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王都暦局が廃止されたので、曜日のない辺境へ赴任した俺。誕生日も祭りもない町に日付を与えたら、止まっていた一年が動き始めた  作者: やまご


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第50話 二度目の誕生日と、続いていく一年

 共同暦二年、芽吹き月七日。


 エルデのパン屋では、朝から一つの問題が起きていた。


「大きすぎる」


 ミラは作業台いっぱいに広がったパン生地を見下ろした。


「去年の二倍にしただけです」


 ノアは注文札を確認する。


「町の人口は一・三倍。七都市から訪れる予定者を含めても、余裕を持たせた適正量です」


「窯の大きさは去年と同じなのよ」


「二回に分けて焼けば」


「誕生日のパンを、最初に来た人と最後に来た人で違う焼き上がりにするの?」


「味に大きな差は出ません」


「出るの」


 ミラは生地を押し返した。


「パン屋が出ると言ったら出るの」


「では小さくしますか」


「リノが嫌がるわ」


 作業台の向こうで、当のリノは椅子へ立ち、飾り札を書いていた。


 ――リノの二度目の誕生日。


 文字は去年よりずっと整っている。


 ただし「誕」の字だけ、まだ少し大きかった。


「小さくしないで」


 リノは振り返らずに言った。


「七つの町の人が来るんでしょう?」


「代表者だけです」


 ノアが答える。


「来られない方々からは、品物と記録が届いています」


「なら、その人たちの分もいるよ」


「本人がいないのに、パンを用意するのですか」


「あとで届ける」


 サラが手紙を運び、ジークが市場を巡り、共同暦の連絡路は以前よりずっと広がった。


 エルデのパンも、乾燥させれば七都市へ届けられる。


「二回焼いて、どっちも同じ誕生日のパンにすればいい」


 リノが言う。


「焼いた時間が違います」


「でも、私を祝って焼いたのは同じでしょう」


 ノアは答えようとして、やめた。


 日付を正確に分けることと、同じ目的を持つことは矛盾しない。


「第一窯と第二窯として記録します」


「味の違いは書かなくていいからね」


 ミラが釘を刺した。


「確認は必要です」


「書いたら一年間、煮豆だけ食べさせるわよ」


 共同暦が始まってから、一年が過ぎた。


 王都の中央暦院は解体され、各地域の記録を照合する共同記録所へ変わった。


 一人の院長が日付を決める仕組みはない。


 王都、七都市、周辺地域から選ばれた記録担当者が、修正前の記録を残したまま意見を照合する。


 変更には、出来事、証人、物的記録。


 そして、影響を受ける地域の確認が必要になった。


 手間は増えた。


 結論が出るまで時間もかかる。


 だが、知らないうちに町の一日が消されることはなくなった。


 オルディス・ヴァレンの裁判も続いている。


 土地証書の改竄。


 零番処理。


 記録破壊。


 被害を受けた町が多すぎて、一度に審理できなかった。


「判決が遅い」と怒る者もいる。


 だがノアは、早さを理由に証言を省くべきではないと考えていた。


 判決の日を急ぐあまり、誰かの被害を再びなかったことにはできない。


 レグナートは共同記録所の巡回確認員になった。


 壊れた中央徽章の代わりに、七つの小さな金属片をつないだ札を持っている。


 権限を示す札ではない。


 どの町で、誰の記録を確認したかを残すための札だ。


 ハウルは相変わらず、その隣を歩いている。


 違うのは、兄から与えられた命令ではなく、自分の意思で同行していることだった。


 エドガーはエルデの時計塔で暮らしている。


 失った記憶は、すべて戻らなかった。


 ノアの幼い頃を尋ねても、覚えていないことの方が多い。


 だが、ときどき青い布へ触れると、一つだけ出来事を思い出す。


「お前は、鐘が鳴ると泣き止んだ」


 ある日、エドガーはそう言った。


 翌日には、自信を失っていた。


「泣き始めたのだったかもしれない」


「どちらでも構いません」


「父親なのに?」


「分からないことを、分かったふりで埋めないと教えたのは父さんです」


 エドガーは困ったように笑った。


 今ではダリオとルカと共に、七つに分かれた公開暦鐘の一つを管理している。


 鐘は朝を命じない。


 七都市から届いた重要な記録があるときだけ鳴る。


 今日の鐘は、リノの誕生日を知らせるためではなかった。


 町へ客が到着したことを、一度ずつ知らせている。


 最初にネーヴァ。


 白鐘花を押し花にした札。


 次にグランザ。


 十九人の子どもが削った鉱石筆。


 セレノからは、サラ自身が大きな郵便袋を抱えて来た。


「リノ・フェン宛て、百二十七通」


「そんなに?」


「セレノで仕分けた手紙を読んだ人たちから」


 宛先はどれも少しずつ違う。


 エルデの誕生日の子へ。


 最初の共同暦を考えた少女へ。


 ノアを忘れず呼び続けた子へ。


「全部、私?」


「出来事を確認してから開ける」


 サラは郵便係らしい顔で言った。


「似た名前の別人へ渡したら困るからね」


「私だよ」


「では質問。去年の誕生日に食べたパンの切れ目は何本?」


「七本」


「新年のパンは?」


「九本にするか揉めて、結局八本」


 ミラが横から口を挟む。


「九本は見た目が悪かったの」


「受取人確認」


 サラは袋を渡した。


 ハルムからは、アイラが新しい種麦を持ってきた。


 十三年間、一袋ずつ守っていた種は、今では七都市の共同種倉へ分けて保存されている。


 ラウゼンから届いたのは、小さな林檎の苗。


 荷車傷の木から取った種を育てたものだった。


 ヴァルドからは、終戦鐘の音を記した薄い金属板。


 最後に、町の入口で長い鐘が鳴った。


「誰?」


 リノが窓へ走る。


 グランザの子どもたちだった。


 学年の代わりに、学んだ内容を記した札を一人ずつ首から下げている。


「十九人全員が来たのですか」


 ノアは宿泊予定表をめくった。


「増えた」


 先頭の少女が答える。


「今は二十三人」


「四人分の寝床が足りません」


「学び場に毛布を敷けば寝られる」


「許可は?」


「先生がいいって」


「学び場の管理者にも確認が必要です」


「先生が管理者」


「では、火の始末と夜番を――」


「ノア」


 ミラが背後から肩をつかんだ。


「今日は誕生日」


「宿泊の安全は必要です」


「分かってる。でも、来て最初に言うことはそれじゃないでしょう」


 ノアは二十三人の子どもを見る。


 彼らの背後には、引率の大人たち。


 一年前、坑道の選別場から学校へ戻った子どもたちが、自分の足でエルデまで来た。


「ようこそ、エルデへ」


 ノアが言う。


「来てくれて、ありがとうございます」


 子どもたちは満足したように頷いた。


「それから寝床を確認します」


「結局言うのね」


 誕生日の準備は、予定より大きくなった。


 広場へ長机を追加する。


 宿泊場所を分ける。


 ハルムの麦でスープを作り、ラウゼンの林檎を煮る。


 セレノの塩。


 ネーヴァの春草。


 グランザの熱石で保温した鍋。


 ヴァルドから来た料理人は、戦時食ではない肉料理を作った。


 七都市の品が、奪うためではなく、一人の少女を祝うために集まっている。


 日が傾く頃、二つの窯から誕生日パンが焼き上がった。


 最初の窯は、少し濃い焼き色。


 二つ目は、わずかに柔らかい。


「違う」


 ノアが言う。


「言わなくていい」


 ミラが即座に答えた。


「でも、どちらも美味しい」


 エレナが一つずつ切り分ける。


「同じにしようとしても、窯が違えば少し変わるものよ」


「失敗?」


 リノが尋ねる。


「違うわ」


 エレナは二枚のパンを同じ皿へ置いた。


「今年は、二つともあなたの誕生日のパン」


 リノは両方を食べ、真剣な顔で考えた。


「最初の方が好き」


「ほら」


 ミラが勝ち誇る。


「でも二つ目も好き」


「どっちなの」


「来年も二回焼けばいい」


「窯を増やした意味がないでしょう」


 広場に笑い声が広がる。


 食事のあと、誕生日札の確認が行われた。


 生まれた日は分からない。


 一年前、エルデで受け入れられた日を、リノの誕生日と決めた。


 共同暦へ移行した際も、その記録は消さず、旧暦との接続を残してある。


「去年と同じ日を迎えました」


 ノアは青い糸、窯札、住民の証言を並べた。


「リノさんを再び町へ受け入れる必要はありません」


「もういるからね」


「はい。今日は、受け入れられた日から一年続いたことを祝う日です」


「二度目の誕生日」


「正確には、誕生日を祝うのが二度目です」


「同じでしょう」


「意味が少し違います」


「ノアの誕生日は?」


 突然尋ねられ、ノアは言葉を止めた。


 王暦六百十三年、鉄月十三日。


 母リディアが、七都市の異議記録を運び、旧暦局の小鐘室でノアを産んだ日。


 同じ日に、母は亡くなった。


 出生記録が戻ってからも、ノアはその日を祝っていなかった。


「記録はあります」


「聞いたのは、祝ったかどうか」


「まだです」


「どうして?」


「母が亡くなった日でもあります」


 広場が静かになる。


 リノは少し考えた。


「じゃあ、お母さんのことを覚える日と、ノアが生まれたことを喜ぶ日を、同じ日にしたら駄目なの?」


「悲しい日と、嬉しい日です」


「一日に一つの気持ちしか持っちゃ駄目?」


 ノアは答えられなかった。


 フィーの墓前で、ユアンは姉の死を悲しみながら、残された種を守った。


 エレナが戻った日は、十三年を失った悲しみと、再会の喜びが同時にあった。


 新年の日も、過去を消された怒りと、次の朝を迎えた喜びが重なっていた。


「駄目ではありません」


 ノアはようやく答えた。


「では鉄月十三日に、リディアさんの話を聞く」


 リノがエドガーを見る。


「覚えてることだけ」


「ああ」


 エドガーは青い布を膝へ置いた。


「覚えていないことは、覚えていないと言う」


「そのあと、ノアのパンを焼く」


 ミラが言う。


「切れ目は?」


「十三本」


「見た目が悪くなります」


「細く入れるわよ」


「味に影響は?」


「食べる前から文句を言わない」


 リノは新しい札へ書いた。


 ――ノアの誕生日を、今年初めて祝う予定。


「予定は出来事ではありません」


「だから、終わったら続きを書く」


 リノは札をノアへ渡した。


「今年、ちゃんとここにいてね」


「はい」


「来年も」


「はい」


「その次も」


「遠い予定ほど、不確定になります」


「ノア」


 ミラが低い声で呼ぶ。


「努力します」


「違う」


 リノは首を振った。


「帰ってくるって言うの」


 ノアはエルデの広場を見た。


 一年前、町の人々に名前を呼ばれ、初めて自分の帰る場所を得た。


 今では、自分が記録を書かない日にも町は続いている。


 鐘を鳴らす人。


 パンを焼く人。


 手紙を届ける人。


 種を守る人。


 学ぶ人。


 休む人。


 誰か一人が背負わなくても、日付は次へ渡る。


「帰ってきます」


 ノアは言った。


「何度出かけても、エルデへ」


 リノは満足そうに札へ一行加えた。


 ――ノアが、帰ってくると約束した。


「まだ予定です」


「皆が聞いたよ」


「約束した出来事は、今起きました」


「でしょう?」


 鐘楼から、夕方の七つ鐘が鳴る。


 エドガー。


 ダリオ。


 ルカ。


 三人が交代で縄を引いていた。


 一つ。


 二つ。


 七つ目の音が町へ広がる。


 リノは誕生日札を胸へ結び、七都市から届いた手紙を一通ずつ配り始めた。


 自分宛ての手紙なのに、皆で読みたいと言ったのだ。


 パン屋の前では、ミラがノアの分の椅子を一つ空けている。


「何をしてるの」


「今日の記録を――」


「明日でいい」


「記憶が薄れます」


「忘れたら、皆に聞けばいいでしょう」


 ミラは隣の椅子を叩く。


「町の一員なんだから」


 ノアは鉄筆を置き、そこへ座った。


 二つの窯で焼いたパン。


 七都市の料理。


 百二十七通の手紙。


 去年より大きくなった少女の笑い声。


 今日という日は、ノア一人が書かなくても残る。


 共同暦二年、芽吹き月七日。


 リノの二度目の誕生日。


 エルデの町に、また一年が積み重なった日。


 そして翌朝。


 時計塔の続日箱に、差出人のない一通の封筒が入っていた。


 封蝋には、七都市のどれにも属さない八つ目の印。


 中にあったのは、古い海図と短い手紙だった。


 ――共同暦の外にも、朝を持たない町がある。


 ――海の向こうで、十年目の同じ夏が続いている。


 ノアが海図を広げると、チクタの砂時計模様が逆向きに流れ始めた。


 ミラは旅用のパン籠を作業台へ置く。


「今度は、帰る予定を先に決めないで」


「では、何を決めますか」


「帰ってくることだけ」


 ノアはエルデの町民札を胸へ結んだ。


「分かりました」


 日付を失った町から始まった一年は、終わった。


 けれど世界にはまだ、誰にも数えられていない朝がある。


 ノア・アルデンは鉄筆を取り、海図の最初の空白へ記した。


 ――エルデから出発した者は、必ずエルデへ帰る。


 その文字は、もう消えなかった。


                第一部 完

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