第20話「潮の祠、深き忘却」
◇静まる港
タルマイルの港は、二日ぶりに穏やかな朝を迎えた。
石段に並ぶ樽の水面は鏡のように静かで、子どもたちが裸足で覗き込んで遊んでいる。
港人は祭りのように働き、崩れた桟橋を修繕し、魚を干し、貝を磨いていた。
俺は灯台の上からそれを見下ろし、深く息を吐いた。
祠の奥に残る“空白”はまだ重い。
でも、それはもうただの穴じゃない。小さな貝殻の器になって、拍を静かに反響させている。
「レオン、顔が怖い」
アリアが尾を揺らして横に立った。「勝ったのに、まだ戦ってるみたい」
「……戦いは終わってない」
俺は海を指した。「深みで唄ってる声がある。あれはまだ、鎮まってない」
◇忘れられた唄
マエラが合流し、掠れた声で語った。
「昔、この町には“潮祠”があったの。海底に沈んだ、小さな神殿。唄い手たちは代々そこに祈って、拍を繋いできた。でも、百年前の大波で祠は失われた」
セレナが石板に古地図を写し取り、眉を寄せる。
「祠が壊れてから、唄は“形式”だけ残った。器を思い出せないのも当然」
「じゃあ、祠を見つければ……」
ミラが不安げに口を開く。
「忘れられた唄を、もう一度思い出せるかもしれない」
俺は頷いた。
「潮の祠を探す。――それが、溢れの律を根から鎮める唯一の道だ」
◇潜航の準備
港人たちは俺たちの計画を聞き、古い潜水具や網を持ち寄った。
青銅の輪を重ねて作られた腰帯、海藻で補強された面布、そして海に潜るための“潮管”。
アリアは弓を防水布で包み、背に背負う。
「水の中でも、矢は打てる。……多分!」
ミラは薬草を砕き、特殊な軟膏を調合する。
「これを塗れば、体温が保てるはず。冷えで震えても祈りは続けられないから」
セレナは石板に符を刻み、掌を切って血を滲ませた。
「血の符でないと、海の底では書が消える。……私が負担を負う」
マエラは貝笛を胸にかける。
「祠を見つけたら、唄を捧げる。祖母が一度だけ口にした旋律を、まだ覚えてる」
◇海の底へ
再び潜った海は、前回よりも澄んでいた。
灯列が輪を描き、白い光が水底を導いている。
やがて、岩礁の影に黒い裂け目を見つけた。
――潮祠。
崩れた柱、散らばる貝片、割れた石棺。
そこに刻まれた紋章は、確かに「器」の文字だった。
だが同時に、底から声が湧き上がった。
『器など要らぬ。忘れられたからこそ、我は自由だ』
黒い影が渦を巻き、祠を包み込む。
それは“忘却の律”そのもの。
忘れることに快楽を見いだし、戻る場所を拒む意思。
◇祠の戦い
アリアの矢が渦を裂き、ミラの薬が光を放ち、セレナの雷が海底を震わせる。
だが忘却の律はすぐに形を取り戻す。
それは俺の祠にも侵入しようとし、拍を削っていく。
「忘れたい……」
甘い囁きが頭を満たす。
「滞りも渇きも、全部忘れてしまえば、どれほど楽か」
俺の膝が崩れかけたその時、背に温かい拍。
アリアの勇気、ミラの慈しみ、セレナの冷静、マエラの唄。
四つの拍が祠を支えた。
「忘れてもいい。……でも、思い出せる場所があるから歩けるんだ」
俺は祠を開き、忘却の律を“記憶の置き場”へ祀った。
渦が収まり、祠の柱に光が戻る。
マエラの唄が祠の奥に響き、忘れられていた旋律が、海そのものに思い出された。
◇海上の夜
水面に浮かび上がると、港中が灯を掲げて待っていた。
マエラが震える声で最後の唄を捧げると、波は優しく石段を撫でた。
「……戻った」
灯台守が呟き、杖を掲げる。「潮祠の灯が、百年ぶりに点った」
胸の祠は静かだった。
忘却は鎮められ、代わりに“思い出す拍”が加わっている。
俺は仲間を見回し、小さく頷いた。
「次は――大陸のどこが呼ぶのか」
星は巡り、潮風が答えを隠していた。
(つづく)




