第1話:声帯の時代
その日の朝、地球上のあらゆる人類は、等しく声を失った。
病気でも事故でもなかった。声帯は正常に存在しているのに、いくら息を吐き出しても空気の振動——すなわち「音」にならないのだった。世界中はパニックに陥り、医療機関や政府は大騒ぎした。
だが、絶望は長くは続かなかった。
人間には「手」があり、現代には「画面」があったからだ。
人々は一斉にスマートフォンやキーボードを取り出し、画面に文字を打ち込むことで会話を始めた。街からは騒音が消え、静寂が訪れた。
変化は、まず企業や組織の中で顕著にあらわれた。
かつて社内で幅を利かせていたのは、声が大きく、威圧的な身振りで会議を仕切る「声闘」の達人たちであった。彼らは会議室で熱弁を振るい、中身の薄い提案を勢いだけで押し通してきた。
しかし、声が出なくなると、事態は一変した。
黒い画面に向かってキーボードを叩かなければならない世界では、声の大きさも、顔の威圧感も、何の役にも立たない。画面に表示されるのは、純粋な「文章」だけだった。
すると、どうだろう。
「要するに気合で乗り切るべし!」
かつての敏腕役員が打ち込んだメッセージは、テキストにするとあまりにもスカスカで、惨めなほど浅薄に見えた。
一方で、これまで端っこで縮こまっていた内向的な青年・エヌの打鍵速度と論理的な思考は、眩いばかりの光を放ち始めた。
「現在のデータによれば、問題は三点に集約されます。第一に……」
エヌが打ち出す簡潔で緻密な箇条書きは、まるで芸術品のように美しく、誰の目にも一瞬で理解できた。
無駄な挨拶も、ダラダラとした言い訳も消えた。全員がテキストを瞬時にスキャンして理解し、判断を下す。以前なら二時間かかっていた定例会議は、わずか三分で終了した。
数年が経過した。
世界は、かつてないほどのスピードで発展を遂げていた。
会話のノイズが消え、感情的な衝突が劇的に減少したことで、あらゆるプロジェクトの生産性は十倍に跳ね上がった。研究開発は爆発的な進歩を遂げ、貧困や環境問題すらも、テキストによる論理的な議論によって次々と解決されていった。
若者たちのタイムラインには、こんな投稿が溢れていた。
『昔の人類って、いちいち空気を揺らして文字を送ってたの? 通信速度が遅すぎて信じられない』
そうして十年が過ぎたある日。
世界最高峰の製薬会社が、ついに偉大な偉業を成し遂げた。
『声帯再生ワクチンの開発に成功! 一回の注射で、人類は再び「声」を取り戻すことができます!』
ニュースは世界中を駆け巡った。製薬会社は莫大な利益を予想し、各国の政府も大規模な接種計画を準備した。
そして、予約の受付が開始された。
……しかし、初日の応募者は、地球上でたったのゼロ人だった。
街の巨大スクリーンには、市民から投稿されたメッセージが静かに流れていた。
『喋ると情報処理のテンポが落ちるからイラナイ』
『感情的な怒鳴り声とか聞かされる時代に戻りたくない』
『そもそもタイパが悪すぎる』
人類は静寂の中で、静かに微笑み合いながらキーボードを叩き続けた。
かつて人類の発達を最も阻んでいた最大のボトルネックは、病気でも戦争でもなく、「声帯」という名の低速通信デバイスだったのだから。




