八 満賢-2
燈泰四十八年 4月19日
書庫は屋根裏まで一体の、大きな蔵になっていて、書架は見上げるほど高い。上部の格子窓からの明かりが、書架の上段を淡く茜に染めていた。
ちらちらと埃が光る書架を見上げていた渚は、湿ったカビと、古い紙と墨の匂いを大きく吸い込んだ。
「カビ臭いでしょ?」
見上げれば、梯子を降りてきた清が笑みを浮かべている。成り行きで手伝うことになった渚は、清に次の経巻を渡しながら首を振った。
「偉い人たちの匂いがする。こんな匂いのする場所初めて入った。」
書架を見上げた渚を、清は気づかれないよう梯子の上からそっと見下ろした。
渚は冥府から抜け出してきた、死者の霊だ。本来は理によって分たれている彼岸と此岸の境を越えた霊は、鬼の肉体を纏ってこちらにやってくる。
輪廻を経ず理を犯すせいか、それとも此岸に渡る時に、別の理が働くのか、こちらに渡ってきた時点で鬼たちは前世の記憶を失っていることが多い。例外的に、強い怨念だけを持ち越してやって来る鬼はいたが、そういった鬼は人であった頃より強い霊力を持つ。
秋穂も清も、渚のことをそういった鬼の典型にはめて、渚は前世の記憶のない、まっさらな子供のように考えていた。
(渚は、少しは記憶が残っているのだろうか?)
初めて会った頃話した印象では、本当に生まれたばかりというくらい、何も知らないようだった。前世から持ち越したのは言葉くらいで、ここがどこか、己が何かも理解していないように思えた。
秋穂が面倒を見るまでの間に、拘束されて連れて来られたり、尋問されたり、と色々怖い思いをいたはずだが、どう言い含められたのか、今のところは素直に勉強に励んでいる。
清はヒナの刷り込みを思い浮かべて、複雑な気分になった。
おそらく彼岸から此岸まで戻ろうとするほどの強い意志が、前世の渚にはあったのだろう。だが、こちらに来て、全て忘れてしまった渚は、訳もわからず怖い目にあって、最初に保護してくれた秋穂を親のように信じている。
清がそう考えながら経巻を山に積んだ時、隣の書架の奥から、大きな物音がして、続いてばさばさと書物が床に落ちるような音が聞こえてきた。
駆けつけると、書庫奥で椅子と一緒に書物が雪崩を作っていて、その下に埋もれた人の手が見えた。
ぎょっとして、本と経巻の山をかき分けた秋穂と清は、出てきた人物に気がつくと、さっと手を引っ込めて一歩下がった。
「痛てて……。すまないな、深山、白河。」
首を摩りながら立ち上がった男は、居眠りでもしていたのか、大きなあくびをした。
身の丈六尺を越す偉丈夫だ。草臥れた袍は胡服に似て袖が短く、長すぎない髪を束ねて布で包んでいる。
「満賢大将、お疲れ様です。」
「うん、お疲れ。珍しいな、お前たちが書庫に来るなんて。」
そう言って満賢は、二人の背後で経巻を抱えている渚に目を止めると、なるほど、と片方の口端を上げる。
「老師の罰か。深山はいい友を持ったね。」
落とした本を拾い始めた清の隣で、腰に手を当てて伸びをする大きな背中を、秋穂は憮然と見返した。
「ーーそれで、その子供の指導は順調かい?」
誰も物音を立てなかった。その代わりに、その場の全員が一度に息を飲み、不自然に音が消えた。
「……順調ですよ。まだ手習程度ですが。」
固唾を飲んだ三人の様子に、満賢は半分まで振り向いてふっと息を漏らした。
「ならいい。しっかり教えてやるんだよ。成績が良い必要はないが、勉学を深めることはその者の深みに繋がるからね。ーーそう身構えずとも、ちょっとした世間話さ。北天が認めたものを、わざわざ目の敵にする必要もないだろう。」
「だといいのですが。」
秋穂は油断なく満賢を見上げる。
渚を蓮台の外れから捕えて来るよう命じたのは、紛れもなく目の前の男なのだ。そのせいで、渚は一度殺されかけている。
ーー理を犯した鬼という理由で。
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「すまないね。手伝ってもらって。」
「いえ、もう十冊も二十冊も同じですから。」
気持ちのいい笑みで清が答える。
すっかり暗くなった書庫の中庭で、中の明かりに照らされないように離れた位置に立って、渚と一緒に疲れた表情を浮かべていた秋穂は、こき使われた後でも、朗らかに応対できる清は、根っからのいい奴なんだよな、と思った。
こういう部分で、徳の違いが見える気がする。
話が終わったのか、清が満賢に一礼してやって来る。
やっと寮に帰れるな、と気を抜いたところで満賢が思い出したように声を張った。
「ああ、そうだ。応念がその子に興味を持っているらしい。出くわさないよう、十分気をつけてやっておくれ。」
え? と問い返した時には、満賢の姿はすでになかった。