六 須弥山
燈泰四十八年 4月5日
ここから満賢まで4月30日 噂の鬼 の前日談になります。
世界の中央に位置すると伝えられる須弥山。その天地を貫くその威容は、天を支える柱のようでもある。
その須弥山中腹から分岐し屹立する四つの山がある。合わせて四門山と呼ばれる四つの山は、筆を立てて束ねたように須弥山を取り巻き、その四方を守っていた。
四門山の北岳。水晶山は山頂から縦に割って、半分を削り取ったと言われるように、巨大な椅子のような姿をしている。座面に当たる台地は蓮台と呼ばれ、小さな国に相当するほど広大な蓮台の中には、さらに大小様々な山野があり、さながら水晶山自体が雲海に浮かぶ巨大な島のような様相を呈していた。
水晶山の背もたれになる岸壁に、へばりつくように天敬城はあった。城は大小合わせて数十の宮と堂からなり、急峻な崖や、滝の抉った亀裂、山の窪みや小さな峰に点在する建物を、岸壁から張り出す渡り廊下や回廊が、縦横に張り巡らされ形作られている。
天地開闢と共に出現したと伝えられる建物群は、五百尋(約900m)とも言われる高低差があり、中には梯子のような階段でしか行けない堂や、樹々の根に潰された隧道などもあり、その全容は未だ知られていない。
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五百尋の頂点にある玄冬宮からさらに百尋上、ちょうど山頂と天敬城最下層の庭の中腹にあたる岩の窪みに、三人は座っていた。
広大な蓮台と、遠くに霞む須弥山を眺められるよう、秋穂は持参した絵図を前に掲げた。
「世界の中央に須弥山がある。その四方を守るのが四門山。北の水晶山、東の紅玉山、南の瑠璃山、西の白銀山。四門山と須弥山の間を海と呼んで、それぞれ黒海、青海、紅海、白海と名前がついている。」
秋穂が広げた絵図の上をなぞる。
「海と言っても水はない。便宜的に山と山の中空をそう呼んでいるだけだ。ここから須弥山のことを黄海、または黄泉と表記している文書もある。
須弥山を天ノ常立ノ柱とするものもある。」
絵図には峻厳な山と、雲が描かれていて、小さく説明の文字が書いてある。その文字を、渚は必死に追いかけた。
「現世と呼ぶ世界と山の上は雲海によって区切られている。人の住む下界から雲海を越えることを昇山という。下界の住民は、生きているうちに山を登っても、ここまでは辿りつかないようになっているんだ。
ーー文字、わかるか?」
難しい顔をして達筆な地図の文字を睨んでいた渚に、清が隣から指で文字を示してやる。
こういった名称や地理は、生まれてから大人たちの会話を聞くうちになんとなく知っていく常識のようなものだ。一から勉強しようと思うと、地名も地形もその階層も複雑で難しい。
もう少しゆっくりやってやれ、と無言で目を向けると、渚の書き取りを見ていた秋穂は軽く咳払いした。
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秋穂が渚を拾ったのは、三月の頭の頃だ。
「ーー早咲きの桜があるな、と見ていたらその下に落ちてたんだ。」
宝賢老師に折檻房に放り込まれていた秋穂は、同室のよしみで見舞った清にそう言った。
曰く、桜の下の茂みに落ちていた子供を見つけてしまった秋穂は、見捨てておくことができずに拾い上げ、手当てついでに親を探そうとしてやった。
だが、子供の様子がどうもおかしい。質してみれば、己の名前も知らなければ、親もいないらしい。どうしてこの場所にいたかと問えば、怯えたような顔をするばかりで埒が開かない。
困り果てたところに、大将たちが来たという。
ーー子供は〈脱獄の鬼〉だという。
冥府の裁定を逃れ、地獄からこちらへ逃げてきた大罪人。
処罰のため蓮台の外れから連れてきていたのが、さらに逃走したため大将直々に捕らえに来たのだが、それに秋穂は反発した。
「情がうつった?」
半ば呆れて訊いた清に、秋穂は不貞腐れた顔を顰めた。
「大将たちがさっさと来ていれば、俺だって黙って引き渡したさ。ーーだけどその前に、あいつに名前をつけちまったんだ。」
ありゃりゃ、と清は苦笑しつつも、友の浅慮に頭が痛む気がした。
名は一番短い呪だと言われる。
修羅道以上の生き物は、少なくとも二度生まれ、二度死ぬと言われる。一度目は生命的な生死、二度目は名を授けられた時、または自覚した時、そして、名が忘れ去られた時だ。
名はその者を縛り形を与える力がある。
実際には、名字帯刀する身分でない限り、呼び名などいくらでも変えられるし、そこに個別の意味も、呪力もほとんど持たない。だから秋穂も、明らかに下賎身分の迷子に、さしあたっての名を与えただけに過ぎないのだが、それは名付けた側と、名付けられた側、双方の気持ちの持ちようで重要さが変わってしまう。
秋穂は普段の不真面目な言動とは裏腹に、情の深い男だ。名付けた手前、責任を感じたに違いない。
「……それで、玄冬宮まで追いかけて大将たちと喧嘩したと。」
名を与えるなんて、お前みたいな性格の奴が安易にやっちゃならんだろう、と呆れた清に秋穂は拗ねたように頬杖をついて、格子窓の外に目をやった。
「ーーあいつ、今どうなってる?」
恐る恐る尋ねた秋穂に、清はため息まじりに答えた。
「生きてるよ。騒ぎを聞きつけた北天様が大将たちを召集して、恩赦の命が出たって噂がある。今はどこかに幽閉されいるんじゃないかな。」
その知らせに喜ぶより先に、驚愕した秋穂の様子に、清はもう一つ、荒唐無稽な噂を思い出した。
「なあ、その脱獄の鬼が、無比大将に勝ったって嘘みたいな話があるんだけど……」
「本当だ。」
「……冗談。」
「大将の腕、吹っ飛ばしたんだ。鬼器を隠し持っててさ。それで、恩赦ってどういうことだ?」
秋穂の真剣な声音に、清は二の句が継げなくなった。
到底信じられない話だ。無比力夜叉大将は北軍最強の武人の称号である。それが一介の鬼に腕を刎ねられるなど、前代未聞の珍事だ。
混乱していたんじゃないか、と言おうとした清は、秋穂の顔を見て口を閉じた。
脱獄の鬼など、滅多に現れないため、憎しみや敵意は正直湧いてはこない。だが、それが大罪人の別名であることは、五山に住まう者なら誰でも知っている。
だが、秋穂はそれでもその鬼の子のために、おっかない大将たちに反抗したのだ。それが行き摩りに抱いた情であっても、ここに放り込まれてもなお、心をかけて心配してやれる。そんな友の莫迦だが優しい心根に、清は疑いを持って応答したくなかった。
清は一つ咳払いして話題を変えた。
「それでその子、名前、なんていうの?」
口元を覆うようにして、考え込こんでいた秋穂は、夢から覚めたように顔を上げた。
「ーー渚。」
「それ、男? 女?」
音では区別がつかず、首を傾げた清を見て、しばし考えたのち、秋穂はみるみる青い顔になった。
「……多分、男。……じゃないかも?」
「はぁ!? お前、そんなことも知らないのに、名付けの親になったのか?」
前言撤回。この友は優しいが大莫迦者だ。ーー本当に、よく知りもしない子供のために、無謀なことをしたものだ。
*
三月も中旬、寮に戻った秋穂に宝賢老師から沙汰があった。
ーー鬼を北院で預かることが決定した。その世話役をせよ。
それは世話役という名で秋穂に課せられた罰であり、件の鬼の子にとっては北軍の元による監視を意味した。
翌日連れてこられた鬼の子は、確かに男か女かわからない、痩せた小さな子だった。
見かけの頃は十くらい。黒い髪はひどく痛み、短くざん切りになっていて、細い首が寒々しいほど剥き出しになっている。
支給されたらしい萌黄の着物と、紺の袴はしわ一つなくピンとはっているのに、その中に収まる子供は、合わない着物の中でおろおろと泳いでいるように不安げだ。おどおどと大人たちに怯え、顔を伏せた姿は、晴れ着を着せられた浮浪児を思わせる異質さがあった。
脱獄の大罪人で、北天の恩赦によって北院に預かられることになった、下賎の鬼。
その日の渚の姿は、噂通りの異質さで皆に了解された。
だが、その一方で北院中で広がっていた物騒な方の噂とはかけ離れた、痩せっぽちの小さな姿に、浮き足立っていた北院は一応の落ち着きを取り戻した。
世話役と指名された秋穂と共にいれば、自然と渚と話す機会も多い。
初めて言葉を交わした時、清は不安に揺れる大きな瞳に、しばし気を取られた。
その黒い瞳には、よるべの無い不安の中、大勢の大人や年長の少年たちの敵意ある視線に晒されてもなお、立ち続けようとする芯の強さと同時に、本当にこの子は何も知らないままここに連れてこられたのだ、と思わずにいられない無垢な困惑が映っていた。
鬼のほとんどは、彼岸から此岸へ渡る時に記憶をなくすという。あの世とこの世の境を越えるのは、それほど尋常でないことであるのだ。
鬼は彼岸からこちらへ輪廻を経ずに生まれ直した者を指す。
ならば、大罪を犯したのは、鬼として生まれ直したこの子なのだろうか……。
清はふと、秋穂が危険を冒してもこの子を庇わずにいられなかった理由が、わかるような気がした。
*
渚は物々しい噂の人物には思えないほど、気の小さいおとなしい娘だった。それまで全く野良で生きていたのか、読み書きから教えねばならず、世話役の秋穂は疲れ果ててはいるが、教えたことを素直に吸収する純粋さがある。
今は噂が尾を引き目立っているが、そのうち馴染むだろうと清は思っている。
それより問題は、渚に責任を感じているらしい秋穂が、常に気を張っていることだ。
それが渚を守ろうという親心なのだとしても、同輩たちの言動や視線に苛立つ秋穂に、渚が萎縮しているのがいたたまれない。
そもそも、素行が悪く常日頃からサボり癖のあった秋穂が、渚の世話役として勉強を教えているという状況が奇妙であり、諸々の噂と合わさって二人が悪目立ちしているのだ。
秋穂が肩の力を抜けば、ただの噂など瞬く間に忘れ去られるだろうに、と清は文字を睨む二人を横目に思っていた。