郎の言葉に、利恵が反応した。
涼の影響だろうか、古い言い伝えや昔話などに、最近ちょっと興味があるのだ。
「地元では有名な話しとか?」
「若い人間は殆ど知らないみたいだけどな」
「ねえ、聞かせて聞かせて」
雅の睨んだ通り、雛子は目を輝かせてワクワクしている。
どうやら肝試しの最中だと言う事も忘れているようだ。
雛子とまではいかないが、利恵も期待しているような顔だ。
「ああ、いいよ。 確か、こんな話しだったな……」
真一郎は静かに話し始めた……。
その昔、或る村に紗奈 (さな) という美しい娘がおった。
誰にでも分け隔て無く優しく、村の誰からも好かれておった。
紗奈には良助 (りょうすけ) という幼馴染がおって、毎日一緒に畑仕事に精を出しておった。
二人ともそれはそれは仲睦まじく、村の誰もが末は二人が夫婦 (みょうと) になると信じて疑わなかったそうな。
ところが、ある嵐の晩に、道に迷うた一人の娘が一夜の宿を求めて良助の下を訪れた。
人の良い良助は 『それは、さぞお困りであろう』 と、夕餉 (ゆうげ) と寝床を娘に用意してやった。
だが……嵐の去った翌朝から、良助はまるで人が変わってしまったように、紗奈に辛く当るようになった。
見ている者の方が胸が痛くなる程に……。
それでも紗奈は、いつも笑っておった。
『良助さんの為ですから』
そう言って、男でも音を上げるような仕事も一人で黙々とこなしておった。
嵐はとうに去ったというのに、娘はいつまで経っても良助の家から出て行かなんだ。
そればかりか、まるで良助の嫁のように、毎日、良助の傍におる。
機を織り、絵を描き……それは大層な値で売れたそうな。
良助はすっかり贅沢に慣れ、もう畑仕事もせなんだ。
それでも紗奈は笑っておった。
笑いながら、一人で畑仕事をこなしておった……。
その夏、日照りが続き、村には飢饉が訪れた。
食い扶持を減らす為、娘達が町に売られて行く。
紗奈も例外でなく、愛しい良助の名を叫びながら、泣く泣く町へと売られて行った。
良助は、それでも家から顔も出さなんだそうな。
紗奈がいなくなると、いつの間にか娘も消えておった。
良助は己が愚かさにようやく気付き、来る日も来る日も紗奈の名前を呼び叫ぶ。
だが、紗奈はとうに売り飛ばされておるのだから、村に姿があろう筈も無い……。
村から架かる一本きりの橋。
名前など無いその橋の遥か向こうに、紗奈の売られた町がある。
良助は、消えた娘の残した幾許かの銭を手に、その橋を渡って町に行った。
紗奈を買い戻す為に……。
良助が橋を渡ってすぐ、みすぼらしい身なりの娘が橋を渡って村に来た。
誰もが最初、判らなんだ。
それが、やっとの思いで町から逃げ帰って来た、やつれ果てた紗奈だと……。
紗奈は、それからずっと良助の帰りを待った。
老いさらばえ、足腰が立たぬようになっても、それでも良助の帰りをただひたすらに待った。
良助は……帰って来なかった……。
いつからかその橋は、男衆には 『戻り橋』。
女衆には 『還らずの橋』 と呼ばれるようになったそうな……。
「……それのどこが 『素敵な伝説』 なんだ?」
雅から話しを聞いた涼は首を傾げた。
どう好意的に解釈しても、身勝手な男のせいで不幸になった、哀れな女の話しではないか。
同じ男として、聞いていて少々腹が立ったくらいだ。
「でね、その橋をカップルで渡ると、永遠に結ばれるんだって」
雅はニコニコしながら言った。
「何で? だって二人は逢えなかったんだろ? それなら別れちまう橋なんじゃないのか?」
「紗奈さんはね、そんな辛い思いをさせたくないって、一緒に橋を渡る男女を結びつけるんだってさ」
「へえ……」
何ともお人好しな人だな……と感心しながら歩いていると、その内、一本の橋の前に辿り着いた。
「雅、この橋渡るのか?」
涼は立ち止まって雅に訊ねた。
「そうよ。 で、渡った先の小さなお社に、お供えをして帰るの」
「ふうん……じゃ、とっとと行くか」
「哀しいお話しだね……」
この手の話に弱い雛子は、少し目を潤ませながら言った。
感受性が豊かなのか、想像力が逞しいのか、物語の中に入り込んでしまうのだ。
「ま、伝承だからホントかどうかは怪しいけど、その時代には人身売買なんて当たり前にあったそうだから」
「なんか、その話しってさ……」
涼と雛子の話しのようだ……と利恵は思った。
じゃあ、嵐の晩に現れた娘は自分?
そのせいで、涼が雛子に辛く当っている……?
「そんな訳無いじゃない……わたし、そんな気全然無いんだから……」
「ど、どうしたの? 利恵ちゃん」
「あ……ううん、何でもない……」
そこで利恵は、ふとある事に気付いた。
何だか嫌な予感がする……。
「ねえ真君、その橋ってどこにあるの?」
「この近く」
「まさか……!?」
「当り」
「何で早く言わないのよっ!」
利恵は猛然と真一郎に掴みかかった。
しっかりと手がクロスして、真一郎の首が絞まっている……。
「グエッ!? だってこんな話し、どこにだって転がって……苦し……」
「ヤーン! 雅の狙いってこれなんじゃない! 二人が結ばれちゃったらどうしてくれんのよぉっ!」
「落ち着け、落ち着いて……お願いだから……」
きっと自分と涼が一緒の組になるようにクジに細工して、最初にスタートするようにしてあったに違いない!
利恵は昂奮して、益々真一郎の首を締め上げる。
「真君のバカーッ!」
「死ぬ……死んじゃうって……」
「あ! 降って来たよ、雨」
ポツポツと、空から水滴が落ちて来たかと思ったら、それはすぐに全ての音を掻き消す豪雨となった。
そして、遠くからゴロゴロという音が近付いて来たかと思うと……。
ピカッ! っと視界がホワイトアウトし、次の瞬間、鼓膜を突き破るかのような大音響と共に空気が震え、地面が細かく揺れた。
「キャアァァァーッ!」
雷鳴に負けないくらいの大声で、雅が悲鳴をあげた。
しゃがみ込み、耳を両手で塞いでいるが、振動が身体を伝わり、嫌でも雷が鳴っている事を雅に伝えて来る。
「……今のは近かったな。 どこかに落ちたんじゃねえか?」
「怖いーっ! 怖いよーっ! アタシ、雷ってダメなのーっ!」
「木の傍には寄らない方が無難だな」
涼と雅は生い茂った木の葉で、多少なりとも雨を凌ごうと考えていた。
だが、ここまで雷が鳴っていると、却ってそれは危険そうだ。
涼は雅の手を引き、木の傍から離れようとした。
「うえぇぇん……宇佐奈君、怖いよぉぉ……」
冗談でも何でもなく、雅は本気で怖がっている。
声が震えているのは、雨に打たれたせいだけではあるまい。
「大丈夫だから。 ほら、こっちに来い」
「う、うん……」
雅の肩を掴んで引き寄せると、ヒンヤリとした感触が涼の手に伝わって来た。
「さすがに冷えてるな……。 どこか雨宿り出来る所は無いか?」
「確か、この近くに陶芸の小屋があったと思う……」
「よし、そこまで走るぞ!」
涼は雅の肩を抱きかかえるようにして走り出した。
「ひえぇぇ〜、濡れた濡れた……」
「もうビッショリ〜。 利恵ちゃん、着替えよう?」
「大丈夫かな……涼と雅」
急な雨に慌てて別荘に戻った利恵達三人だったが、川に飛び込んだ後のように全身ズブ濡れになっていた。
「あれ? 風邪ひけって言ってたんじゃなかったっけ?」
真一郎が意地悪くそう利恵に言うと、利恵は、フン! とそっぽを向いてしまった。
それと同時に再び雷鳴が轟くと、その音に別荘の窓がビリビリと震えた。
「きゃあぁっ!」
「近いわね……どこかに落ちたんじゃないかしら」
「わたし、雷って嫌い〜……」
耳を塞いで小さくなる雛子とは対照的に、あまりこういった物には恐怖を感じないのか、利恵は冷静に状況を分析している。
「涼の頭の上だったりして。 いい具合にローストされそうだな」
「……真君にも特大のを落としてあげようか?」
「心配だな、涼達……大丈夫かな?」
「よろしい」
真一郎と冗談を言い合いながらも、利恵は涼が心配で仕方なかった。
(涼……大丈夫だよね……?)
「琢磨様、ご覧になりましたか? また光りましたよ」
病室の窓にへばり付くようにしながら、美耶子がはしゃいでいる。
まるで花火見物でもしているかのようである。
「綺麗ですねぇ……」
「美耶子さんは、雷は平気なんですか?」
「はい。 ご存知ですか? 落雷に遭う確率より、交通事故に遭う確率の方が高いそうですよ?」
「は、はあ……そうなんですか……」
「はい」
琢磨の訊きたかったのは、そういう事ではないのだが……。
まあ、怖くないと言うのだからそれで良いだろう。
「別荘のみんなは大丈夫でしょうか?」
「別荘には避雷針も設けて御座いますから、心配御無用です」
「は、はあ……そうなんですか……」
「はい」
さっきから琢磨の訊きたかった事とは、微妙に違った答えばかりが返って来る。
だが、まあ大丈夫だろう。
別荘には真一郎も涼もいるのだから、いざという時には二人が何とかしてくれる。
肝試しをやっている事など知らない琢磨は、そう思って安心していた……。
「大丈夫か? 雅」
「うう〜……寒い……」
夏に使う別荘と言えば、涼しい場所に建てられているものである。
そんな場所でズブ濡れになれば、当然、冷えもする。
何とか小屋へ辿り着きはしたものの、さすがに涼の身体も冷えていた。
「しかし……何にも無いな、ここは」
その小屋は地元の人が建てたのか、電気も通っておらず、部屋の中に囲炉裏が設えてあるだけだった。
扉には鍵がかかっていたのだが、それは涼が叩き壊した……。
「とりあえず火を起こさないとな。 このままじゃ風邪ひいちまうよ」
焼き物を焼く為の小屋なら、何処かに火種になるような物が置いてあるだろう。
涼があちこち探すと、マッチが一箱見つかった。
だが……。
「マッチだけじゃ意味ねえな。 何か燃やす物が無いと……」
小屋の奥の方に薪があるのは見える。
だが、種火を点けてからでないと、いきなりでは火は点かない。
「しょうがねえ、緊急事態だ」
涼は部屋の一角に敷かれていた畳 (休憩用だろうか?) を細かく毟り、それに火を点けた。
やがて囲炉裏には赤々と火が点る。
「これで良し……と。 本来の使い方とは違うけど勘弁してもらおう」
「あったか〜い……」
「雨足は……当分弱まりそうもねえな。 もう少し薪を持って来とくか」
そう言って、涼は薪を取りに席を立った。
一人残された雅は膝を抱えた格好で、囲炉裏の火を見ながら呟いた。
「……服、乾かさないと。 でも……」
涼が戻って来た時、自分が下着姿だったら涼はどんな反応をするだろう?
いきなり襲い掛かって来る?
「ううん、違う。 きっと、アタフタして 『バ、バカ野郎! 早く何か着ろっ!』 って言うだろうな。 顔を背けてさ……」
そんな光景が容易に想像出来て、雅はクスリと笑った。
シャワー室の一件の時もそうだった。
相手に魅力が有る無しに関係無く、そういう反応をする男なのだ。
「珍しい生き物。 でも、そういう所も好き。 大好き……大好きなんだ……」
考える……涼の事を……。
それだけで、雅の中に在る涼に対する気持ちが、どんどん大きくなって行く。
「伝えたいな……好きって気持ちを……」
「何が好きだって?」
いつの間にか、薪を抱えた涼がすぐ傍に立っていた。
「えっ!? あああ、あの……」
「ハラ減ったか? 何か食い物の事でも考えてたんだろう?」
「ち、違うわよっ! アタシが考えてたのは……」
『宇佐奈君の事よ!』 ……そう言いたかった。
なのに、何故か言えなかった。
いつもの自分なら、そんな事くらい苦も無く言えるのに……何故か今は言えなかった。
「……何でもない」
「変な奴」
涼はつまらなそうにそう言うと、抱えていた薪を足下へと並べ始めた。
(へ……変な奴ですってぇぇ〜っ!?)
別に悪意があって言った訳ではないのだろうが、涼の一言に、雅はカチンと来た。
「……悪かったわね、変な奴でっ!」
雅は急に腹が立って来た。
自分がこんなに想い、悩んでいるのに、 『変な奴』 の一言で片付けられてしまった……。
「何怒ってんだ?」
「宇佐奈君が怒らせるような事言ったんでしょ!?」
「何か言ったっけ?」
「今、変な奴って言ったじゃない!」
「そんなに怒るような事かあ? ……まあ、気に障ったなら謝るよ。 悪かった」
一言詫びると涼は雅の隣に座り、一緒に囲炉裏の火にあたった。
仄かな灯りに照らされた涼の横顔を見て、雅は自分の胸が高鳴るのを感じた。
「あ……あの……」
「ん?」
「服……このままだと風邪ひいちゃうかも」
「ああ、そうだなあ……。 昼間ならスグに乾いちまうけど、夜だし、雨降ってるしなあ……」
窓を叩く雨の音は激しさを増すばかりで、一向に止む気配を見せてはいなかった。
未だ雷鳴も重く響いている。
「ぬ……脱いじゃおっか?」
「放せえぇぇーっ!」
「落ち着けって、高梨ーっ!」
「利恵ちゃん! ダメだってばぁっ!」
真一郎と雛子は、必死になって利恵を押さえている。
着替えを終えて、今の今まで大人しくしていたのに、突然、利恵が外に出ると言い出したのだ。
「こんな夜の豪雨の中を、涼達を探しに行くなんて出来る訳無いだろっ! お前の方が遭難しちまうぞ!」
「ヤダッ! 絶対に行くっ! 今、変な胸騒ぎがしたぁぁーっ!」
恋する乙女の勘は鋭い……。
「大丈夫だよ! 涼が雅ちゃんに妙な気を起こす訳無いって!」
「雅が変な気を起こした場合はどうするのよっ!」
「涼ちゃんは相手にしないってば!」
「根拠はっ? ヒナちゃん、その根拠は何っ!?」
普段なら雛子の言葉に素直に頷くのに、今回ばかりは全く効力が無い。
根拠はと詰め寄られても、幼馴染としての勘とか、長年見て来たからとかしか言い様が無い。
……しかし、それでは今の利恵は納得しないだろう。
「だ、大丈夫だから! とにかく大人しくしてて!」
もう勢いで黙らせるより他に無い。
「何で二人とも邪魔するのよぉ〜……涼の貞操の危機なのよぉ?」
「そんな……大丈夫だってば、利恵ちゃん」
「そうそう! そんな事になる訳無いって!」
「……絶対? 保障してくれる?」
雛子も真一郎も、大きく 『うんうん』 と頷き、ありったけの根性を搾り出して、輝くような笑顔を作った。
……つもりだった。
「何よ、その能面みたいな笑顔は〜……」
「し、失礼な! このアイドル顔負けの笑顔に向かって!」
「アイドルに顔が負けてる笑顔ぉぉ〜……? 当たり前の事言わないでくれない?」
「……どうしてこう顔に似合わず毒舌なのかな、こいつは」
そして……また一際大きな雷鳴が響き渡った。