第2話:推しを「旦那」と呼ぶ日が来るなんて聞いてない
私が最後に覚えていたのは、十八歳の冬。
遊び人で名高い皇太子の「十人目くらいの婚約者候補」として、死んだ魚のような目で夜会に出ていた時だ。
そんな私の唯一の生きる糧が、騎士団の若きエリート、ギルバート様を遠くの物陰から双眼鏡(魔道具)で眺めることだった。
――それなのに。
「……リチャード。お母様の具合が悪いようだ。今日はもう下がりなさい」
「父上、大げさですよ。母上、いつもの『尊い……』という顔で固まっているだけでは?」
目の前の「若かりし頃の推し(息子)」が、呆れたように私を見てくる。
「リチャード……ごめんなさい。あなたを息子だと認識するのに、あと五年くらいかかりそう。とりあえずその角度で三秒止まってくれる? 網膜に焼き付けたいの」
「……父上。母上が本当に壊れました。……ご令嬢たちが呼んでいるので失礼します」
リチャードは華麗に去っていった。あのお辞儀の角度、ギルバート様の十八歳の時と完全一致。百点。
だが余韻に浸る間もなく、背後から“重い気配”が近づいてくる。
「セレナ。……いつまであいつを見ているんだ。成人したとはいえ、もう私と君を奪い合うライバルではないはずだろう」
腰に回された腕に力がこもる。
振り返れば、そこには渋みを増して破壊力が上がった「推しの最終進化系」こと夫――ギルバートがいる。
「あ、あの……ギル……様?」
「様はやめろと言っただろう。……二人きりの時は、ギルでいい」
至近距離のウィスパーボイス。
ダメ。推し活の“正しい距離感”を完全に逸脱している。
「……あの。私、どうやってあなたと結婚したんでしたっけ? 記憶が十八歳から飛んでいて……。私の記憶では、皇太子殿下の婚約者候補だったはずなんですけど」
ギルバートの瞳が、一瞬で「騎士の目」に変わった。
「……あの男か。私が、君の目の前で奴を叩きのめし、国王陛下に直談判して婚約を白紙にさせた日のことを忘れたのか?」
「……え、叩きのめ……? あの硬派で規律にうるさいギルバート様が?」
「……恋は、人を狂わせるものだ。君が作っていた、あの『名前入り団扇』を見つけてしまった時からな」
……終わった。
私がひっそり隠していた推し活グッズを、本人が若い頃に見つけていたらしい。
本来なら引かれるはずが、なぜか彼はそれを「熱烈な愛」と盛大に勘違いし――力技で私を奪い去ったということか。
「……団扇まで自作して応援してくれる女性など、生涯で君だけだと思った。あの日の君の涙を、私は一生忘れない」
「それ、たぶん糊の匂いに酔ってただけです……」
「今夜は、ゆっくり思い出させてあげよう。……君がどれほど私の名を呼んだかを」
夫の顔が近づく。
逃げ場はない。
推しと結婚するということは、毎日が神席であると同時に、心臓がいくつあっても足りない地獄でもあったのだ。
「……悪手だわ。推し活は、一線を越えたら最後……ただの甘い泥沼ね」
――その夜、私は確信する。推しと結婚するのは神席ではなく、「逃げ場のない最前列」だ。
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