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佳作の内

作者: 塵芥 庵
掲載日:2026/05/03

何故、私は書いているのだ。




思えば、私は丈夫な人間ではなかった。

無気力で、無責任で、それでいて妙に世間の目ばかり気にする。

そういう、どこにでも転がっている人間の一人だった。


日々の繰り返しに不満はない。

というより、不満を抱くほどの力もない。

目標はあっても、追う気はさらさら無い。

昨日と同じ今日を積み重ねて、どうにか呼吸しているだけだ。


昔はよく散歩をしていた。

あれは、いつだったか急につまらなくなった。

景色を楽しむ。変化を楽しむ。

はぁ、新しい劇場ができた?

はいはい、結構なことだ。

せめて百貨店でも建ってくれれば、私も少しは幸福な演技をしてやれたかもしれない。

変化もつまらぬ。私もつまらぬ。


美術館に行けば、「金の無駄だ」とだけ思う。

私の家にでも来てくれたなら、壮大な陰鬱展覧会だ。

私の人生作品をお見せしよう。

あの頃の輝かしい笑顔。そしてこちらがその現在。

コメディか、サスペンスか。


私はどこにも、心の安らぐ場所がなかった。


私は最近、金魚を飼いはじめた。

水槽に指をなぞれば、ヒレをスカートのように妖艶に揺らす。

餌をやっても鯉のようには食い付かない。

口元にやってきたのを、鮮やかに食す。

どこか名家の女性を思わせる奴だ。


つまり、あいつは目が良くない。

視力やなんかの話ではない。

どうにも私と視線が合わないのだ。

犬、猫、赤子。

あいつらはみんな私を見る。

この金魚にはそれがない。

だから名前は付けられない。


金魚鉢は庭に置いていた。

まぁ、人が盗めないほどの大きさだ。


何日経ったかは忘れたが、朝様子を見たら水面にオレンジ色が浮かんでいた。

朝焼けが反射して、とても綺麗だったのを覚えている。

振った女だ、どこかに消えてくれ。


庭に小さな穴を掘り、濁った水と一緒に流した。

土で汚れた手を洗いながら、私の好きな音楽が聞こえてきた。

あぁ、私の部屋からか。

私はしばらく、蛇口の前に立っていた。

水が冷たかった。それだけを覚えている。


だが私も、人の前では「普通」に振る舞う。

結婚式に呼ばれたことだってある。

あれは大変だ。

私はそこでは、一日中役者になるのだから。


金魚を埋めてから、ひと月も経たぬうちに、私はある結婚式に出席した。

新婦のドレスが、ヒレのようだと思った。

その考えは、すぐ胸の奥に沈んだ。

結局、私は笑うだけだった。

そもそも私は、何も持っていなかったのだ。


式の後、想像通り酒に誘われた。

こいつは、まだ私を友人だと思っているのか。

そう思いながらも私は頷いた。


夜道を歩くと、ガス灯の光がやけに白かった。

路面電車の軋む音が遠くで響いている。

酔客が道の端で何事か怒鳴っていたが、人々は揃って目を逸らした。

私も、その一人だった。


駅前で別れたあと、私はすぐには家へ戻らなかった。

誰かの笑い声が遠ざかるのを感じながら、理由もなく同じ道を引き返していた。


そんな時、あるポスターが目に入った。

「文芸誌新人賞 公募開始」


私はそれを、まるで夜道に落ちていた得体の知れない死骸でも見るような目で眺めた。胸が熱くなるどころか、むしろ心臓の奥がすっと冷めていくのを感じた。


私には違うだろうな。

ただ、足は確かに止まった。


逃げるようにその場を去り、いつもの角を曲がって家に入った。

靴を脱ぎ、手を洗う。

蛇口から出る水は相変わらず冷たく、無機質だ。


だが、何かが違った。

さっきまで平気だった部屋の静寂が、急に耳に障る。

机の上に置かれた飲みかけの茶も、棚に並んだ古本も、すべてが私を「無価値な傍観者」だと指差しているような気がしてならない。

横になろうとして、やめた。


私は、自分の中に溜まった濁水をどこかへ流さなければ、いつか窒息してしまうのではないか。

それは排泄に近い、切実な生理現象だ。

気がつけば、私は埃を被った古いペンケースを漁っていた。


私は夜の机に向かい、ペンを握った。

金魚のことを書こうとした。

あのヒレの揺れや、目の合わなさを言葉にしようとした。

しかし、あの金魚はどうだっただろうか。

オレンジ色だったか。赤だったのではないか。

そもそも、あれは友人の家に居たものでは。


結婚式のことも書いた。

笑っていた自分を、どこか遠くから眺めていたような感覚を。


だが、それもまた書いているうちに少しずつ形を変えていった。

あの場の空気も、人の顔も、自分の感情すらも、紙の上では都合よく並び替えられていく。


私は書いた。思い出したことではなく、書ける形にしたものを。

それが嘘なのかどうかを私は知らない。知っている方がおかしい。

気づけば、夜が白み始めていた。


原稿を封筒に詰め、私は出版社の編集部を訪ねた。

木机の向こうで、若い職員が原稿を受け取り、一瞥しただけで脇へ置いた。


「……お預かりします」


それだけだった。

視線は、もうこちらを向いていなかった。


私はしばらくその場に立っていた。

金魚と、同じ目をしていると思った。

それから封筒をひったくるようにして言った。


「待ってくれ、やはり持ち帰る」


職員は驚かなかった。

ただ、どうぞ、と言うように手を引いた。


家に戻り、机の前に座った。


取り返した原稿を脇に置き、封筒の表にゆっくりと書く。


「遺書 山本正雄」


名前なんてなんでも良かった。

ありふれた名前で誰かを語れば良い。


そして数行の言葉を書き足した。

だが名前の部分だけは、乾ききらないうちに指で擦り、滲ませた。


死ねば、誰かが読むだろう。

生きている人間の言葉に価値がなくとも、死者の言葉には妙な輝きが宿るものだ。


私はペンを置いた。

机の上には、もう書くものは残っていなかった。


翌朝、私は同じ道を歩いた。




編集部の机には、同じような封筒がいくつも

積まれていた。

紙の端は揃っておらず、角は潰れている。

誰かが一度開き、途中で閉じたものも混ざっていた。

その中に、「遺書」と書かれた封筒があった。


若い職員はそれを見て、ほんの少しだけ手を止めた。

だが次の封筒に視線を移すまでの時間は、他と変わらなかった。


指で端を切り、中の紙を取り出す。

最初の数行に目を通し、次の段落へと進む。

そこで一度、紙をめくる手が止まった。


金魚、という単語があった。

一瞬だけ目を細めたが、すぐに視線は滑っていった。

最後まで読むことはなかった。

紙を揃え、元の封筒に戻す。


「これ、どうですか」


新人の職員が、紙束を差し出した。


「タイトルが『遺書』ってねぇ」


受け取った男は少し困った顔をした後、ゆっくりとページを捲った。

途中で一度だけ手が止まり、同じ行をもう一度目でなぞる。


「……なんだろうな」


紙から目を離さないまま、男はそう言った。


「山の中に虎がいる気配がする。とりあえず、佳作候補かな」


それだけ言って、紙は机の上に戻された。

束の端は揃えられず、他の原稿の下に半分ほど埋もれた。




季節が一つ、音もなく通り過ぎた。


私の手元に、一通の封書が届いた。

出版社の名前が印刷された、事務的で清潔な封筒だ。


「佳作入選」


その四文字が、陽光に照らされて、ひどく重々しく浮き上がっていた。


私は吐き気を催した。


死を装い、名前を滲ませ、ようやく手に入れた注目。

選評に並ぶ言葉のどれもが、私の喉元を撫でるだけで、決して切り裂いてはくれない。

人の死は、彼らにとっては「適切な分量の絶望」でしかなかったのだ。


絶望さえも認められてしまえば商品になる。

ならば私は、この佳作という名の檻の中で、彼らが喜ぶ死の演技を続けるのか。

一生。


ふと、庭に目をやる。

主のいない金魚鉢が寂しげにただ置かれている。


私は無意識に指を動かした。

かつて金魚を惑わせた時のように、空中で指をゆっくりとなぞった。

もう、妖艶に揺れるヒレも、合わない視線も存在しない。

それでも私は、そこに何かを探すように指を動かし続けた。


何もいなかった。

最初から、何もいなかったのかもしれない。


私は机に向かった。

ペンを握る。

まだ白い紙が一枚ある。


何故、私は書いているのだ。


義務でもない。

権利とも言えない。

誰も読まない。

誰も見ない。

それでも筆は止まらない。


金魚は視線が合わなかった。

職員も視線が合わなかった。

私が書いたものも、誰とも視線が合わないまま、どこかへ沈んでいく。


だが、

書いている間だけは。


ペンが紙を引っ掻く音が、部屋に満ちる。

この音は、誰の耳にも届かない。


私は書いた。

夜が明け、白んだ部屋の中で、私の指先はインクで黒く汚れていた。


それはまるで、自らの内臓を引き摺り出したあとの、乾ききらぬ血のようにも見えた。

洗っても、きっと落ちることはない。


私は構わず書いた。

白い原稿用紙に少し指のインクが写って滲んだ。

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