胸ドン
きっと、河内さんの脳内にはこんな光景が浮かんだんだろうな。
振り向きざまに押し相撲の突っ張り気味に僕の胸をドンと突いて、そのまま不意をつかれた僕はフラフラと後退してエレベーターに中に戻されて扉が閉まり閉じ込められると。
でも、小柄で華奢な河内さんがこちらの胸を突いても力が弱いので、ただ彼女は両腕を伸ばして僕の胸に手を置いた状態で二人が固まっただけ。
エレベーターは四機あり、その時間は結構出勤ギリギリで、ひっきりなしに出勤者の乗るエレベーターが到着するなど、人通りが多い時間にも関わらず何故かその時はエレベーターが来ることはなかった。
他の出勤者がいたら、この光景をどんな目で見たんだろう。
河内さんは両手を僕の胸のあたりで押さえたままなので、まるで抱き合っているかのような至近距離で時空が歪んだかのように静止している二人。
ところで、この女性が「クルっと廻って振り返る」のが実は僕のツボであった。
記憶にある限りの初めてが1996年2月の「とんかつ綾」時代のバイトであった当時南山大学の2回生だった雅恵さん。
あの頃は他に社員はいない状態なので休みなどなかった。
その代りに雅恵さんがラストに入る日はレジの締めなど全てを任せて20時頃に帰っていた。
だが、三重県桑名市出身の雅恵さんは授業がハードな1・2回生の間は独り暮らしをしていたが授業にあまり出なくてよい3回生に進級と同時に実家に戻ることにしたので辞めることになってしまった。
もうすぐ雅恵さんが辞めるというある平日。
珍しくキッチンの締めが僕でホールの締めは雅恵さんだった。
八事の店はジャスコのB2Fにあり、ジャスコ自体は20時に閉店するためB1階以上が閉店する20時以降は殆どお客さん来ない。
従って、通常のシフトでは20時以降はホール・キッチンとも各々1名体制である。
僕がキッチンでラストを行うときはホールは女子大生のバイトがラストで、雅恵さんがホールに来る日はラストを任せ、キッチンも男性バイトに任せる。
だから、平日で雅恵さんと二人きりになることはあまりなかった。
この日も20時以降はガラガラだった。
22時閉店だがラストオーダーは21時30分。その時点でお客さんがいなければ片付け次第終了となる。
お客さんが少なくてもソース瓶の洗浄とかホール・キッチン問わず洗い物は多い。僕はとんかつを揚げる2槽あるフライヤーの1槽の火を落として洗い始めた。
そして暫くして本来ならキッチン側の仕事である洗い場に雅恵さんが立っていることに気が付いた。
フライヤーが2槽並んでおり、その隣がコンロになっている。そしてフライヤーを使う人から見て右側の壁沿いに洗い場があり自動洗浄機が備えている。
つまりフライヤーの前に立っている僕から見て洗い場にいる雅恵さんは後ろ向きになっており、僕から彼女の後姿を見ることは出来るが、彼女はこちらの様子は分からない。
最初、洗い場に洗い物を持ってきたと思っていたら、自発的にホールにも関わらず彼女が洗い物を始めた。そして、その後ろ姿に見とれてしまった。
時間にしたらホンの一瞬手を止めて横目でのチラ見。すると、背中越しなので僕が見ていることなど気が付くはずのない彼女が急に体ごとクルっと180度反転して振り向いた。
ドキッとした。
そして、彼女は制服であるエプロンを広げて言った。
「ほらね、真っ黒!!汚れちゃった!!」
そう言って雅恵さんはにっこり微笑んだ。
その笑顔は本当に可愛かった、まるで天使のように。
そして、今でも忘れられない。4K、いや今なら8Kのテレビ画像かというぐらいクリアに映像が頭にこびりついている。
僕が見ていたことなんて分からないはずなのに最高の笑顔をくれた。
そして、これが彼女の最後のバイトとなった。
次は2000年頃の郁子ちゃん。
キッチンの片付けも終わり、水を床にホースで流してブラシで洗剤をつけこすり水を切るという作業を郁子ちゃんがしていて少し店長として動きを見ていたのだが、その動作がまるでスローモーションをみているような錯覚に陥る。
ここって、牧場だっけって思えるほど牛がゆっくり牧草を食べているみたいに。
でも、さぼっているわけでなく本人なりには努力はしている。
まぁ、真面目にやってるし『遅い』とは怒れないなぁと思って見てたらこちらの視線に気が付いたようでクルっと振り返ると
「な~に~?」
と少し時空がゆがんでいる異次元にいるかのような声で聞いてくる
「いや・・・別に・・・何にも言ってないよ」
「目が・・・言ってる」
鈍いようで案外鋭いかもしれないなと思った。
そして涼葉。涼葉は初めて会った時に金山駅の地下鉄の4番出口の踊り場で突然立ち止まりクルっと振り返ったかと思うと両手で僕の頬をそっと軽く押さえて唇を重ねてきた。
だから、時々河内さんってこちらの心を読めるのかなぁって思ってしまうことがある。誰も知らないはずのこの「クルっと振り返られるのに弱い」をさりげなく出来た人って今まで3人ぐらいしかいなかったのに、あっさり出来るんだなぁって。




