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2-2

 帰りの挨拶が済み、放課後になった。


 広いキャンパスを時々散策している皐樹は、今日はどうしようかと考えつつトイレへ向かう。


(隣慈のトイレはすごく機能的だ)


 男女別は当然のことながら、そこからさらに「第二の性」ごとに分かれている。その上、校内で万が一発情期になった場合を想定して、呼び出しボタンが設けられている多目的トイレもあった。職員室に繋がっていて、もしも発情期になったら駆け込んで教師を呼ぶよう、入学後の校内案内で説明を受けていた。


(中学でも発情期の対策が進んでいたなら、あんなこと、起こらなかったかもしれない)


 廊下で楽しそうに笑い合う同級生と擦れ違う際、皐樹は自然と俯く。その足は高等部棟の最上階に向かっていた。


 最上階の四階には礼拝堂がある。


 階段を上ってすぐの廊下の突き当たり、両開きのガラス張りの扉をそっと開けた。白い漆喰壁。高い天井。張り巡らされた剥き出しの梁にアンティーク調の照明器具。高等部の生徒を収容できる広さで、中二階席もある。正面の講壇の中央には説教卓、左の角には立派なパイプオルガンが設置されていた。


 ずらりと並ぶ木造の長椅子、一人の生徒が通路沿いの前方に着席していた。男子生徒のようだ。すっと背筋を伸ばして正面を向いていた。


 皐樹は最後列に腰を下ろした。三年生の教室まで返しにいこうか迷ったが、桐矢と顔を合わせるのが嫌で手元に置いていたレジ袋をスクールバッグと共に横に下ろす。


 カーテンは束ねられて西日が格子窓を染めていた。肌寒い。毎朝の礼拝とは趣きの違う午後のひと時に目を閉じれば、鳥の囀りが聞こえてくる。市街地だというのに街中のノイズは遮断されて、礼拝堂には心地よい静けさが流れていた。


(今日の晩ごはんはどうしようかな)


 皐樹は取り留めのない雑念に捕らわれる。病室で最期を迎えた母親のことを思い出したりもした。


 親交が途絶えた友達のことも。


 去年、皐樹が中学三年生のときに同じオメガ性の友達が教室でヒートになった。


 休み時間で教師は不在、真っ先に反応したのはアルファ性のクラスメートだった。発情期特有のフェロモンに中てられたその内の一人が、初めてのヒートで混乱していたオメガに襲いかかろうとした。


 咄嗟に皐樹はそのアルファを殴った。


 理性を忘れていたアルファをオメガの友達に近づけさせまいと、オロオロする皆の前で。とにかく無我夢中だった。教師が駆けつけ、その場は何とか事なきを得たが、後に皐樹は責められた。教師にも、襲いかかろうとしたクラスメートの親にも。


『これだからオメガの片親は』


 学校へ駆けつけたカオルを目の前で詰られて、皐樹は悔しさで胸がいっぱいになった。


 皐樹の友達を襲いかけたアルファは教室のリーダー的存在で成績優秀な男子生徒だった。父親は会社経営者で裕福なエリート層に属していた。


 一週間近く学校を休んだ後、登校してきた友達が取り巻きに囲まれた彼に『迷惑をかけてごめんなさい』と謝り、自分を無視するようになると、かつてない空しさに皐樹は襲われた。


 オメガ性の吉野皐樹がヒートになった。そんなデマまで校内を駆け巡り、その心はすっかり萎えた。


『皐樹が友達を守ったことは誇らしく思うよ』


 カオルにかけられた言葉が唯一の救いであった。


(……元気にしているんだろうか……)


 ――数十分が経過した頃だろうか。


 瞼の裏に鋭い眼差しと不敵な笑みがちらついて皐樹は目を開けた。手をつけていないレジ袋をチラリと見、そろそろ帰ろうかと腰を上げる。前方に座っていたはずの生徒は、いつの間にかいなくなっていた。


 通路へ出た皐樹は、数メートル先のところで当の生徒が蹲っているのにぎょっとした。


「大丈夫ですか!?」


 荷物を放り出して駆け寄り、カフェテリアで桐矢と一緒にいた水無瀬廻だとわかり、必死になって呼びかける。


「水無瀬さん、どうしたんです、具合が……」


 水無瀬は通路で胎児のように丸まっていた。顔からは血の気が失せ、蝋の色をした片手は腹部を押さえていた。


(何だろう?)


 今すぐ教師を呼びにいくべきなのに、胸の内がささくれ立つような、無視できない違和感に囚われて皐樹は棒立ちになった。


「……う」


 水無瀬が呻吟する。我に返った皐樹は一先ず教師を呼んでくるため、その場を離れようとした。


「待ってくれ」


 半身を起こそうとしている水無瀬が視界に入り、慌てて背中を支えた。


「水無瀬さん、俺、先生を呼んできます」

「呼ばなくていい」


 黒々とした睫毛を伏せて水無瀬は吐き捨てた。体調不良のせいなのか。カフェテリアでの穏やかだった物腰からは想像できない、刺々しい声だった。


「お腹が痛いんじゃないですか? 誰か呼んだ方が……」


 皐樹は口を閉ざす。明けの明星の如く瞬く瞳に見据えられ、底無しの深淵に呑まれるような錯覚に背筋を震わせた。


「舜を呼ぶから、いい」


 水無瀬はズボンのポケットから食み出ていた携帯を手にした。震える指で彼の連絡先を選ぶと、電話をかけた。


「舜、アレが来た、チャペルにいる」


 それだけ告げると、携帯を床に落とし、また背中を丸めて腹部を押さえた。


 桐矢が来る。


 苦しむ水無瀬を一人にはできずに、皐樹は無言でただ寄り添い続けた。


 西日に溺れた礼拝堂。


 彼がやってくるまでの、たった数分間が、とてつもなく長く思えた。


「廻」


 ガラス張りの扉を勢い任せに開き、モッズコートの裾を翻して、桐矢は礼拝堂へ飛び込んできた。



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