第三章 裏切りのリップグロス
その日、高橋は放課後の見回りを終えた後、昇降口の前で足を止めた。
生徒の下校時刻には毎日、不定期で抜き打ちチェックを行うことにしている。
誰が、どのタイミングで、どれほどの気の緩みを見せるか。そこに人間の本質が現れるからだ。
「帰り際が、いちばん“素”が出るんだよね」
通りすがる生徒たちは、一様に彼の視線に緊張した面持ちを見せて通り過ぎていった。
そんな中、一人だけ、目を伏せず堂々と歩いてくる生徒がいた。
如月静香だった。
「如月。ちょっといいかな」
彼女は立ち止まり、無言で高橋を見つめ返す。その視線に、従順さはないが、敵意もない。
ただ一つ、彼にとって忌々しい“平静”があるだけだった。
「面談、しようか。明日の放課後、生徒指導室で待ってるね」
「はい」
短い返事を残して、如月は去っていった。その背中には、一切の揺らぎがなかった。
翌日、指導室。高橋は先に到着し、ノートを開いたまま静香を待っていた。
数分後、ドアがノックされ、彼女が入ってくる。
「どうぞ」
高橋が促すと、静香は無言で椅子に腰掛けた。彼女の唇にわずかな光沢があるのを、
高橋は見逃さなかった。
「それ、何?」
「これですか?ただのリップです」
「無色に見えるけど、グロスだよね。照明の反射で艶が出てる。これ、学校には不適切だよ」
「乾燥してたので。色はついてません」
高橋は目を細める。
「色がつかなくても、“見た目に影響を与える”時点で、化粧と判断できるよね。
君がそれを知らなかったとは思えないけど」
静香は一拍置いて答えた。
「先生は、どうしてそんなに厳しいんですか?」
「君たちの未来を守るためだよ」
「それは“守る”じゃなくて、“囲う”じゃないですか?」
高橋の視線が一瞬だけ揺れた。
「それでも、間違ってるとは思ってないね」
沈黙が流れた。高橋は静香のノートに、ゆっくりと記録を書き加えた。
如月静香──初の逸脱。
行為:無色グロスの使用。
態度:反省の色なし。
傾向:思考的抵抗強し。
だが、彼はまだ気づいていなかった。静香のポケットの中に、学校の規則に反する“色付きグロス”が、もう一本隠されていることを。
それは、ただの違反ではなかった。
それは、彼に対する宣戦布告だった。