第19話「潮の口笛、溢れの律」
◇港への道
砂漠の風は背を押し、やがて香草の匂いに塩のしぶきがまじった。
地平が揺らいでいた青は、今度こそ本当の海だった。
砂丘は草に変わり、草は低木に、低木は白い礫浜に変わっていく。向こうに積み木のような家並み、斜面に段々と重なる白い壁と赤い屋根。潮風に鳴る帆柱の音が、心臓の拍と重なった。
「……これが海」
アリアが耳を立て、目を丸くする。「大きい川のずっと向こうみたい」
「潮の匂いは薬になることも毒になることもある」
ミラは胸いっぱいに息を吸い、軽くむせて笑った。「でも、渇きは遠ざかるね」
セレナは石板を出して海へかざす。紫の線の揺らぎは砂漠とは違い、絶えず満ち引きする波模様になっている。
「――“拍”が二重ね。往き還りでは足りない。“押し返し”が入る」
女神のささやきが、潮騒に混ざって耳朶を撫でた。
『溢れの律。器の縁を忘れた水が歌う拍。』
港町の名はタルマイル。市門では、潮焼けした衛兵が濡れた板札を掲げていた。
《高潮警戒。下段居住区は日暮れまでに高所へ。港税は当面免除》
衛兵は俺たちの通行証を一目見ると、肩で息をつきながら顎で港を指した。
「今は誰でも通す。あんたら、助けができるなら灯台へ行け。“唄い手”が少ない」
「唄い手?」
問い返すと、彼は短く答えた。
「潮をなだめる声だよ。――最近、全然効かないがな」
◇潮の町
下段の路地は濡れ、潮が引いた跡に銀色の小魚が跳ねていた。
戸口の砂袋、縄で縛った樽、窓に打ち付けられた板。人々は“いつもの仕事”のように手際よく、階段を上へ上へと運び上げている。
高段の小広場で、老人が長い貝笛を吹いた。
柔らかな旋律。けれど、海は耳を貸さない。引くはずの波が、音の終わりに合わせて逆に盛り上がる。
「拍が逆だ」
セレナが眉を寄せる。「笛は“想い出された拍”をなぞってる。海は今、“忘れたい拍”で押してる」
「忘れたい拍?」
ミラが首を傾げる。
「溢れる記憶」
俺は潮を嗅いだ。胸の祠がうっすら熱を持つ。「どこかで“器の縁”が壊れてる。だから水は縁を知らなくなってる」
灯台へ向かう坂の途中、海衣をまとった娘が立ち止まってこちらを見た。頬に塩の白が残り、喉は赤くただれている。
「等流師、なの?」
うなずくと、彼女は小さく息を吐いた。
「私はマエラ。潮の唄い手。……ねえ、海が怒ってる。深いとこで“落とし物”をしたみたいに」
「落とし物?」
「昔の唄。縁を作る唄。――誰も覚えてないの」
マエラは灯台の方を見上げた。そこでは数人の唄い手が交代で笛と声を重ねているが、波はなおも石段を舐め、港のボラードを軋ませている。
◇灯台の上で
灯台守は、片目に白い布を巻いた老女だった。
「等流師だと? 砂漠から来て潮に口出すのかい」
刺すような言葉に、俺は小さく頭を下げる。
「口は出さない。拍を合わせる。……器の縁がどこで崩れたか確かめたい」
「なら見ろ」老女は海を指した。「十三日前の夜から、沖の“縁石”の灯が消えた。そこが切れると、港は器じゃなくなる」
沖合に黒い線が見える。海面からところどころ牙のように突き出た石の列――古い環礁に、灯を継いできた印が打たれているのだろう。
だが確かに一帯が暗い。波はそこでいったん溜まり、固まってから一気に港へ押し寄せていた。
「……“滞り”と“溢れ”が同時に起きてる」
セレナが石板に素早く線を刻む。「縁石で“滞り”、港で“こぼれ”、拍が千切れる」
アリアが弓を握り直した。「行くなら、今のうちだよ。潮が満ちきる前に」
俺は頷く。
「沖の縁へ行く。――マエラ、唄えるか」
娘は驚き、すぐに頷いた。
「喉は焼けてるけど、声は折れてない」
灯台守が短く息を吐く。
「舟は貸す。戻ってきたら、灯の芯に火を分けよう。……戻ってきたらだよ」
◇縁石
小さな櫂船で沖へ出る。
波は厚く、舟底に拳で叩くように当たってくる。
アリアが舳先に立って周囲を見張り、ミラは船べりに香を吊るし、セレナは帆柱に符の風除けを結んだ。
マエラが唄う。潮の歌は短い二拍、長い一息、また短い二拍――さきほど灯台で聞いた笛と似ているが、彼女の声はより深く、腹で鳴っていた。
縁石に着くと、灯座の一つが砕け、黒い煤が縁にこびりついていた。
近づいた瞬間、胸の祠が強く軋む。
――符の臭い。乾いた紙の焦げ。
誰かが“逆拍符”を縁石に打ち込んで、灯を殺したのだ。
「導水ギルド……?」
ミラが眉を吊り上げる。
「似てるが、違う」
セレナが煤を舌で軽く湿らせ、顔をしかめた。「“潮会”。海の商人組合。導水と手を組んでる噂はあったけど――」
縁石の割れ目に、細い貝片が挟まっていた。
それは古い貝文字。
〈器は縁によって器となる〉
指で触れると、かすかな拍が伝わる。忘れられ、薄れて、なお残っている昔の唄の芯だ。
「戻せるかい、等流師」
マエラが息を詰めて問う。
「戻す。けど、港の内側も“受け皿”にしなきゃ溢れる」
俺は掌を縁石に当て、祠を開いた。
溢れの律は滞りのときよりも“軽く速い”。器の縁を失った水は、どこへでも走りたがる――子どもの駆け足のように。
叱って止めるのではなく、遊びの“輪”を作る。走って戻れる輪。
「マエラ。輪の唄を、覚えてる範囲でいい。俺が拍を受ける」
娘は目を閉じ、低く始める。
――うねり、返し、撫で、返す。
声の輪が、海面に薄い白い線を描いた。
アリアの指が緩み、弦がきゅ、と潮をなぞる。ミラの香が呼吸を揃え、セレナの符が灯座に“縁”の印を繕う。
祠の奥で、子どもの足音みたいな水が、輪の内側に“遊び場”を見つけた。
縁石の割れ目がひとつ、またひとつ、金継ぎのような拍で繋がっていく。
そこへ、横殴りの風。
黒い帆影が背後に現れた。
海藻で編んだ外套の一団――潮会の私兵が、無言で手を広げる。
投げ縄の先に結ばれたのは、貝殻に刻まれた“逆拍符”。
ひとつでも縁石に届けば、また縁が壊される。
「させない!」
アリアの矢が唸り、縄を空で断つ。
ミラが船べりに隠していた小瓶を投げ、海面に触れた瞬間、冷たい泡が立って逆拍の符だけを包み込む。
「塩泡止め。……潮だけに効く薬!」
潮会の男が歯噛みし、丸太のような腕で櫂を振り下ろしてきた。
セレナが帆柱の符を弾き、風向きをひと呼吸だけ曲げる。
敵船の櫂が空を切り、波の上で体勢を崩した。
「マエラ、続けて!」
「うん!」
輪の唄に、灯の芯が青白く点る。
俺は祠に“遊び場”をもうひと間広げ、溢れの律を“戻れる道筋”へ誘導した。
縁石の灯列が一つ、また一つと生き返り、沖の黒が、星座のように点の連なりへ変わる。
◇器の内側
港へ戻ると、石段の下で波が“迷う”のがわかった。
往きたい。けれど、戻れる。
ならば――戻る。
灯台守が芯に火を足し、高い白が夜空に注ぎ上がる。
マエラの唄が町の段々へ伝わり、物干し竿の間、瓦屋根の上、子どもたちの足踏みへ変わる。
器の内側に、町ごとの小さな“輪”が生まれていった。
「受け皿、できた」
セレナが石板の線に小さな〇を重ねる。「拍、安定域」
胸の祠も、心地よい重みで満ちた。
走り回って笑って、疲れて水を飲みに戻る子。
――溢れの律は、叱るものじゃない。帰ってこられる場所を示すもの。
灯台守が杖をついて階段を上がり、短く笑った。
「よくやった。……“潮の輪”を見たのは何十年ぶりだろうね」
マエラは喉を押さえ、掠れ声で囁いた。
「まだ、沖が騒いでる。――深いところで、誰かが唄ってる」
女神の声が遠くで鈴のように鳴る。
『器の縁は仮初。深みには“溢れの心臓”が横たわる』
俺は灯の連なりのさらに外、黒の奥を見た。
波に、低い合唱のような“他所の拍”が混じっている。
潮会だけの仕業ではない。もっと古い、もっと長い唄。
海が自分にかけた“呪”かもしれない。
◇潮の底へ
翌朝、港の上段は晴れ渡り、下段はぬかるみを残しながらも静かだった。
灯台守は、錆びた金具に海草を巻いた古い鉤を差し出す。
「海中の“縁戸”を開け閉めする鍵だ。昔、等流師がいた頃はこれで深みを撫でたらしい。もう誰も使い方を知らないけどね」
握ると、冷たい拍が掌に吸い込まれた。
縁戸――海中にある見えない“縁”。それが開きっぱなしなら、器はいつか忘れられる。
「潜るの?」
ミラの声が震える。
「潜る」
俺は頷いた。「ただし一人じゃない。三人の拍を“繋ぎ紐”にして」
アリアは尾を高く揺らし、胸に拳を当てた。
「紐、絶対離さない」
セレナは石板を濡れ布で包み、短く言う。
「海の中でも術は繋げる。呼吸はこの“潮管”で二十拍ぶん」
マエラが貝笛を渡してくれた。
「言葉が届かなくても、唄は届く。……帰ってきて」
波が寄せて、引く。
胸の祠に、薄い潮が満ち、内壁に小さな泡が弾けた。
溢れの律――器を忘れる唄。
ならば、器の名前をもう一度、唱えに行く。
◇青い底
水は最初、刃のように冷たかったが、やがて体の周りに柔らかい膜をつくった。ミラの調合した“塩皮”が効いている。
アリアの紐が腰に強く、優しく触れる。セレナの拍が耳の奥で一定の灯を保つ。
深く潜るにつれ、灯台の白は薄れ、灯列は藍に沈み、やがて下から光がさした。
――光の輪。
海底に、巨大な円盤のような石。そこに刻まれた無数の小さな“縁戸”。
ところどころ開いて、そこから“笑いながら逃げる”みたいな水が噴き出している。
(ここが……溢れの心臓のひとつ)
鍵を掲げ、最も大きく口を開けている縁戸に触れる。
――拍が逆流してくる。
忘却の拍。帰り道のない笑い。
胸の祠が痛む。だが逃げない。
鍵を回すのではない。鍵で“輪郭”を撫でる。
器の名前を、撫でて思い出させる。
遠くで、別の唄が重なった。
マエラの声だ。水の中なのに、確かに届く。
薄く、澄んで、背中を押す。
祠の内側で、子どもたちの足音が輪の中へ戻ってきた。
縁戸が一枚、静かに閉じる。
泡が輪になり、輪が沈み、拍が“戻り場”を思い出す。
隣の縁戸へ、また隣へ――輪唱のように。
そこへ、海の底から黒い影。
鱗を持たない、大きな口。
――空ろ。
海自身がえぐり取った“空白”だ。
それは縁戸を片端からこじ開けようと、笑いながら突進してきた。
(器なんていらない、って顔だ)
鍵を握り直す。
祠に“空白の置き場”を作る。
否定しない。空白でいたかったのだと、いったんは認める。
でも――帰る場所も、欲しいはずだ。
「戻れ」
泡の輪が空白の喉にかかり、輪はやがて“内側から”縁を描いた。
空白は、輪の内側に小さな海庭を持つ。
そこへ、灯台からの白が細く降りてきた。
アリアの紐が引き締まり、セレナの拍が合図を打つ。
縁戸は静かに閉じ、最後の噴き出しが深みに戻る。
◇潮の宴
水面に顔を出すと、港は拍手の音で満ちていた。
灯列は朝の青に白く瞬き、石段には人が並び、唄の輪が幾重にも重なっている。
マエラの声が高く、遠くへ伸び、灯台守は杖を振って笑っていた。
港は器に戻った。
溢れたい水は、溢れられる“遊び場”を見つけ、そのうえで帰る道を思い出した。
「ばんざい!」
子どもが裸足で石段を駆け降り、波打ち際で足を打ち鳴らす。
ミラが肩で息をしながら俺の背をぽんと叩いた。
「塩皮、効いたね。……でも、心臓が止まりそうだった」
アリアは濡れた耳をぶるぶる振り、笑う。
「紐、離さなかったよ。世界一、強い紐!」
セレナは石板の水滴を拭ってから、まっすぐ俺を見る。
「“器の名を撫でる”――記録しておくわ。等流師の技として」
胸の祠は静かだった。
空白の置き場に、小さな貝殻のようなものが一つ転がっている。
それは音を持たない。だが、耳を近づけると、自分の呼吸が聞こえた。
夜。港は焚き火と灯で賑わい、唄は輪を描き、杯は静かに満ちては空になった。
灯台守が最後の火を灯し、マエラが隣で囁く。
「海は、忘れても思い出すんだね」
「人がいて、輪があれば」
俺は答えた。「そして――器の名を呼び続ければ」
女神の声は、その夜は降りなかった。
けれど、潮の口笛が何度も同じところで高くなり、低くなり、やがて眠る子の息に重なった。
拍は続く。
海の次は、どこが呼ぶのか。
胸の祠に、小さな灯をひとつ足しながら、俺は星の動きを数えた。
(つづく)