第10話「胸の祠、赦しの刃」
◇不穏の兆し
三日目の朝。
泉の水位は安定し、湿原の流れも夜を越えて巡り続けていた。
等流の拍は揃っている。だが俺の胸の奥は、まだ硬い塊を抱えていた。
――カイル。追放の朝に見せたあの笑み。折れた剣の音。制裁旗の赤。
セレナは石板を掲げ、査察官に数値を示していた。
「王都側への供給は六割強、里側の水位は偏差内。等流は成立しています」
査察官は重く頷いた。だが書記官は扇をひらき、薄く笑う。
「数字は数字。……だが、“人”はまだ示していない」
そのとき。
柵の向こうで、紫の砂煙。
旗が揺れ、黒い鎧の一団が現れた。
先頭には、見慣れた背。
――カイル。
◇再会
「よぉ、レオン。相変わらず泥臭いな」
軽薄な声。だが刃のように鋭い響きが潜んでいる。
「何をしに来た」
俺は泉の前に立つ。
「簡単だ。お前の“結び目”を試しに来た。……いや、女神に試させられたのかもな」
カイルは肩をすくめ、断脈刃の残骸を見せた。折れた黒鉄を新しい柄に差し替え、応急で使えるようにしている。
「俺は折れても繋ぎ直す。……それが俺のやり方だ」
「繋ぐのはいい。だが、お前は奪って繋ぐ。巡らせるんじゃない」
「理想論だ。力で奪った方が速い」
兵たちがざわめき、里人が武器を構える。
アリアが矢を番え、ミラが香袋を握り、セレナは杖を上げた。
俺は掌を泉に沈める。――水面が応える。
◇刃と掌
カイルが飛び込んだ。
黒い刃が空を裂き、俺の胸を狙う。
俺は掌を翳し、拍を刻む。
渦。繋ぎ。巡り。
刃が触れた瞬間、流れが包み、衝撃は泉へ吸い込まれる。
「またそれか!」
カイルの怒声。
「折れないことが強さじゃない!」
「違う。折れても“置き場”を作れば、また巡る」
俺は低く言い放つ。「お前も祀れる。俺の胸の祠に」
「……ふざけるな!」
刃がさらに鋭く振り下ろされる。
アリアの矢が線を逸らし、ミラの粉が呼吸を鈍らせ、セレナの雷が刃を焼く。
俺はその隙に掌を彼の肩へ――
「戻れ」
結び目を、胸ごと掴んで祠へと押し込む。
怒りも憎しみも、全て祀り、鎮める。
◇赦し
光が弾けた。
泉の水面が強く揺れ、女神の声が降りてくる。
『――均しの律、解かれたり。汝は置き場を得た。巡りは戻る』
カイルの膝が崩れ、刃が砂に落ちた。
彼は荒い息をつき、俺を見上げる。
「……なぜ折らない。なぜ、赦す」
「赦したわけじゃない。祀っただけだ。俺の中の祠に。……お前を、俺の巡りから外さないために」
カイルは目を閉じ、乾いた笑いを洩らした。
「馬鹿だな。……だが、負けだ」
黒外套の兵は散り、旗は倒れた。
泉の水は澄み、湿原の流れと一つになって響く。
◇等流の宣言
セレナが石板を高く掲げる。
「等流成立! 王都への供給六割、里の水位安定、均しの律の承認済み!」
査察官は深く頭を下げた。
書記官は扇を落とし、震える手で拾い上げた。
アリアは矢を収め、ミラは泣き笑いで俺の手を包んだ。
俺は泉の前に立ち、胸の奥の祠に手を当てる。
「水は巡る。人も巡る。奪うのではなく、祀って繋ぐ。――これが俺の等流だ」
女神の声が静かに答えた。
『汝は村人にして、世界の巡りを耕す者。――新たな肩書きを授けよう。“等流師”』
風が吹き抜け、旗を倒し、泉を照らした。
胸の奥は、もう硬くなかった。
巡りの音が、確かにそこにあった。
(つづく)