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「アルファの男、ベータの男、女の生殖機能を兼ね備えるオメガの男。そして男の生殖機能を兼ね備えるアルファの女。月経中のクイーンは男の役割を持つ人間をヒイキせず平等に無自覚に誘惑する」
クイーン・オメガの性フェロモンは「第二の性」関係なしにオスの下半身を支配する。
「ヒートとはまた別物だ。似て非なるもので決定的な違いがある。ヒートの影響を受けるのはアルファにほぼ限定されるが、クイーンの月経はベータどころか同じオメガにまで興奮をもたらす。それにクイーン自身が発情しない。ただ苦痛があるだけだ」
礼拝堂で水無瀬が服用したのは生理痛の専用薬だった。いつ、どこで来るかわからない耐え難い寄せ波のため、薬だけは持ち歩くようにしているという。
(確かに友達とは様子が違っていた)
教室でヒートになった皐樹の友達は熱病にでも罹ったみたいに体が火照って、顔は上気し、発汗していた。先程の水無瀬は指先まで蝋色と化していて正反対の様子であった。
「ただし、影響を受けるのには個人差がある。俺は平気だ。お前もな。でも凛は駄目だ。弟の刀志朗や両親、近しい身内は影響されない」
「女の人は……」
「ベータとオメガの女は影響ゼロだ。ただ単に廻にのめり込む信者はいるけどな」
凹凸豊かな雄々しい喉を反らした桐矢は天井に向かって話を続ける。
「今までにも何回かあった。初経が来たのも廻が学校にいたときで、あれは――」
「もういい、そこまで話さなくていい」
「……ああ、そうか。お前も同じなんだな、皐樹」
水無瀬のプライバシーに必要以上に踏み込むのを躊躇した皐樹は、首を傾げる。意味深な台詞に含まれたその意図を、桐矢は明らかにしなかった。
「どうして廻と一緒にいたんだ、お前」
「あ……校内を見て回っていて、礼拝堂に行ったら水無瀬さんがいたんだ」
「放課後の学校探検か。面白そうだ」
次第に暮れていく外。窓の隙間から訪れた風にレースカーテンが音もなく揺れた。
「クイーン・オメガなんて初めて会った」
下校するのも何となく憚られて、前屈みになった皐樹はスクールバッグを抱く。
「軍事政権に断固反対して民主化に導いた某国のリーダーも、然る物理学賞を二度受賞した世界的に高名な学者も、六本腕かと錯覚するレベルの超絶技巧でアシュラと呼ばれたピアニストも。クイーンの母親から生まれた」
「この間、難しいがん手術を成功させてきたお医者さんも公表してた……自分の母親はクイーン・オメガだって」
「次世代スパコンを開発した研究者もな」
モッズコートを脱いだ桐矢は長袖のシャツを捲っていた。筋張った腕、縋り甲斐のありそうな肩、しなやかに引き締まった体のラインがいつになく明確に見て取れた。
「それだけの才能を生み出すとなると、わかるだろ」
「よくない目的を持つ人間に狙われる……?」
「そうだ。選ばれし揺り籠から生まれた子どもを攫うどころか、自分達の監視下で計画的に出産させようとする連中だっている」
(それは、つまり、無理やりクイーンを……)
「そんなに危険な身なら保護されたりしないんだろうか?」
「海外では特別措置として保護プログラムが組まれてる国もあるが、この国にはない。余所と比べてクイーンを狙う物騒で強欲な連中が不在で、その点では平和的でいいのかもな。それでもアルファだと名乗って最低限の自衛はとっているが」
桐矢の長めの前髪がさらりと流れる。鋭い目の片方にかかり、昼よりも夜にしっくりくる危うげな雰囲気に拍車がかかった。
「廻の祖父が隣慈の現理事長で、他の親族も学園の運営に携わっているのは知ってるか」
「そこまでは聞いてない。創立者の血筋だってことは、お父さんに教えてもらったけど」
「カオルの奴、口が軽いな」
「ッ、お父さんがべらべら喋ったわけじゃない! アンタと水無瀬さんは仲がよさそうだって言ったら、普通に話してくれただけで、それ以上のことは……!」
父親の潔白を訴えようとして声量が増した皐樹は、自分の唇の前に人差し指を立てられて、ぐっと詰まった。
「しー」
奥のベッドを気にして皐樹は従順に大人しくなる。桐矢は口角の片方を吊り上げた。観葉植物の瑞々しい緑やパステルカラーの配色でリラックスできる空間に一向に馴染まない、原色の塊じみた彼は、整髪料をつけていない皐樹の頭をポンポン撫でた。
「身内の学園関係者、それからほんの一部の教師が廻のことはちゃんと把握してる。さっきの保健室の先生みたいにな」
(お父さんは把握していなさそうだ……)
そのとき、不意に仕切りのカーテンが開かれた。水無瀬と視線が重なって皐樹は思わず息を止める。
「もう起きていいのか、廻」
布団の上にかけられていたモッズコートを桐矢に返し、水無瀬は頷く。
「来てくれてありがとう、舜」
顔色は大分よくなっていた。ブレザーをきちんと着込み、ネクタイも締め、漆黒の髪に寝癖一つ見当たらない彼は皐樹の方を向いた。
「皐樹も。迷惑をかけたな」
クイーン・オメガだとわかった水無瀬と改めて顔を突き合わせ、反射的に萎縮していた皐樹は首を横に振る。
「お前のこと、皐樹に話したぞ」
「舜が話しているのは聞こえていた」
「可能な限り、もっと色んな奴にお前の本当の姿を知ってもらうのもいいかと思ってな」
「本当の姿、か」
縮こまっている皐樹に水無瀬は微笑みかけた。
「虚偽の共犯にさせてすまないな」
「いえ、そんなこと……」
「犬猿の仲かと思ったが、そうでもないのか。仲よく並んで座っているところを見ると」
心外極まりない。水無瀬の正体を知って動揺し、うっかりパーソナルスペースに桐矢の侵入を許していた皐樹は全力で否定しようとした。
「兄さん!!」
否定する前に水無瀬の弟・刀志朗が保健室へ駆け込んできた。
外部コーチが指導するバスケ部の練習を終え、桐矢からのメールを確認した弟は、トレーナーにハーフパンツという練習着のまま兄の元へすっ飛んできたらしい。
「大丈夫だ、刀志朗。舜が来てくれたし、皐樹にも助けられた」
「皐樹が? よかった、ありがとう!!」
「俺は特に何も、荷物を運んだくらいで」
すぐそばへ来たかと思えば両手で片手を握り締められる。刀志朗の過剰なスキンシップと不相応な感謝に皐樹は当惑した。
「だって、何があるか、どんなことが起こるかわからないから」
刀志朗はうっすらと涙まで浮かべていた。