さよならにサインする
その日、俺はようやく決心した。
半年悩み、迷い、怖がり続けて、それでも「この人しかいない」と思えた彼女に、指輪を渡した。
「佳澄、結婚してください」
佳澄は一瞬、息を呑んだように目を見開き、すぐに笑った。あの、花がほころぶみたいな、春みたいな笑顔で——でも次の瞬間、表情が変わった。
「ねぇ、言わなきゃいけないことがあるの」
胸の奥がざわついた。嫌な予感が、心のどこかで静かに形を作っていく。
「私ね……あと1週間で死ぬけど、それでもいいの?」
「え?」
世界が止まった。 聞き間違いなんかじゃない。佳澄の声は震えていたけれど、嘘をつくような揺れじゃなかった。
あんなに元気だったのに。というか今も切り傷一つないのに 一緒に笑って、未来の話をして、何気ない日々を積み重ねていたのに。今もその途中なのに。
でもその目は、涙であふれながらも、真っすぐ俺を見ていた。
どんな言葉より、その目が事実を物語っていた。
まっすぐ瞳の奥を見つめながら、その沈黙を切り裂くように彼女は
「一日だけ猶予、あげるね」
と言った。
「……どうして」
「悩ませちゃった時間のぶん、返さなきゃ」
プロポーズがバレてた驚きはどこにもなかった。
それよりも俺は薄々感じていた。 猶予とかいう時間なんて、本当はどこにも残されてないのに。 佳澄は、微笑んで、俺の部屋を後にした。
その二時間後だった。 佳澄の母親からの着信で、俺の世界は音を立てて崩れ始めた。
病室に駆けつけると、彼女は傷一つないのに、無数の管に繋がれ、白いベッドに横たわっていた。 白いシーツの上で、まるで体だけが先に抜け殻になったように、静かに眠っていた。
その管はまるで、佳澄の魂をどこか遠い場所へ運ぶために準備されているようで胸が締めつけられた。
病室には俺と佳澄の二人きり。佳澄の両親は気を遣って、席を外してくれている。
窓の外はもう暗く、遠く先に明るいビル街が見える。
手には、走ってくる途中で汗に濡れてしまった一枚の紙切れ。 佳澄が残した“契約書”だ。
彼女が
「これ落ち着いたら、読んでね」
といって残した契約書をまだ読む決心がつかない中での着信だった。
まるで生きていることから切り離されているように横になっている佳澄の前で深呼吸をし、契約書を開く。
「『契約書』 あなたは私と結婚するうえで、以下のことをご理解お願いします」
見慣れた優しい字が逆に心を蝕んだ。
先には、いくつかのチェックボックスが並んでいる。
「□ 私はあと1週間で死ぬ」
一行目にして、最大の現実。 “1週間”の文字は、何度も消しては書き直した跡があった。
なんでためらったんだ、俺は。 なんでもっと早く覚悟して、言えなかったんだ。
目線を下げるのが怖くなった。 この続きを読んだら、もう二度と戻れない。
そんな気がして。
でも涙は、読まないうちから紙の上に落ちた。
『□ 私が死んだ後、私のことを忘れる』
「そんなこと…できるわけないだろ」
声が漏れた。 こんなに好きなのに。忘れられるわけがない。
「なんでだよ…」
そう言いながらさっきと変わらない彼女を見ると、聞こえるはずのない声が胸に響いた。
「智樹のことを思って言ってるんだよ。智樹は今後、まだまだたくさんの出会いが待ってるよ。智樹は優しすぎるから。私がいなくなった世界でも私のことを思ってずっと泣いてる気がする。だから、”忘れて”って。智樹には今後、たくさんの幸せなことがあって、たくさんの明るい未来が待ってて、その時に見せるその素敵な笑顔の影に私のいない寂しさがあってほしくないの。だからわかって。」
「優しすぎるのはどっちだよ…」
どうにも止まらない涙の中、さらに読む。
『□ 私が死んだ後、他の人を好きになる』
「なれるわけ…ないだろ」
紙が震えていた。手が震えていたのか、心が震えていたのか。
『□ 私が死んでも、幸せになる』
「幸せになんて……なれるわけないよ」
今の幸せの大部分をくれていたのは、誰だと思ってるんだよ。 幸せなんて、もう——。
最後の文には、優しい彼女の字でこう書かれていた。
「上記の内容を理解しましたら、チェックを付けたうえで記名をお願いします」
まるで、先に逝く罪悪感と後悔を全部、自分で引き取ろうとしたみたいに。 彼女らしい、不器用で誠実すぎる優しさだった。
どれだけ涙をこぼしても、彼女は動くそぶりを見せない。
ベッドサイドの心電図は、まだ山を描いている。
それはただ彼女がまだ生きているという”事実”を残すだけだった。 でもその山が、いつか平らになってしまう未来を俺は知っている。 それが残酷なくらい遠くないことも。
「佳澄…俺、どうすればいいんだよ…」
答えるはずのない沈黙の中で、俺はただ、彼女の冷たくなりつつある手を握りしめた。その薬指には指輪がついていた。
窓の外のビルの光が、ひとつ、またひとつと消えていく。




