49 普通
「ヴィクトア様……ヘレーネよ。体調がすぐれないとお聞きしたのだけれど」
恐る恐る伺うようにして入ってきたのは兄の結婚相手であるヘレーネだ。彼女は優しげな雰囲気を纏っていて、手には小さなバスケットを抱えている。
そこにはナイフと果物が入っていて、ソファーで項垂れているヴィクトアの元へとやってきた。
……こうして自分の都合で休むことなんて無かったからそれだけで、体調不良だと判断されたのかな……。
勘違いをしてやってきたヘレーネに、大丈夫だと言うためにヴィクトアは顔をあげた。
彼女とはさして仲が良いというわけではないし、フロレンツィアの侍女として働いていた彼女に、兄たちとのやり取りの為に仲介に立ってもらっていただけだった。
なのでそれなりに、顔を合わせてはいるが深い仲ということもない。
強いて言うならばヘレーネのほうが何かとヴィクトアのことに気づかってくれている。
それも、以前は円滑に仕事を進めるためにそうしているのかと思っていたが、こうして王太子妃になっても態度を変えるつもりはないらしい。
「あら? 軽食も用意してあるし起き上がれるのね、わたくしはヴィクトア様の様な方が休むのだからそれは酷い状態なのだと思ったのだけれど」
「ああ、いいえ……ええと、すみません。今日は、ただの……」
首をかしげて彼女は言って、ヴィクトアはその言葉に後ろめたさを感じる。
やっぱり傍から見てもそう思うのが自然で、レナーテが望む状態よりも酷くかけ離れているのだと思った。
しかし、それが現実だ。体調が悪くもないなら休む必要もなく、プライベートなことに使っている時間などない。
それがヴィクトアの当たり前。
「悩み事があって手につかないというか、自分の立場はわかっているんだよ。俺はそれをまったく今まで疑問に思っていなかったし、今だってきっと言われなかったらこれからもずっとそう思わなかっただろうし」
「……」
「でも、それよりも優先したいと思うものができてしまったことは自分でも驚いていてそれを決して、無視したくないんだ。それで多くの人が迷惑をこうむって今までの自分の努力なんて意味がなかったと認めることになることだとしても、俺は━━━━」
頭の中で考えていたことを言い訳のように口にすると、どうにも止まらずに吐き出してしまう。
喋り過ぎてしまうのは自分の良くないところだろう。それでレナーテを困らせてしまうことがよくある。
それがまだ彼女だからいいが、こんなことを突然言われて、ヘレーネはどう思うだろうか。
結婚相手の弟だからと義理でこうして見舞いに来たというのに、突然仕事や立場に対する不満を聞かされて気分を害するのではないか。
そう考えてすぐに黙って顔をあげないまま彼女をちらりと視線だけで見上げた。
するとヘレーネはキョトンとしていて、とりあえず歩いて、ヴィクトアの向かいに腰を下ろし手を拭いて、手慰みのように果実を取ってするすると剥いていく。
慣れた手つきで果実がその身をむき出しにしていく様子をヴィクトアが眺めているとふと目が合った。
「…………優先したいことというのは……もしかしてレナーテ様との生活?」
ヘレーネは大袈裟に反応するでも、突然の感情の吐露に距離を取るわけでもなくヴィクトアに問いかけた。
当たり前のように返された言葉に、ヴィクトアはどうしてわかったのかと意外な気持ちになって返す。
「うん。……急に悪いね。それほど仲がいいというわけでもないのに」
「いいのよ。わたくし…………ベルンハルト様に言われて気にしないようにしていたけれどあなたのことを少し心配していたから」
「え……あ、心配?」
「ええ、いくら慣れていたって、公務は大変なことだわ。それにいい人ばかりではなくて疲れるでしょうし」
気遣うように言う彼女の言葉には説得力があった。
以前はフロレンツィアの侍女としてきっちりと勤めていた実績のある女性だ。彼女もそう思っていたというのは意外だったが、そのことがすんなりと受け入れられる。
「たしかに、疲れる。でもそれで嫌になるということはなくて、多分俺は向いているから」
「でも、今のままでは忙しすぎて、悩んでしまうほどなんでしょう? 誰でもあるわ、仕事と生活の配分に悩んで時には、自分や大切な人の想いを優先して行動するの……自然なことね」
ヴィクトアがそういうと彼女はニコリと笑って、よくあることみたいに頷いていった。
……自然なことなんだ。そうか彼女は自分の決められた立場から脱却して今は王太子妃になっている……。
「むしろ、わたくしは少しうれしいのよ。あなたにも、本当に大切に思う人がいて……機械のような人なんていない、王族もそれ以外の貴族も皆、なにかの為に頑張っている」
「……そうかな。俺もそう、皆と同じで……普通でいいかな」
「当たり前よ。でも、好きな物ばかりというわけにもいかないから、うまく配分を決めて、ずっと長く、遠くおばあちゃんになるまで楽しく暮らせるように仕事も生活も大切にしていかないとね」
ヘレーネは手早く果実を剥いて軽食の乗ったお皿に、剥き身を乗せていく。
バスケットに入っていた布巾で手を拭いて、パッパッと手を払ってから、良し、と切り替えた。
「それで、どう迷っているの? 旅行の日取り? それとも仕事とレナーテ様のどっちが大切かっていう話とかかしら」
そうして彼女は本格的にヴィクトアの相談に乗ろうと、そう切り出したらしかったが、それまでの言葉のすべてが答えだった。
極端じゃなくていい、人とかわわってそうして丁度いいを見つけていく。
レナーテも言っていたことだ。
なにもすべてをがらりと変えて、全部を彼女だけの為に使うことを望まれているわけではないだろう。
ヴィクトアに大切にしてほしいと彼女が言ったのは、レナーテのことではない。
ヴィクトア自身のことだ。
だから自分で考えて、彼女とどんなふうにそばにいてどういうふうにして行ったらいいか、考えて丁度良く、これからを歩んでいければいい。
……なんだ、そうだったんだね。
「っ、ありがとう、ヘレーネ様。もう大丈夫、分かったんだ」
「?」
「レナーテがそう望んでくれたように、頑張ろうと思う」
「……そう? 元気が出たのね」
「うん」
ヘレーネにはその理由が分かっていない様子だったが、彼女は元気が出たようで何よりだと言って、去っていった。
するとふと空腹に気が付いて、軽食と果実を平らげてヴィクトアはどうしたらいいのか、ではなく、彼女とのこれからの為に何ができるかと考えたのだった。




