48 愛情
ヴィクトアはボケッとしていた。
やるべきことはたくさんあるし、仕事はいくら処理しても終わりが見えず、いつだって願いを持った貴族たちが長蛇の列をなしてヴィクトアのことを待っている。
追われて、追われてここまでやってきた。
それが責務で使命で、宿命で生まれた意味だと思ってやってきた。
その追われる感覚こそがヴィクトアにとっての一番大きな感情で、それと戦っていくことこそが人生なのだろうとまで思っていた。
しかし、今思うと、そんなことはやけにちっぽけだった。
あんなものは二の次でいいのだろう。そう思うぐらい昨晩の出来事が衝撃的すぎて私室で何も手につかない。
そして案外、ヴィクトアの使用人たちは優しかった。ヴィクトアがそうしてなにもできそうもないと口にすると、さもありなんと納得して、彼らは仕事に向かった。
彼らだって休日を持っている。年中働いているヴィクトアがそれを求めたことを誰も責めない。
温かい紅茶を出して、軽食がローテーブルに置かれてそうしてヴィクトアは虚空を見つめていた。
頭の中で昨夜の出来事がまだ処理できない。
彼女はとっくに準備をして出ていったというのにヴィクトアだけがこの様だ。
……だって予想していなかった。
言い訳のようにそう思う。
まずレナーテは父や母と晩餐会をして……いや、きっとその前からだ、レナーテのすごみが増していったのは。
国のこれからの為に彼女にやってほしいことを言ったあたりからだ。
手を貸してほしい内容を話して、それで国は良くなる。兄の問題も片付いていつも通りの生活を送ることが出来る。
そう話したけれど、それをやるのはなぜかとヴィクトアに聞いた。どうしてヴィクトアがそれをレナーテに望むのかと問いかけた。
その答えをヴィクトアは見つけることが出来ずにいて、日に日に彼女のすごみは増していき、最終的に父と母との晩餐会で爆発した。
……怖かったな。なんだか戦争でも起こしそうなぐらい、怒っていて。
金の瞳はギラギラと怒りに燃えて、たまにふわりと炎の魔法が舞い散っていい花びらみたいだったことに彼女は気が付いていただろうか。
……誰か殺しにでも行くのかってぐらいで、半分ぐらい俺が殺されるのかと……。
なんせあの形相で近づいてきて体勢を崩されたのだからもう肉食獣に食べられる前のウサギのような気持ちで必死になって見上げていたのだ。
鼻先からがぶりと食らいつかれるかもしれないと思って、けれどその怒りを鎮める方法がわからなくてただ見上げることしか出来なくて怖かった。
でもレナーテの口から吐き出された言葉は、愛とか恋とかヴィクトアのことを好意的に想っている言葉で、その思いは情熱的というか激情に近い愛情だった。
それで愛しているから怒っているのだと言われて、ヴィクトアはやっとそんなにかと思った。
……そんなに、怒るほど俺はないがしろにされてたんだ。
そう思えば腑に落ちる、レナーテの言葉も行動も全部、わかるのだ。だってヴィクトア自身、今更レナーテのことを搾取しようとしていたバルトルトに腹がたつのだ。
奪って、使って、彼女のことなど少しも考えていない行動を取ろうとした婚約者。それをレナーテが許したってヴィクトアは今更もっと大きなペナルティを課せばよかったと思っている。
実際にはできなくともそう思うのだ、だからレナーテの感情が理解できた。
ただ、理解したとしてもだ。それはわかったけれどまさかあんなことをせずともよかっただろう。
……でもたしかにやってしまったからにはもうあとには引けない。後悔しているなんてレナーテに失礼過ぎる。それに実際、もう彼女のことしか頭にない。
「あー……」
思い出すと顔が熱くなってどうしようもなくなる。
髪を下ろしているところを初めてみたんだ。
案外、彼女の赤毛はコシがあってつややかで、でも絹糸のようにさわり心地が良くて、ドレスや制服を着ている時には想像がつかなかったけれど手足が細くて体が柔らかくて。
『あなたが大切よ。好きなのだもの。わかるでしょう』
『だからたくさんこうしていたい、もっと会いたい、あなたと星空も見たいし、学園街にも遊びに来てほしい、それから夜通し語らいましょうよ、ヴィクトア』
ささやくみたいな声で言われて、もちろんそのつもりだ、もちろんそれ以外などありえないと真っ先に思う。
だってこんなに大切にしてくれるのだから、ヴィクトアはレナーテの言う事のすべてを叶えたいしすべてが魅力的で、楽しみだ。
レナーテの小さな唇がヴィクトアの名前を呼ぶたびに、今までの自分はなんてつまらないことしか知らない中で生きてきたのだろうと思う。
こんなにうれしいことがこの世にあるのに、自分はまるで死んでいるも同然だった。
……でも、それなのに。……そう思うのに。
胸の奥がじくじく痛んで、血の気が引く。彼女はヴィクトアを導こうとしてくれている。
彼女と同じように自由に、自分の人生を生きて彼女のそばにいることを選べるように、ヴィクトアに変化を与えようとしてくれている。
それがきっと、彼女の望むことだ。環境を変えることは難しいし、アダルベルト公爵夫人の問題もある。
だからこそヴィクトアに示して、変わる機会をくれたのだ。
それはわかっている。そうしたいと思う。でもヴィクトアがそうして、今までしていた仕事や役目はどうなるだろうか。
兄のスペアで、特別な魔法をもって国の為に、それを放棄するわけには……。
そう思う。レナーテの元にいきたいのに、足元が深い泥沼に埋まっていて、身動きが取れない。
手を伸ばしたいのに、レナーテが与えてくれたものに応えたいのに。
呼吸が浅くなって、思考を巡らす、ドツボにはまってどうしようもなくなりそうだった。
しかし、ノックの音が響いて、ヴィクトアはあいても確認せずに入室の許可をしたのだった。




