第52話 絶望の先へ
私、雨宮 しずく。
地元で一番偏差値が高いとされる東雲高等学校に入学した。
それなのに、成績は学年最下位。
運動もまるでダメ。
音楽も、周りから失笑されるほど壊滅的。
何ひとつ誇れるものがなくて、
周囲に迷惑ばかりかけて、
生きているだけで空気を濁している気がして。
――生きている価値もない人間。
いつからか、それが私自身を指す言葉になっていた。
そんな私に、
たったひとり、隣に座ってくれたのが綾瀬由梨だった。
由梨は、勉強も運動も平均以上。
特に音楽の才能はずば抜けていて、
ピアノ歴は十年以上。
舞台に立てば、きっと喝采を浴びるだろう。
けれど、その白い手首には、
無数の細い傷が刻まれていた。
誰にも見せられなかった痛み。
どうにか消そうとして、
消えなかった痕跡。
それを見た時、私は何も言えなかった。
でも同時に、胸の奥で何かが共鳴した。
私も、人には言えない闇を抱えていたから。
劣等感。
自己否定。
終わることのない孤独。
きっと、似ていたのだと思う。
私たちは互いの影にそっと触れ、
なぞるように、傷口を刺激しないように、
静かに距離を縮めていった。
――そのはずだった。
でも、そんな私たちの前に、
ひときわ強く、眩しい存在が現れた。
星川ひかり。
虹ヶ丘中学校出身。
東雲高校、史上初の首席入学。
スポーツ万能で、
性格は明るくて、誰にでも平等に優しい。
困っている人を見つければ、
迷うことなく手を差し伸べる。
まるで絵本の中の主人公のような子だった。
完璧で。
欠点なんて見当たらなくて。
私から見たひかりは、
夜空に輝く星のように、
あまりにも遠い存在だった。
――それなのに。
彼女は、何度も私を助けた。
クラスで取り残された時も、
失敗して笑われた時も、
自分が前に出れば済む場面ですら、
迷わず私をかばった。
どうして、そんなことができるのか。
どうして、私なんかに。
ある日、その疑問が溢れ出して、
私は耐えきれず、彼女にぶつけてしまった。
「どうして私なんかを助けるの?
私なんか、生きている価値もないのに……」
今思えば、あれは質問じゃなかった。
自分を否定してほしいという、
歪んだ願いだった。
でも、ひかりは一切迷わなかった。
「人助けに理由なんていらないでしょ。
それにね、唯のことが好きな人は、たくさんいるよ。」
そして、少しだけ強い声で、こう言った。
「生きてる価値がないなんて、二度と言っちゃダメ!」
あの時の笑顔を、私は忘れない。
太陽みたいに明るいのに、
どこか、ほんのわずかな切なさが混ざっていた。
ひかりは、ときどきピアノを弾いた。
体育館の隅に置かれた、古いグランドピアノ。
昼休みや放課後、
人のいない時間を選んで、
ひとり、静かに鍵盤を叩く。
ある日、その音を聞いて、
由梨がぽつりと呟いた。
「ひかりってさ……
何でもできるけど、
ピアノはそんなに上手くないわよね?」
「仕方ないよ。
由梨は十年以上やってるんだし。
途中から始めて追い越すのは、無理だよ。」
「……そうね。」
由梨は一度、言葉を切った。
そして、その声は驚くほど静かで、
少しだけ震えていた。
「でも……うまい下手じゃないの。
ひかりの演奏って、なんかとっても悲しい音がするのよ。」
彼女の言う意味が、私にもわかる。
胸を締め付けられるような。
聞いてはいけないものを、
聞いてしまったような。
そんな音。
私は音楽のことなんて、何も分からない。
それでも――
ひかりの演奏は、確かに何かを訴えていた。
儚くて、消え入りそうで、
まるで「誰か」を想っているみたいで。
それが「誰なのか」は、私にも分からない。
恋人かもしれない。
家族かもしれない。
あるいは、親友かもしれない。
けれど、ひとつだけ言えるとすれば、
彼女は胸にぽっかり空いた大きな穴を、
音で埋めようとしているのだと思う。
大切なものを失った心の傷を、
癒すように。
明るくて、強くて、前向きなひかり。
クラスの誰よりも輝いて見える彼女にも、
人に言えないほど、深い闇がある。
それを、彼女は言葉にはしない。
泣き言も、弱音も、誰にも見せない。
けれど――
ピアノだけは、嘘をつけなかった。
本当の気持ちを、
こっそりと、音にしてこぼしていた。
私は思う。
誰よりも強く見える人ほど、
本当は誰よりも脆いのかもしれない、と。
けれど同時に。
そのピアノの音の奥には、
確かに、小さな灯があった。
絶望の底で、
それでも消えずに残った――
誰かを想う、
あたたかさのような光が。
それは、終わりを告げる音じゃない。
失われたものを抱えたまま、
それでも前へ進もうとする、祈りの音だ。
ひかりが前に進もうとする限り、
彼女にとっての大切な存在残してくれた“希望”は、
確かに、この世界に生き続ける。
――この先、どんなことがあったとしても。
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