七 満賢-1
燈泰四十八年 4月19日
麗らかな春の日和が続いている。春眠暁を覚えず、とはよく言ったもので、暖かな日差しを浴びていると、無性に昼寝が心地よく思えてくる。
そんなことを考えながら、つい先ほどまで、屋根の上で気持ちよくうたた寝をしていた秋穂は、ふてた顔で書庫に経巻を運んでいた。
「秋穂さ、つい最近あんなに怒られたばかりなんだから、もう少し自重したらどうだ?」
運悪く、宝賢老師に見つかりこっぴどく叱られている場所に居合わせた清も、秋穂の頭を越すほどうず高く積まれた経巻を、半分持ってやっている。
秋穂は唸ったが返事はしない。叱られた後の秋穂は、大抵こんなものだ。清は気にせず書庫への橋を渡る。
橋の向こうには短い隧道があり、そこを抜けると書庫に面した中庭に出る。
書庫は火伏せ、風伏せのためにか、樽のように岩山をくり抜いた巨大な竪穴の中にあって、中庭の空は岩壁に丸く縁取られている。
山水庭園風の中庭を、飛び石伝いに書庫に向かう。書庫は何棟かあり、一つ一つが大きな蔵のようになっている。経巻の間に挟んだ薄紙の番号を読み、目当ての書庫を探していた秋穂と清は途中で足を止めた。
「あいつ、何してんだ?」
中庭の苔山の上に、困ったように突っ立った渚が、行きたい書庫でも探しているのか、キョロキョロとあたりを見渡している。
「どうしたんだろ?」
清の問いに舌打ちした秋穂は、ため息を漏らす。
北院は水晶宮に属しているため、学生は政務の場である宮城の一部を自由に出入りできる。だが、山の中に点在する建物の数は膨大で、一つ一つが山をくり抜いた隧道や橋、石階段で繋がっただけのため、ほとんど迷路の様相を呈している。
水晶宮に上がる学生や新人官吏の中から、数年に一人か二人は行方不明者が出るという話まである。
渚をほったらかしにして、迷子になられると後が大変だ。
経巻をさっさと片付けて渚を回収しようと、書庫へ足を向けた秋穂の耳に、低い声が聞こえてきた。
「……あの子だろ? 無比大将と騒ぎになったっていう鬼は。」
「ああ、確かにそうかもな。あのみすぼらしい姿、野良の鬼には違いない。年恰好からして、噂の鬼の子じゃないか。」
「女で、あの脆弱な霊気。野良鬼のくせに、どうやって大将たちに取り入ったんだか。」
「応念大将のように、馬鹿に霊力がでかいというならわかるんだがな。」
「まあ、無比大将ほどじゃなければ、戦場に立っても役には立たんだろうが。」
清が声の主を見れば、書庫の戸口に立った先達の院生である。
北院は基本的な礼儀作法から歴史文学のような教養も教えるが、その実、北天に仕える北軍の武人を養育することを第一とする教育機関だ。
そのため元々、女子の数は少ない。その上、学生のほとんどが北天に帰依する、それなりの家格の家の子息たちだ。
家の威信や優越感を、北天に仕える矜持と混同した者にとっては、家柄や後ろ盾もなく、まして戦場に立つこともない女の渚は、嫌でも目につくものだった。
(そりゃ、気持ちはわかるけど……)
天部の一存で斬られても、文句の言えない身分である渚に対し、立派な家の子弟が、やっかみなのか僻みなのか、そんな噂をコソコソすることに、清はなんともやるせない気分になって息を吐いた。
その時、清の腕に経巻がどっと載せられた。
*
「おーい、渚。そこで何やってるんだ?」
渚の肩がびくりと跳ねる。
「秋穂……」
ずんずんと大股で歩み寄った秋穂は、渚の困惑をよそに、親しげに肩に腕を回す。
「ったく、勝手にうろつくなよ。迷子になっても知らないぞ。」
秋穂の生家である深山家は、最も格の高い山神の一つに数えられる大天狗の家柄だ。本来、天部に属する天人神仙、霊獣の位は、それぞれの能力によって評価されるべきなのだが、育ちのいい学生ほど世俗の家格を気にするものだ。
案の定、秋穂の姿を認めた先達は、いそいそと書庫の中に引っ込んだ。
家が高名なせいで、北院で秋穂の知名度は高い。その上、最近では大将達に逆らって噂の鬼の世話役にされたとの話が広まったせいで、一方的に顔が広くなってしまっている。
虎の威を借りた自分も、さっさと尻尾を巻いて逃げた先達たちも、なんともいえず情けない。やれやれと肩を落とした秋穂は、渚の肩を放した。
「んで、何してんの?」
「え? ええっと、この続きが知りたくて……」
渚が持っているのは、秋穂が手習で持ってきた物語絵巻だった。
「もう、写し終わったのか?」
「うん。面白かった、から……」
恥じらうように俯いて言った渚を、秋穂は目を見開いて見返す。
渚は文字の読み書きをほとんど知らなかったが、ちゃんと教えてやると、片っ端から丸呑みするようなすごい集中力で文字を覚えていた。初めは基本を覚えるのだけでも精一杯だったのに、すでに自力で簡単な物語は理解でき始めている。
(こいつは、思っていたよりずっと賢いかも……)
渚を見下ろし固まった秋穂に、山ほどの経巻の向こうから声が聞こえた。
「なー。重いんだけど。」