二 噂の鬼-2
燈泰四十八年 4月30日
竹刀の打ち合う音を聞きながら、益荒は太い眉を寄せていた。
その目が追うのは小さな童、そしていけ好かない天狗の次男坊だ。
「あの渚って鬼、すごいな。」
隣で呟く同輩の声に、暗に含まれている秋穂への賞賛に、益荒の大きく吊り上がった目が険しく細められた。
*
北院では午前に座学、午後に修練があてられる。
修練の道場に件の小娘が現れたのは、桜もすっかり散り、山も初夏の色に変わった十日前の午のことだった。
数少ない女学生にも、武術の修練はあり、主に薙刀や弓を、男と日を分けて教わっている。
だが、この日渚が姿を見せたのは男子の剣術稽古の場だった。
「北天の許しは得ている。この者にはこれより全ての武芸の稽古をつける。」
師匠の説明はそれだけで、突然加わった女に動揺する男どもをよそに、そのまま稽古は始まった。
女が稽古するのか?
という全員の視線は、渚と一緒に入ってきた秋穂の渋面と、困ったような清に向けられた。
歳の頃は十くらい。
雲海の上に暮らす生き物には、見た目の年齢と、実際の歳は一致しないのだが
痩せた身体と短く切り揃えられた髪からは、女の匂いは一分も感じない。
本当に、ほんのこどものようなその小娘は、見た目の年恰好十五歳前後の少年たちの
怪訝な敵意のある視線に晒されて萎縮したように秋穂の背後に隠れた。
世話役の秋穂が明らかに不満を表明していることで、かろうじて文句を言わずに稽古を始めた学生たちだったが、この日、稽古場に現れた左司命に色めきたった。
*
「なんで、あんな女の童が鬼器を持たせてもらうんだ?」
あからさまに舌打ちした益荒に、竹刀を振るっていた秋穂が横目に睨む。そこに、低い位置から秋穂の髪を掠めて渚の竹刀が振り下ろされた。
「でも、渚は筋がいいよ。始まった頃には基本の型すらわかっていなかったのに、型の半分はもう様になってきてる。それに、受けてる秋穂がそこまで手を抜いていないと思うぞ。」
「『でも』ってなんだ? 筋が良ければ鬼器を持たせていいのか?」
鬼器は神仙天部を斬れる武器。慎重に管理されるべき武具であるため、高価なだけでなく、購入には天格を有する先達の紹介状か、四門の官府、あるいは、凌雲山を預かる家の推薦状のような、身の証が必要になるため、そもそも所有する条件が厳しい物だ。
元服の祝いでもなければ手にすることも難しい鬼器を、北院入学当初から持つのは、妖魔に通じる力を封じる必要のある天狗のような異形のモノたちのうち、歴史と金のある深山家くらいだ。
酒好き、女好き、博打好き……天狗は、仏道に仕えるのにおよそ相応しくない者たちだ。そのくせ、山岳神に連なるおかげで地位と名誉だけは一流の深山天狗のことが益荒は嫌いだった。
当代頭首の破天荒な逸話に比して、次代の長男秋尾は、温和で徳高いというのはもっぱらの噂だ。人の性格に幅があるように、天狗だからと全ての者が不信心というわけではない。
型にはめて考えてはいけない、と思いつつも、次男坊の秋穂については、兄の徳の高さも父親の勇剛さも持ち合わせない上に、酒にも女にもだらしない怠け者、と天狗の悪癖を煮詰めたような印象しかなく、益荒の天狗嫌いに拍車をかけていた。
「でも、あの娘の物なのなら、仕方なくないか?」
隣で小鳥のように首を傾けた那智を無視して、益荒は秋穂を睨みつける。
益荒は女が剣術の稽古をすることに眉を顰めるような、古風な天神ではない。
地位と名誉のある、人で言う貴族身分であるだけで、貴重な鬼器を持つ天狗を嫌うのと同じように、卑賎の身分でありながら、己が篤く帰依する北天に目をかけられているらしい小娘が気に食わないのだ。
(なんであいつ、あんな顔して手加減してんだ。)
一緒に修練していれば、お互いの実力はおおよそ把握している。
剣術で言えば、同輩で一二を争うのは益荒と清十郎だ。それに少し間を開けて秋穂が続く。
だが、ほとんどの同輩は、秋穂が手を抜く癖があるのを知っている。どれほど優勢でも、どれほど劣勢でも、秋穂はまるで本気になるのを厭うように、ふらりと力を抜く。
勉学をさぼるのはなんとも思わないが、勝負の中で手を抜くという態度が、益荒にしては腹立たしくてたまらない。
武人の家に生まれ、武勇名高い北天の膝下で互いに競い合っているのに、その矜持はないのか! と勝敗はさておき気に食わない。
元々、天狗に良い印象のなかったのも手伝って、益荒はことあるごとに秋穂を目の敵にしてきた。
つまり、単純に秋穂が嫌いなのである。
なんとか本気にしてやろうと、殺す気で打ち合ったこともあるのだが、それも寸前でかわされて、手の内からするりと魚が逃げるように、気がつけば勝手に秋穂の方が負けているのだ。
そんな、とことん益荒の心を逆撫でする秋穂が、今、渚相手にほとんど本気で稽古をつけている。それも、手を抜きたいのに抜けない、と言わんばかりの悔し気な表情まで浮かべているのである。
渚と秋穂の稽古は、決まった型を互いに繰り返すもので、速さ強さよりは丁寧に、という打ち方をしている。
だがそれでも秋穂の緊張が伝わってくる。渚の方も秋穂の意を汲んでか、教えられた型を丁寧に繰り返す。どこか余裕を残した渚の動きにも、益荒は苛立った。
(童、お前も本気で打てよ。その天狗をひっくり返すくらいに!)
再び益荒が舌打ちしたところで、渚と秋穂の稽古が終わって、蹲踞、礼をして道場の壁際に並んだ学生たち、清の近くに戻っていく。
軽く息を上げて汗を拭う秋穂の後ろ姿を、目で追っていた益荒の前を隠すように、次の稽古が始まった。
* *
道場の外が騒然となったのは、それから四半刻(三十分)も立たない頃だった。
最初に動いたのは空気、次に鳥が慌ただしく飛び立つ気配がした。
それに気がついた数名の学生は、すぐ一段下の岩場に雷が落ちたような、音のない圧を感じとってちらほらと顔を上げた。
唐突にけたたましく重い音を立てて、廊下を渡ってくる足音が迫ってきて、空気を震わすような大音声が道場に響いた。
「おい! 件の鬼がいるのはここか!?」
ギョッとして顔を上げた学生たちの顔が、一斉に戸口の大男に向けられた。