第50話 目覚めの涙
華奢な少女の頬を、一粒の涙がゆっくりと滑り落ちた。
その涙は、壊れやすい硝子細工のように繊細で、触れれば砕けてしまいそうで——それなのに、確かな熱だけは消えずに残っていた。
凜華の肩がかすかに震えている。
本来なら、彼女はオルフェウスの呪縛で身動きひとつできないはずだった。
それなのに、細い指がぴくりと痙攣し、ぎゅっと握られ、そして——拘束を縛る見えない鎖が、きしりと音を立てて歪んだ。
その光景を、私は呆然と見つめることしかできなかった。
私自身も洗脳され、心はどこか遠くへ置き去りにされていたはずなのに、胸の奥にじん、と痛みが灯る。
「……凜華?」
呼びかけた自分の声の弱さに驚く。
彼女は答えない。ただ震え、苦しげな呼吸を繰り返しながら、必死にもがいていた。
そして——その瞬間。
凜華の指先が、宙を彷徨うように伸び、ためらうように震えてから、私の手を掴んだ。
ひんやりしていた。
けれど次の瞬間、その冷たさの奥に、確かにある体温がじわりと伝わり、私は呼吸を忘れた。
(あ……あたし、生きてる……?)
胸の奥で、ずっと凍っていた何かが溶けていく。
凜華の手に触れた途端、洗脳の霧が一枚、また一枚と剥がれていくようだった。
私はただの“駒”じゃない。
私は——ちゃんとした、私という人間だったんだ。
「……ひかり……」
凜華が小さく、小さく、囁いた。
そのたった一言が、胸の奥に突き刺さる。
彼女は、私の名前を呼んだ。
凜華の記憶が、ほんの少しずつ戻り始めている。
「凜華……」
返そうとした声は、震えて言葉にならない。
それでも、私は彼女の手を強く握り返していた。
そのとき、ぱあっと凜華の周囲が光に満たされた。
最初は蛍火のように頼りなく、小さな光。
だが、彼女の祈りに呼応するように、光は強まり、暖かさと神聖さを帯びていく。
「凜華? その光……なに? だめ……今無理したら!」
抱きしめたくなるほど彼女は弱々しかった。
痩せた肩は震え、痛みを噛みしめるように唇を噛む。
そのとき、不意に聞き覚えのある声が響いた。
「凜華ッ!!」
反射的に振り向くと、瓦礫を踏みしめながら走ってくる影が見えた。
凜華の彼氏——山田浩平。
行方不明だったはずの彼が、必死の形相で駆け寄ってくる。
「良かった……見つけた……!」
その声は震え、けれど希望の色があった。
そして気づく。
浩平だけじゃない。
周囲の人たちが、次々と目を覚まし始めていたのだ。
洗脳で曇っていた瞳が澄み渡り、きょろきょろと周囲を見回す。
「……ここ、どこ……?」
「私……何を……?」
人々の瞳に、生気が戻っていく。
誰かが声を上げた。
誰かが抵抗した。
その祈りが波紋のように広がり、町中へ伝わっているのだと悟る。
それでも凜華は光の中心で、深く静かに息を吸った。
「ひかり……思い出してきたの。断片的だけど……大事なこと……全部」
声は細く震えていた。
けれど、瞳には覚悟が宿っていた。
胸騒ぎがして、私は彼女の腕を掴んだ。
「ねえ、凜華……やめて。その光……危ないよね? これ以上は……!」
すると凜華は、泣き崩れていたはずの少女とは思えないほど穏やかに微笑んだ。
月の光みたいに静かで、どこか遠くを見ている微笑み。
「大丈夫。怖くないよ、ひかり」
(怖いよ……!
私は……大切な人を失うのが、一番怖いの……!)
心の中で叫んでも、声にはならなかった。
凜華の光はさらに強くなり、輪郭を淡く照らし始める。
光が強まるほど、彼女が現実から遠ざかっていくようで、胸が潰れそうだった。
「凜華……何をするつもりなの……?」
震える声で問う私に、凜華は静かに首を横に振った。
「ひかり。ここから先は……もう、戻れないの」
その言葉の意味の重さに、心臓が跳ねた。
いやだ。
そんな顔しないで。
そんな終わり方、絶対に——。
光に包まれながら、凜華は祈るように両手を合わせ、天を見上げた。
まるで何かに呼ばれるように。
まるで“別れ”の準備をしているように。
息が止まる。
胸が締めつけられた。
凜華の光は、もう彼女だけのものじゃない。
町中で目覚めた人々の希望、祈り、想い——
そのすべてが、凜華へと流れ込んでいる。
いやだ。
絶対に行かせない。
そんな未来……受け入れられるわけがない。
「……凜華!!」
私の叫びは、光に吞まれていく。
光はさらに強く、まっすぐ空へ伸び上がる。
そして——私は悟ってしまった。
彼女が何をしようとしているのか。
その先にある“悲しい未来”を。
まだ誰も気づいていない。
けれど私は知っている。
この物語は、嫌な予感のまま進んでしまう。
光の中心で、凜華は静かに、穏やかに微笑んでいた。
——ここから、すべてが始まる。
【次話予告】
私の嫌な予感は、的中する。
「凜華! やめてってば!」
「お願い……戻ってきてよ!」
叫び続けても声は震え、光に掻き消されていく。
もう届かないの……?
第51話 世界が祈る
必ず、次も読んでね。
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