二人
「美奈!」
上げた右手を大きく左右に振りながら、笑顔で自分の名前を呼んだ紫に気付き、美奈は大学の正門を入った所で足を止めて振り返った。
いつかどこかで、こんな事があったような気がする。
あれは、いつの事だっただろうか……?
「ふふ……」
「何? 人の顔を見て笑ったりして」
小走りに近付いた自分を見ながら笑う美奈に、紫は不思議そうな顔をして訊ねた。
「別に。 ちょっと昔の事を思い出しただけです」
「昔の事?」
昔と言っても、二人の付き合いはそれほど古くない。
高校一年生の時からだから、今年で五年目である。
何か美奈に笑われるような事をしたかしら? と、紫が首を傾げていると、
「丁度、高校の入学式の日……でしたわね。 誰かさんが私に喧嘩を売ったのは」
薄笑みを浮かべたまま、美奈は言った。
相変わらず気品に溢れた表情ではあるが、その中に 『可笑しくてたまらない』 といった感情がある事は、紫にはすぐ読み取れた。
「ああ、その話? もういい加減に忘れなさいよ」
「生憎と私は記憶力が良いものですから」
「まったく、つまらない事ばかり憶えてるんだから……」
さすがに思い出すと少し恥ずかしい。
けれど、それは紫と美奈を結び付けてくれた、大事な思い出でもある。
咲姫女子高等学校。
その名は全国に鳴り響く、まさに名門中の名門である。
通う生徒の家柄も、その成績も、普段の生活状況も、何もかも全てが入試合否の対象となる。
そこにはコネクションや義理のある無しは介入する余地が無い。
勿論、裏口入学など論外である。
教職員に対してもその厳しさは徹底されており、一切の妥協は許されない。
もっとも、だからこそ親としては安心して、この全寮制の高校へ娘を送り出せる訳なのだが……。
「え〜っと……」
小さな紙切れを手に、紫は何度も顔を上下させ、メモと学舎を見比べていた。
大き目のバッグの紐が肩に食い込んで少し痛い。
勿論、中には着替えや、必要最低限の生活用品を入れてあるのだ。
全寮制なのだから、これは当たり前の装備である。
あとで宅配便で送ってもらう事も考えたのだが、部外者が校内へ何か運び込む場合には煩雑な手続きが必要な為、少々面倒なのだ。
紫は少し紐の位置をずらし、もう一度メモを確認する。
「今いる場所がここ……入学式は西側の講堂で……となると、こっちは北だから、寮があるのは反対方向よね……」
しかし、あまりにも広い学校の敷地内では、おいそれと目的の場所を見つけるのは困難に思えた。
何しろ、 『とりあえず行ってみて、違っていたから引き返す』 などという事をしていたら、かなり余計な時間を食ってしまう。
何故なら、咲姫女子高等学校の敷地内には、小さな町が出来上がっていると言っても過言では無いのだ。
購買部と言えば、通常の高校では小さな窓口か、小屋程度の大きさの建物であるのが常だが、ここでは何軒もの店が建っている。
体育館や講堂、専門の教科の為の建物も複数建てられているし、銀行や病院まであるのだから……。
この中から目的地を探し出すのは、例え地図を持っていたとしても、不慣れな者にとっては至難の業である。
「あれ? ここはさっき通ったわよね……? どうしよう、迷っちゃった……」
要所要所にはガードマンも配置されていて、紫は何人かに訊ねながら歩いていたのだが、それでもなかなか目的の寮には辿り着けない。
確かに教えられた通りに歩いた筈なのだが……。
その時、各所に設置されているスピーカーから、入学式が始まる旨の放送が流れた。
「嘘っ! もうそんな時間なの!?」
一旦、荷物を部屋に置いて、それから入学式に出る予定だったのに、これでは荷物を抱えたまま出なければならなくなってしまう。
指定の鞄ならともかく、こんなに大きな物を持って講堂に入っていくのは、ちょっと恥ずかしい。
きっともう講堂には、たくさんの生徒が集まっている筈だ。
そんな状況では、入った途端に注目を浴びるのは必至である。
「そんな変な印象付けされるの、やだなぁ……」
その時、大きな黒塗りのベンツが焦っている紫の脇を通り、少し先で停まった。
運転手が即座に後部のドアを開けると、そこからは漆黒の長い髪を春の風に靡かせた、長身の少女が降りて来た。
「うわ、綺麗な人……上級生かな?」
紫がその姿に見とれていると、少女のその端正な顔立ちに似合わぬ切れ長の眼が運転手に向けられた。
「早乙女、私は正門前で停めるようにと言った筈です。 何故こんな所まで車を走らせたのです?」
「も、申し訳ございません。 ですが、少々時間に遅れてしまいましたので……」
余裕を持って出発したというのに、途中で事故があった為、渋滞に巻き込まれてしまったのは運転手の不幸だった。
なまじ大きな車のせいで小回りが利かず、裏道を使う事が出来なかったのだ。
「私の命には従えない……そう取っても構いませんのね?」
「い、いえ! 決してそのような事は……!」
何て勝手な人なんだろうと紫は思った。
運転手さん (早乙女さんというらしい) は、気を利かせただけではないか。
きっとお金持ちの我侭お嬢様なんだわ……と、紫の中での少女の評価はかなり下がった。
「明日から……いえ、たった今から私の専属からは外れて頂きます。 よろしくて?」
「お嬢様! それだけは……どうかお許し下さい!」
「運転をする人間など掃いて捨てるほどいます。 貴方でなくてはならない理由がありません。 お父様には私の方から言っておきます」
これは、もしかしたら事実上の解雇通告ではないだろうか?
(そんな無茶な! たかだか一度、言う事を聞かなかったくらいで……)
それに命令違反と言ったって、今回の事は逆にありがとうと言って良いような事ではないのか?
「あ、あの!」
声をかけてから、紫は 「しまった!」 と思った。
自分は全く関係の無い人間ではないか。
ちょっと腹が立ったからといって勢いで声をかけてしまったが、このあと何をどう言えばいいのだろう?
「……何か?」
紫の声に振り返った少女は紫の顔を一瞥して、つまらなそうに言い放った。
それが逆に紫を落ち着かせ、言葉を放つきっかけを作った。
「ちょ……ちょっと乱暴なんじゃないですか? それじゃ、あんまりだと思いますけど」
「……あら、それは私に言ってらっしゃるのかしら?」
口元に小さく笑みを浮かべて言う少女を見て、紫は一瞬たじろいだ。
迫力が違う……。
怖いとかいう類の物ではなく、圧倒されそうな威厳があるのだ。
だが、ここで引き下がったのでは声をかけた意味が無くなってしまう。
「そ、そうです! その人にだって、言い分はあると思うんです。 貴女の言い様は、あまりにも一方的です」
「随分と居丈高ですのね。 この私に向かって、そのような口を利いた方は貴女が初めてですわ」
「それは貴女には不幸な事ね……。 何でも自分の思う通りにして来たんでしょうけど、世の中全てがいつまでもそれを認めてはくれないわ」
「随分と御立派な御意見をお持ちですこと……ご両親のご教育の賜物ですかしら?」
くすくすと笑いながら少女は言った。
紫は真剣に話しているというのに、何だか少女の方は、それを軽くあしらって楽しんでいるみたいだ。
紫はカチンと来たのか、更に言葉を紡ごうと、一歩少女に近付いたのだが、
「ちょ、ちょっと君!」
運転手が慌てて紫と少女の間に立った。
「いい加減にしなさい! お嬢様に向かって何て事を言うんだ!」
「で、でも……」
「この方は一之瀬美奈様。 一之瀬コーポレーション総帥のお嬢様だぞ!」
「い、一之瀬!?」
踏み出した紫の足がそのまま止まった。
一之瀬と言えば、かの大企業 『登内グループ』 と双璧を成す、国内最大の企業体ではないか。
しかも、その名は海外にも轟き、各国首脳ともコネクションがあると聞く。
当然、国内の政財界にも大きな影響力を持っている筈だ。
「……」
美奈は、じっと紫の顔を見ていた。
紫は、美奈が勝ち誇ったような顔をするかと思っていたのだが、美奈の表情は変わらない。
むしろ今まで以上に冷たい目をして紫を見ている。
一之瀬のご令嬢……そんな人の機嫌を損ねたら、せっかく苦労して合格した咲姫への入学を取り消されるかもしれない。
いくら建前では立派な事を言っていても、いざ権力者が乗り出せば、すぐに掌を返してしまうのが世の常である。
「た……」
『大変失礼しました』
その台詞はウンザリするほど聞かされた。
誰も自分を見ない……一之瀬の名前を聞いた途端に、誰もがまるで違う人になる。
ついさっきまで 『美奈さん』 と呼んでいた人達が、一之瀬の名を聞くと 『お嬢様』 と呼び方を変える。
自分が一之瀬の姓を名乗っている限り……いや、一之瀬の血が流れている限り、自分は 『美奈さん』 にはなれないのだ……。
(どうせ、また……)
美奈は静かに目を閉じた。
「例えどんなに大きな家のお嬢様でも、人一人の人生を左右する権利があるとは思えません! 貴女は考えを改めるべきです!」
紫は胸を張って言った。
構わないと思った。
例え入学を取り消されても、自分の信じる言葉を曲げるのは嫌だった。
「貴女……本気で仰ってる?」
「勿論です!」
「私は一之瀬美奈ですわよ? それを承知の上で、そう仰るの?」
「貴女が誰でも関係ありません。 今この場では、同じ咲姫女子の生徒です」
ほんの少しの間だけ、美奈は紫の顔をじっと見つめると、すぐに運転手を見遣り、
「……早乙女」
と、静かに声をかけた。
「は、はい!」
「ご苦労でした。 車は所定の駐車場に入れておきなさい、後程連絡を入れます。 そうしたら、またここまで迎えに来なさい」
「……はい!」
運転手は美奈に一礼するとベンツに乗り込み、紫の方を見てから小さく頭を下げて走り去った。
「私の前だからといって遠慮する事はありませんのに……」
美奈はクスッと笑った。
「遠慮って?」
「貴女にお礼が言いたかったんでしょうけれど、私の前だから言い難かったんでしょうね」
「お礼なんて……わたし、別に何も……」
紫が困った顔をするのと同時に、入学式開始の合図がスピーカーから聞こえた。
「あ! 入学式が始まっちゃった! どうしよう……」
「あらあら……一生に一度の高校の入学式に遅刻だなんて、一之瀬の長女としては恥ずべき行為ですかしら?」
「あ、貴女も新入生だったの!? ごめんなさい、わたしのせいで……」
「でも……」
美奈は、紫の肩に手をかけ、
「それをサボタージュしてしまうのも、一生に一度の思い出になると思いませんこと?」
ちょっと小首を傾げるようにして言った。
その仕草は先程までとは違い、どことなく悪戯っぽさを感じさせる物だった。
「そ、それは、そうかもしれないけど……」
「時には悪い事をしてみるのも勉強ですわ。 それが自らの意思で行われ、自らの意思で責任を取る覚悟があるのなら」
「物は言い様ね。 ……でも、それもいいかもしれない」
紫はクスっと笑った。
この人は、決して金持ち然とした高慢な人ではない。
それどころか、話してみれば親しみ易く、とても優しい人だ……そう思えた。
「お名前、聞かせて下さる?」
「あ、わたしったら……ごめんなさい。 わたし、阿達紫って言います。 よろしくお願いします、一之瀬さん」
「美奈……と、呼んで下さると嬉しいわ。 勿論、呼び捨てで結構ですわ。 私達は同級生なのですから」
「じゃあ、わたしの事も紫って呼んで」
「……ええ、喜んで」
美奈は笑顔を浮かべた。
それは優しい、安堵にも似た笑顔だった……。
「結局、早乙女さんをすぐに呼んで、そのまま学校から出て行っちゃうんだもん。 しかも、わたしまで無理矢理乗せて……驚いたわ」
「思い立ったら即行動。 というのも、面白いと思いませんこと?」
「掃部関君みたいな事言って……。 元々、美奈と掃部関君は波長が合うように出来てたのね、きっと」
「人は出会うべくして出会うものですわ。 私と紫のようにね……」
初めて紫が 『美奈』 と呼びかけながら手を振ってくれた、高校一年の春。
今でもハッキリと思い出せる、懐かしく、そして素敵な思い出……。
「久し振りに、今日はこのまま何処かへ出かけましょうか?」
「駄目よ。 今日は落とせない講義があるんだから」
「随分と真面目になりましたのね。 高校一年生の頃の紫は、もっと砕けた感じでしたのに……寂しいですわ」
「何言ってるのよ。 美奈こそ段々子供っぽくなってるわよ? 昔はもっと大人だったのに」
「あら、私は変わっていなくてよ? 昔からこうです」
「そうだったかしら……?」
重ねた月日の分だけ思い出が増えて行く。
それはもう戻る事の無い日々……けれど、永遠に変わる事の無い日々。
色あせる事の無い日々……。