47 二つ
ヴィクトアは表情を硬くしたけれども、それでもレナーテのお願いを断ることはなく、私室の奥へと進んでレナーテはヴィクトアの寝室へと入った。
そこも眠るためだけに用意されている客間の様で、所在無さげにレナーテの隣に立っているヴィクトアに何と声をかけようかと考えた。
しかし、今は何を言ってもレナーテの声は酷く不機嫌になってしまうだろうし、彼に優しく出来そうもないのだ。
腹の奥がぐつぐつと煮立っているようで、手が震える様な心地さえする。
高いヒールを履いた足を一歩引いて、レナーテはヴィクトアの方へと向いた。
部屋は間接照明だけで薄暗い、けれども不安そうな彼の眼だけは良く見える。
…………わたくしは、この人の願いを聞いたとき、それ以上に変えなければいけないものがあるだろうとすぐに思った。
彼の願いを何も解決しないし、もっと深くかかわってもっと根本的に、悪いことをしていない人が苦しまなくていいように、変わるべきだと思った。
それは多くの貴族や、わたくしの家族、アダルベルト公爵夫人に奪われた人々……そしてヴィクトア自身も、自分の行き先を選べて余裕があって自己否定なんかしなくていいようになったらいい。
なるべきだと思いましたわ。
そうして今まで同じように並べて、レナーテはこの問題を深く知った。
けれども、それは根深く、そして複雑で、何か画期的な一つの打開策ではすべてがうまくまとまることはない。
レナーテが協力をして王家の安泰を手助けしたとしても、ヴィクトアの状況は変わらないし、何なら、アダルベルト公爵夫人の提案をのむことによってそれは叶うのではないかと思う。
レナーテがヴィクトアを守って、自分の力を振りかざし賢く、身の回りの人だけが得をできるようにしたら、レナーテのこの憤りは収まるのだ。
「……」
「……レナーテ、ごめん。あのさ、あの場ではああいったけれど、俺の意見もきちんと言うべきだっていう君の言葉は忘れていないし、そうなる前には少し考えさせてほしいと思ってるよ」
「……ええ」
「……お、怒ってる?」
「……ええ」
きちんと考えて自分の言葉でレナーテに主張をしようとするヴィクトアだったが、レナーテはその言葉に答える余裕もなく同じ返事をした。
するとあんまりに強く睨みつけていたからだろうか彼は口をつぐんで視線をあちらこちらにやる。
けれども続けて考えた。
怒りはそうすれば収まる。もしかするとアダルベルト公爵夫人と渡り合ってよい方向に向かっていくことも可能かもしれない。
……だって、そう思ってしまうぐらい、この場所にはヴィクトアの味方がいないのだもの。そしてそれをヴィクトアはなんとも思っていないのだもの。
だからわからないなんて言うのだわ。だから、尊重されないことに憤ることがわからないのよ。
頭の中で言葉にしてやっと、にっちもさっちもいかない状況が苦しいのだと理解する。
王族のことをそうは思っても、結局のところアダルベルト公爵夫人のことを許すことなどできるはずもない。すり合わせてやっていこうなどということは現実的には不可能だ。
けれどもそれを切り捨てては、ヴィクトアの状況を変えることはなかなかに難しい。
彼は王家にとって保険だ。血を絶やさないために、ベルンハルトに何かあった時の為に常に縛られている。
だから、彼はそのために生まれてきたのだなんて言ったのだ。
そう教えられてきて、それでいいと思って来てそれ以外を知らないから、ヴィクトアはこうなのだ。
そんなヴィクトアを連れ出して縛りから解放して、自由にするだけの環境を変えることはレナーテ一人では難しい。
だからにっちもさっちもいかない。けれども今、レナーテはどうしようもなく腹が立っている。
腹が立って、苦しくて、でもだからこそ冷静に。
俯いてゆっくりと息を吐きだした。
頭は冷えない、腹の奥の怒りは消えない。でも答えは出ている。
「ヴィクトア」
「は、はいっ」
「…………」
想定していたことではない。でも、自覚した。
彼がどう思っていても、何も思っていなくて搾取されていることも、踏みにじられていることを知らなくても助けてほしいと手を伸ばさなくても。
それでも、レナーテはヴィクトアを愛している。
……好きなのよ、あなたが。だからどちらも選べない。同時にわたくしはわたくしの信念を曲げられないもの。
だからアダルベルト公爵夫人と手を組めない。けれども愛してしまっているから、彼の願いを呑んで今の状況を続けさせることだってできない。
こうでなければ、とっくに彼の願いを呑んでいただろう。
でも遅かったのだ。知って、手を取って、同じ景色を見たいと思って、愛おしく思った。
ならばレナーテは、彼のことに対して、彼を愛する者らしく、彼が幸福になることを望んで、彼に新しい価値観を教えなければならない。
それを知って彼が苦しむかもしれなくても、今までのことをつらく思うかもしれなくても、これから彼とずっと向き合っていくためにレナーテは教えたいのだ。
そうして問題を分ける。ヴィクトアのことと公爵夫人のことを二つにして答えを出すそれが合理的で両方を叶えることが出来る。レナーテの最も納得のいく手立てだ。
「わたくしは、あなたのこと酷く大切ですの」
「……そう、なんだ」
「ええ、だから、ものすごく怒っているのよ。だから苦しくて、っ悔しくて腹が立つ。あなたはこんなにわたくしの大切な人なのに」
「っ、えっと、レナーテ。一旦座ってお茶っ、でも」
彼はとりあえず思いついたことを言って、レナーテに距離を詰められて一歩二歩と下がる。
それから、一人がけのソファーにレナーテを導こうとした。
しかし振り返ったと同時に彼の足元を風の魔法で掬って同時に肩を押した。
するとボスンとソファーにヴィクトアは沈み込む。
「っ」
ローテーブルに置かれているランタンの明かりが視界に入って少し滲む。
口にするとらしくもなく、感情が高ぶって涙が浮かんでいることを自覚した。
「一番、あなたが大切ですの。誰よりも、何よりも、素直でもの知らずで、言いなりで、でも誠実で公平で、わたくしを想ってくれるあなたが、何より大事だわ!」
座面に膝を乗り上げて、ソファーの背もたれに手をついてレナーテは彼を真上からのぞき込むようにして言葉を吐き出した。
浴びせるように、愛の言葉を吐いた。
自分でもこんなに情熱的に想っているなんて知らなかった。しかし羞恥もなく、ヴィクトアの一心に見上げるその目をじっと見つめ返す。
恐れているようにも、困惑しているようにも見えるその目に語り掛けた。
「だからあなたが、ないがしろにされて、いいように使われて、誰にも大切にされていないことが知っていくごとにありありと分かって、憎くて、憎くて仕方がない。あなたがそれを自覚してないことも悔しくてたまらない!」
「…………っ、だから、怒ってるんだ」
「そうですわ。ヴィクトア」
振り絞ってさらにいうと、ヴィクトアはレナーテの頬に手を伸ばす。
男性らしい大きな手で温かくて、レナーテの目じりをゆっくりと拭う。
涙が伝って彼の手のひらに流れていった。
もっともっと言葉を尽くしたい、まだまだ言うべきことがあるのだ。
わかってほしいのだ、自分がどれほど苦しめられたか、誰にも愛されていないのか、そしてどれほど、愛されているのか。
分かってほしい、だからレナーテは彼にとても大切なものをあげるのだ。
それを愛の証なんて言うとなんだかロマンスに欠けるかもしれないけれど、言葉よりも伝わりやすいものはあるだろう。
「だから、わたくしはあなたにだけ、あげるのよ。大事なものも、思いやりも全部、一番に優先してあなただけにあげるのよ、ヴィクトア。好きよ」
「なんか胸が苦しくて。俺もつらいんだけれど」
「そうね、わたくしも同じ気持ちよ」
「よくないんじゃないかな。俺は、君にそこまでしてもらう価値あるかな」
「あるかな、じゃないのよ。あったと思わせたいのよ。だから……わかって」
レナーテは不安そうな声をあげる彼に、目を細めていった。最後の言葉はらしくもなく、優しい声のお願いで、その言葉を最後に唇がふさがってもう言葉は出てこない。
苦しくとも、少しばかり怖くとも、あまりよい初めてではないけれども、しかし悪いことなどないのだ。
なんせただ、恋し合っている二人が触れ合うだけなのだから。お互いがどれほど大切か分かち合うだけなのだから。
間違ってなどいない、お互い当たり前だったと思うように、明日には無理でも、きっとそのうち思えるように。
願いを込めながら夜は更けていく。ヴィクトアの肩に顔をうずめたレナーテはやっぱり少しインクのにおいがして落ち着くなと思ったのだった。




